第七話 『はじめての甘味』
村を出てから、どれくらい歩いただろう。
街道は緩やかな丘陵地帯を抜け、遠くまで続いていた。空はよく晴れ、時折吹き抜ける風が道端の草を揺らしている。
次の村までは、まだしばらくかかる。
クレドは歩きながら懐から小さな革袋を取り出し、中に僅かに残った硬貨を見つめた。
(減ったな……)
山を下りたときに持っていた金は、ハムエルが生前に渡してくれたものだった。
当面は困らないと言われていたが、二十八年間ほとんど金を使わずに暮らしてきたクレドに、世間の物価など分からない。
特に想定外だったのが宿代だ。
山なら、その辺で寝ればいい。雨が降れば洞窟を探し、寒ければ火を焚く。それで二十八年間生きてきた。
だが、村や町では寝るだけでも金がかかる。
おまけに先の村では、ビアーに負けて滞在まで延びた。
(次の村までは取っておいた方がいいな)
革袋を懐へ戻し、そのまま街道を歩き続けていると、不意に甘い匂いが鼻をくすぐった。
「…………?」
街道脇に、小さな屋台があった。
木で組まれた古びた屋台の前には数人の客が並び、その奥では腰の曲がった老婆が何かを焼いている。
丸い鉄板へ白っぽい液体を流すと、ジュウウ、と小さな音が鳴った。
(なんだ、あれ)
クレドは足を止める。
液体だったものが熱を受けて膨らみ、表面に小さな穴がぷつぷつと浮かんでいく。
老婆が薄いヘラを差し込むと、くるりとひっくり返した。
「…………!」
現れた綺麗な焼き色に、クレドの目が釘付けになる。
(おお……)
老婆はそれを皿へ移すと、上に黄色い塊を乗せた。
(バター!)
ローロン牛のステーキに乗っていたものと同じだ。
さらに傍らの壺から黄金色の液体を掬い、溶け始めたバターの上からとろりとかける。
(なんだ、それ)
皿を受け取った客が去り、次の客が前へ出る。
また生地が焼かれ、バターと黄金色の液体がかけられる。
次の客も、その次の客も。
クレドはその場から動かなかった。
やがて最後の客がいなくなると、老婆が顔を上げた。
「お前さん、さっきからずいぶん熱心に見とるのぉ。パンケーキがそんなに珍しいかい?」
「パンケーキ?」
「これじゃよ。食べたことないのかい?」
「ない」
「なら、一つどうじゃ?」
「金がない」
老婆が目を瞬いた。
「正確には少しあるが、次の村まで取っておく」
「ほっほっほ! それでずっと見とったのかい」
「見るのはタダだろ」
「そりゃそうじゃ」
老婆は楽しそうに笑うと、新たな生地を鉄板へ流した。
「食べな」
「払えないぞ」
「わしが食べてほしいんじゃよ。そんな顔で見られたら、作った方も食わせてみたくなるわい」
焼き上がったパンケーキが皿へ移され、その上にバターが乗る。
最後に、あの黄金色の液体がとろりとかけられた。
「これはなんだ?」
「蜂蜜じゃよ」
「蜂蜜……」
名前だけなら知っているが、食べた記憶はない。
「ほれ」
差し出された皿を見つめ、クレドは老婆を見る。
「本当にいいのか?」
「ああ」
「……そうか」
皿を受け取り、木のフォークでパンケーキを切り分ける。
ふわりと柔らかな生地には、溶けたバターと蜂蜜がたっぷりと染み込んでいた。
一口食べた瞬間、クレドの目が僅かに見開く。
(あまぁ〜……)
山で食べた木の実や果実とは比べものにならないほど濃い甘さに、バターの塩気と香りが重なる。
(なにこれ〜……)
もう一口。
ふわふわの生地を噛むたび、染み込んだ蜂蜜とバターが口いっぱいに広がっていく。
(あま……うま……)
気づけば次へ次へとフォークが伸びていた。
そんなクレドの前へ、老婆が木のコップを置く。
「今朝搾ったばかりのミルクじゃ。これも飲んでみな」
「これもいいのか?」
「今さら一つも二つも変わらんわい」
濃いミルクを口へ含むと、甘さでいっぱいになっていた口の中がすっと落ち着き、またパンケーキが欲しくなる。
(こいつ……パンケーキを復活させやがった……)
パンケーキを頬張り、ミルクを飲む。
そしてまたパンケーキへフォークを伸ばす。
(うまぁ〜……)
夢中で食べているうちに、皿は綺麗に空になっていた。
「どうじゃった?」
「美味かった」
