干ばつと海の魔物
王が山のような貢物を神殿に捧げ、恭しく退散した後のことだ。
居室に戻ったエリは、傍らに控える賢者オーエンに問いかけた。
「ねえ、オーエン?」
「はい、エリ様。いかがなされましたか?」
テーブルに広げられた古めかしい羊皮紙の地図。その地名をなぞりながら、エリは真剣な面持ちで言葉を継ぐ。
「この世界の気象について教えてほしいの。高気圧とか低気圧、あとは前線……。そういう仕組みがどうなっているのかをね」
オーエンは一瞬、きょとんとした顔を見せた。博識な彼にとっても、その単語は未知の響きだったのだろう。だが、そこは流石の賢者である。すぐに「気象……大気現象のことですね。承知いたしました」と深く頷き、地図の端を指し示した。
「この中央の陸地は『母なる大地』と呼ばれており、我が王国もこの肥沃な平原に位置しております」
「なるほど、この間の火山は北側の山地にあるのね」
「はい。地図にも煙の記号が記されている、この付近です」
オーエンの指が、陸地の境界を超え、西と南に広がる広大な空白地帯へと滑る。
「そして、この大地の西と南に広がるのが『大いなる水』と呼ばれる塩水の湖です」
「私のいた世界では、それを『海』と呼んでいたわ」
「海……。では、今後はそう呼びましょう。本来の自然の摂理であれば、この海から湿った空気が雲となって沸き上がり、大地に恵みの雨をもたらすはずなのですが……」
そこで、オーエンの表情が影を落とした。
「……不可解なことに、最近は海の上に雲がまったく発生していないようなのです」
「……海で、何かが起きているのかもしれないわね」
エリの独り言に、背後で腕を組んでいたナイトホークが鋭い視線を向けた。
「行くのか、エリ。戦神を自称するお前に、雨を降らせる術があるのか?」
「ええ。何もしないのも寝覚めが悪いし。それに……カルミナが王様からの貢物を受け取っちゃったから、お代分は働かないとね」
エリが不敵に微笑む。
「ナイトホーク、オーエン。南の海の様子を見に行くわよ」
刹那、エリが転移魔法を起動した。視界が激しく揺らぎ、次の瞬間には、身体を叩く激しい潮騒の音が鼓膜に届いた。
切り立った海岸線。そこから眼下に広がる光景を眺めたエリは、思わず息を呑んだ。
「おかしいわ……」
「何がでしょうか、エリ様」
「空はこんなに透き通るような青なのに、海が灰色なのよ。海は空を映し出す鏡。青空なら海も青くなるはずだわ。この海、何かが変よ」
オーエンが険しい岩場を危うい足取りで下り、波打ち際まで駆け寄る。彼は慎重に、その不気味な灰色の海水に指先を浸した。
「……っ! エリ様、水が異常に冷たくなっております! 今の時期、これほど水温が下がるなど、あり得ないことです」
その報告を聞いたナイトホークが、地を這うような低い声で呟いた。
「……『レヴィアタン』。とんでもない魔物が隠れているのかもしれんな」
「レヴィアタン? それってどんな魔物なの?」
エリが尋ねると、ナイトホークは抜剣こそしないものの、警戒を解かずに海を睨みつけた。
「厄介な相手だ。クジラのような巨体、竜のような強靭な鱗、そしてワニに似た凶悪な頭部を持つと言われている、海の覇者だ」
オーエンが弾かれたように顔を上げる。
「レヴィアタン……! もし奴の仕業だとしたら、海水が冷たいのも道理です。あの魔物が纏う竜鱗は**『解けない氷』**で出来ているという伝承があります。冷気を自在に操り、海そのものを凍結させるほどの力を。海水温を極端に下げているのは、間違いなく奴の魔力でしょう」
エリの中で、バラバラだったパズルのピースが音を立てて嵌まった。
「……繋がったわ。巡り巡って、干ばつの原因はこいつよ」
「と、言いますと?」
「いい? 海の水が太陽に温められて蒸発し、雲を作る。その雲が風に運ばれ、陸に雨を降らせるの。でも、レヴィアタンが海を冷やしきってしまったら……」
「水が蒸発せず、雲が生まれない。結果として、大地には一滴の雨も降らぬ、というわけですか」
オーエンの補足に、エリは重く頷いた。
ナイトホークが剣の柄に手をかけ、重々しく告げる。
「レヴィアタンを討伐しない限り、この大地の乾きは終わらぬか。だがエリ、これは一筋縄ではいかぬぞ。あいつは――海そのものと言っても過言ではない怪物だからな」
灰色の海が、不気味に、静かにうねっていた。
その深淵に眠る巨大な影を、彼女たちはまだ知らない。




