慈愛の対価と、見えない亀裂
聖ミルトス神殿の奥、エリに与えられた居室。そこは今や、一国の王ですら勝手に入ることを許されない、現人神の「聖域」となっていた。
だが、その静寂を破るノックの音が響く。
「エリ様、少しよろしいでしょうか」
入ってきたのは、主席神官カルミナだ。
普段は冷静沈着、神殿の実務を一手に引き受ける彼女だが、今日ばかりはその瞳に、隠しきれない熱を帯びた「切実さ」が宿っていた。
「どうしたの、カルミナ。そんなに改まって」
エリがソファから顔を上げると、カルミナはその場に跪き、深く頭を垂れた。
「……折り入って、エリ様に請願がございます。あの海域に眠る『レヴィアタンの遺骸』……あれを神殿の管理下に置くという、正式な宣旨を賜りたいのです」
エリはわずかに眉を寄せた。
「宣旨? また大仰な言い方ね。あんな巨大な死骸、放っておいても誰かが勝手に持ち出せるようなものじゃないでしょうに。それに、聖なる神殿がそれほどお金を欲しがるとも思えないけど?」
冗談めかして言ったエリに対し、カルミナは顔を上げ、淀みない口調で言葉を継いだ。
「いいえ、エリ様。理想だけでは救えぬ命がございます。神殿が運営する孤児院、そして行き場を失った老人たちの養老院……。現状、それらは職員たちの献身という名の手弁当で維持されています。ですが、限界なのです」
「限界……?」
「はい。専門的な知識を持つ医師や介護者を雇い、子供たちに腹いっぱいの食事を与え、老いた人々に暖かな寝床を用意する。国中に福祉を広め、真の意味で人々を救うためには、祈りだけでは足りませぬ。どうしても、先立つものが必要なのです」
カルミナの言葉には、現場を預かる者特有の重みがあった。
現代知識を持つエリにとっても、「福祉には予算が必要だ」という理屈は、ぐうの音も出ないほど正論だった。
「……そう言われれば、確かにそうね。でも、あんな巨獣の鱗、一枚売るだけでも相当な金額になるんじゃないの?」
「今ある施設を維持するだけなら、そうでしょう。ですが、施設そのものが圧倒的に不足しているのです。この大陸の津々浦々まで救いの手を伸ばすには、鱗一枚では……あまりにも足りませぬ」
カルミナは一歩踏み込むようにして、その希望を口にした。
「鱗を、十枚。それだけの採取をお許しください」
十枚。
あの戦艦の装甲すら凌駕するレヴィアタンの鱗だ。市場に流せば、小国の国家予算すら揺るがしかねない莫大な富となる。
だが、目の前の神官が語るのは、弱き者たちのための「善意」の使い道だった。
「わかったわ。一々もっともな言い分ね。……いいわよ、許可するわ」
エリは小さくため息をつき、カルミナを見据えた。
「ただし、条件よ。その資金は孤児院や養老院、あくまで福祉のためだけに使うこと。いいわね?」
「女神エリよ……深いご理解、ありがたき幸せに存じます」
カルミナは慇懃に礼を述べ、その場を去った。
去り際の彼女の背中は、重荷を下ろした安堵に震えているようにも見えた。
だが。
現代の銃火器を操り、神の視点すら手に入れつつあったエリでさえ、この時はまだ気づいていなかった。
カルミナが欲した「莫大な資金」の真の目的が、純粋な善意だけでは割り切れない、ドロドロとした「組織の論理」と「人間の業」に繋がっていることを。
そして、その鱗十枚が、平和な世界に新たな争いの種をまく「呼び水」になるということを――。