「ほっほっほ。そうかい」
嬉しそうに笑う老婆を見ながら、クレドは空になった皿へ目を落とした。
(俺……甘いもの、好きかもしれんな)
三十八歳になって、また一つ自分のことを知った。
食べ終えた皿とコップを返しても、クレドはすぐには街道へ戻らなかった。
屋台の脇へ腰を下ろし、老婆がパンケーキを焼く姿を眺める。
「お前さん、次の村へ行くんじゃないのかい?」
「もう夕方だ」
老婆は不思議そうな顔をしたが、それ以上は何も言わなかった。
時折やってくる客にパンケーキを焼き、硬貨を受け取る。その横でクレドは、ただ黙って座っていた。
やがて日が傾き、街道を行き交う人の姿もまばらになった頃、老婆が鉄板の火を落とした。
「さて、今日はこの辺にするかの」
残った材料や道具を片づけ、屋台の後ろへ回る。
二本の取っ手を握って力を込めると、ギギ……と車輪が軋み、重そうな屋台が僅かに動いた。
「婆さん、それ毎日押して帰るのか?」
「ああ。家まで半刻くらいじゃよ」
クレドは立ち上がると、老婆の横へ行って取っ手を握った。
「俺がやる」
「いやいや、いいんじゃよ」
「パンケーキもミルクも貰った」
「サービスじゃと言ったじゃろ」
「それは婆さんの都合だ。俺が返したい」
老婆はしばらくクレドを見つめ、やがて小さく笑った。
「変わった男じゃのぉ。なら、お願いしようかの」
「ああ」
クレドが屋台を引き始めると、先ほどまで重そうに軋んでいた車輪が軽々と回り始めた。
老婆もその横を歩き出したが、しばらく進んだところでクレドが足を止める。
「婆さん」
「なんじゃ?」
「乗れ」
クレドが屋台を指すと、老婆は目を丸くした。
「わしまで乗せる気かい?」
「歩くの遅いだろ」
「まったく……変わった男じゃのぉ」
呆れながらも、老婆は荷物の隙間へ腰を下ろした。
クレドが再び屋台を引き始めると、老婆を乗せているとは思えない速さで車輪が回り始める。
「お、お前さん! もう少しゆっくりじゃ!」
夕暮れの街道に老婆の声が響いた。
◇
「ここじゃよ」
老婆が指差した先には、街道から少し外れた場所に古びた木造の家が建っていた。
クレドは屋台を家の脇まで運び、取っ手を下ろす。
「助かったわい。婆一人じゃ毎日これが大仕事での。もう暗くなるし、飯くらい食っていきな」
クレドは少し考えてから頷いた。
「なら、貰う」
「そういうところは遠慮せんのぉ」
老婆は楽しそうに笑いながら家の扉を開けた。
家の中には小さなテーブルと二脚の椅子があり、壁際には使い込まれた食器棚が置かれている。
老婆は鍋を火にかけると、野菜と干し肉を入れ、クレドにはパンを渡した。
「適当に切っておくれ」
「ああ」
クレドが迷いなくパンを半分に切ると、老婆が吹き出した。
「ほっほっほ。随分と食うんじゃのぉ」
「多すぎたか?」
「いやいや。好きなだけ食べな」
老婆の笑い声を聞きながら、クレドは切ったパンを皿へ並べた。
やがて鍋から湯気が立ち、野菜と肉の匂いが狭い部屋に広がっていく。
二人分のスープがテーブルへ並べられると、クレドはパンを千切って浸してみた。
柔らかくなったパンを口へ運べば、染み込んだスープと野菜の甘みに、干し肉の塩気が重なる。
(これも美味いな)
「昔はの、この街道ももっと人が通ったんじゃよ」
向かいに座った老婆が、スープを飲みながら口を開いた。
「昼前からずっと焼きっぱなしでな。爺さんが生きとった頃なんぞ、わしが焼いて、あの人が客を呼んで……」
そこで老婆は一度言葉を止め、懐かしそうに笑った。
「あの人は声だけはでかくてのぉ。街道のずっと先まで聞こえとったわい」
「客が来るならいいだろ」
「本人もそう言っとったよ」
老婆は笑いながらパンを千切った。
その話をきっかけに、老婆の口から昔の思い出が次々と出てきた。
雨の日に二人で屋台をひっくり返してしまった話をしては笑い、パンケーキを焦がした日は爺さんに全部食べさせたのだと得意げに話す。
昔よく来ていた客の話になると、「あの子も今じゃ立派な爺さんじゃろうな」と懐かしそうに目を細めた。
クレドは時折相槌を打ちながら、スープとパンを食べ続けた。
