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帰還、そして拒絶

 鏡の前で、寝癖のついた前髪に寝癖取りのヘアスプレーを吹き付ける。

 シュッ、という聞き慣れたガスの抜ける音。指先に残る、少しベタつく感覚。


「……あ」


 思わず声が漏れた。

 鏡の中にいたのは、ついさっきまで見慣れていた金髪碧眼の、完成されすぎた「女神」の姿ではなかった。


 寝不足気味で少し腫れた瞼、日焼けした地黒の肌、お世辞にも高いとは言えない鼻。そして、何より自分らしい、重みのある黒髪。


「……戻って、来たんだ」


 自然と、頬が緩んだ。

 白く細すぎたあちらの手とは違う、鉛筆だこが指先に残る自分の手。それを鏡の自分に重ねる。異世界での奇跡や、耳を劈く砲声が、まるで長い夢だったかのように遠ざかっていく。


(……変な気分。自分の顔を見て、こんなに安心するなんて)


 我に返ると、卓上時計の針が刻一刻とタイムリミットを刻んでいることに気づいた。


「おっと、遅刻しちゃう!」


 制服のスカートを翻し、階段を駆け下りる。

 あちらの世界では馬車に揺られて移動したが。ここの玄関に置いてあるのは、前カゴが少し歪み、チェーンが時々カチャカチャと鳴る、使い込んだ白い三段変速の通学用自転車だ。


「いっけええええ!」


 サドルから立ちあがって、全力でペダルを漕ぐ。

 肺に流れ込むのは、排気ガスの匂いが微かに混じった、懐かしいこの街の空気。異世界の澄み切った魔力混じりの大気よりも、ずっと胸が躍った。


 滑り込みで教室に飛び込むと、そこには「いつもの」光景があった。


「おはよ、エリ! 今日も爆走してたでしょ。窓から見えたよ」

「おはよう、エリ。髪、後ろ側ちょっと跳ねてるよ?」


 笑いながら声をかけてくる友人たち。

「おはよう」と返す自分の声が、聖女のそれよりもずっと低くて、心地よかった。


(そうよ、これこれ。この『普通』が欲しかったの)


 午前中の退屈な授業。放課後、コンビニで買ったドーナツを分け合う甘い時間。帰宅して、家族と囲む夕食の湯気。

 魔法も、銃火器も、神格もいらない。

 私はただの女子高生で、ここが私の居場所なのだと、細胞の一つ一つが満足感に浸っていた。


 ――もう、あの世界に帰らなくてもいい。

 心のどこかでそう確信し始めた、ある日曜日のことだった。


 友人に誘われ、地元でも「霊験あらたか」と評判の神社へ出かけた時のことだ。

 友達は口々に「鳥居をくぐるとなんか空気が清々しくなるのよね」「心が穏やかになるというか」と話していたが、エリは鳥居をくぐったとたん何かの圧力を感じて本殿に近づくほど圧は強くなると感じていた。

「あ、ここ結構並んでるね。エリ、お賽銭いくらにする?」

「五円玉あったかな。……あ、あった」


 朱色の本殿の前で、二礼二拍手。

 賽銭箱に硬貨を投げ入れ、目を閉じた、その時だった。


『――何用だ、異界の神よ』


 鼓膜を介さない、頭の芯を揺さぶるような冷徹な声。

 周囲の喧騒がふっと消え、真夏のような日差しの中でも、エリの背筋には氷を押し当てられたような寒気が走った。


(え……?)


 目を開けても、隣にいる友人は平然と手を合わせている。

 声は、目の前の古びた社の中から、圧倒的な「拒絶」の意志を持って響いてきた。


『ここは汝のような異界の神が、在ってはならぬ場所。姿を変えようと、その魂に刻まれた力は隠せぬ』


 心臓の鼓動が、警報音アラートのように速くなる。

 イメージしようとしなくても、指先が勝手に「力」を求めて疼くのを、エリは必死で抑え込んだ。

(私はこの世界で生まれて育ったの。異界の神に攫われて異世界で過ごす間に神性を得ただけ)


『そうか汝の立場は分かったが、すでにその存在そのものが、この世界の調和を乱す不純物になっている。速やかに去れ。我らが司るこの世界にお前が存在することは最早許されないのだ』


「……っ、待って、ください!」


 エリは思わず、声に出して抗弁した。

 隣の友人が「エリ? どうしたの?」と不思議そうな顔をしたが、それどころではない。


(私は、ただ戻ってきただけです! 乱すつもりなんてない、里帰りをしただけなのに!)


 必死に心の中で叫ぶ。

 しかし、帰ってきた答えは、憐れみすら含まない、絶対的な断絶だった。


『里帰り、か。……神域に至った魂は、もはや人の器には収まらぬ。自覚せよ、異界の神よ。汝は既に、この世界にとっての『異物』なのだ』


 神社の森を抜ける風が、エリの体を突き放すように強く吹いた。

 握りしめた拳が、小刻みに震える。


 取り戻したはずの日常。

 懐かしい、自分の顔。

 けれど、この世界の「理」そのものが、今のエリを明確に拒絶していた。


(私の居場所は……もう、ここにはないの……?)


 真っ青な空の下で、エリは自分の魂が、この世界から浮き上がってしまっているような、恐ろしいほどの孤独を感じていた。


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