いつの間にか食事を終えても老婆の話は続いていたが、クレドが席を立つことはなかった。
「……すまんの。わしばかり喋ってしもうた」
「別にいい。飯も美味かった」
「そうかい」
老婆は嬉しそうに笑うと、食べ終えた皿を重ねて立ち上がった。
クレドも食器を運ぶのを手伝い、その後も老婆の話を聞いているうちに、窓の外はすっかり暗くなっていた。
「もう遅い。今日は泊まっていきな」
「なら、そうする」
「本当に遠慮せんのぉ」
老婆は笑いながら食器棚へ向かうと、奥から小さな瓶を取り出した。
「ほれ。これも持っていきな」
「蜂蜜か」
「ああ。パンにつけても美味いぞ」
クレドは小瓶を受け取り、大事に荷物へしまった。
「すまない」
「礼を言うのは、わしの方じゃよ」
老婆は二人で使ったテーブルへ目を向けた。
「ここで一人で暮らしとるとな、夜は静かすぎるんじゃ。昔は向かいから爺さんの声が聞こえとったんじゃがな」
クレドは何も言わず、老婆の話を聞いていた。
「今日は久しぶりに誰かと飯を食って、随分と喋った。楽しかったよ」
「……そうか」
「ああ。じゃから、その蜂蜜はわしからの礼じゃ」
クレドは荷物へしまった小瓶へ一度目を落とし、そのまま寝床へ向かいかけた。
「婆さん」
「なんじゃ?」
「パンケーキ、美味かった。また食いたい」
老婆の顔に、柔らかな笑みが浮かぶ。
「なら、またいつか来な」
「ああ」
それから間もなく、二人はそれぞれの寝床へ入り、家の明かりも消えた。
◇
翌朝。
老婆はいつもの時間に目を覚ました。
「お前さん、朝じゃぞ」
声をかけても返事はなく、クレドが使っていた部屋を覗くと、すでに寝床は空になっていた。
「……もう行ったのかい」
随分と早起きな男だと思いながら家の扉を開けたところで、老婆の足が止まった。
「……なんじゃ、これは」
家の脇には、昨日まで僅かしか残っていなかった薪が、しばらく困らないほど積み上げられていた。
驚きながら近づいたところで水桶が目に入り、持ち上げてみればずしりと重い。
空になりかけていたはずの桶には、縁近くまで水が汲まれている。
老婆はゆっくりと庭を見回した。
昨日まで傾いていた柵は真っ直ぐになり、外れかけていた板もしっかりと固定されている。
「……いつやったんじゃ」
昨夜、自分が眠ってからに違いない。
呆然と庭を眺めていた老婆が、ふと屋台へ目を向けた。
まさかと思いながら近づき、車輪へ手をかける。
いつもならガタガタと動くはずの車輪は、長年使い続けて緩んでいた箇所まできっちりと締め直されていた。
「まったく……パンケーキ一枚で、どこまで恩を返すつもりじゃ」
老婆は呆れたように息を吐きながら、クレドが歩いていったであろう街道へ目を向ける。
その口元には、いつの間にか柔らかな笑みが浮かんでいた。
◇
一方、その頃。
クレドはすでに街道を歩いていた。
朝の街道にはまだ人の姿も少なく、遠くまで続く道を一人で進んでいく。
しばらく歩いたところで懐から革袋を取り出すと、中には僅かな硬貨しか残っていなかった。
(次の村でなくなるな)
それを見て、クレドは以前ハムエルから言われたことを思い出した。
山を下りることがあれば、自分の名を出して訪ねろと言われた場所がある。
詳しいことは聞いていなかったが、師匠のことだ。しばらく暮らせる程度の金は残しているのだろう。
(少し借りるか)
次の目的地を決めて革袋を懐へ戻したところで、指先が小さな瓶に触れた。
昨夜、老婆から貰った蜂蜜だった。
クレドは歩きながら蓋を開け、指先に少しだけつけて舐めてみる。
(あま〜い……)
濃い甘さに目元が緩み、もう一度舐める。
(うまぁ〜……)
口の中に残る蜂蜜の甘さから、昨日食べたパンケーキの味が蘇ってくる。
それを作っていた老婆の笑顔まで思い出し、やがて記憶は昨夜の食卓へと移っていった。
狭い家で向かい合い、老婆の昔話を聞きながら食べた、野菜と干し肉のスープ。
豪華でもなければ、これまで食べた料理の中で一番美味かったわけでもない。
それでも――
(昨日の飯は、暖かかったな)
クレドは蜂蜜の小瓶を大事に懐へ戻すと、僅かに笑みを浮かべて街道を歩いていった。




