第8話 『はじめての出会い』
クレドは、一人街道を歩いていた。
道の両脇には木々が立ち並び、枝葉の隙間から差し込む陽光が地面にまだらな影を落としている。
懐にはまだいくらか金が残っている。
ハムエルからは、山を下りたら領都にある指定された金融機関を訪ね、自分の名を出すよう言われていた。
多少の金を残してあるらしい。
(それまでは足りそうだな)
そう考えながら、クレドは街道を進んでいった。
◇
昼を過ぎた頃には、街道は深い森の中へ入っていた。
頭上を覆う枝葉が陽光を遮り、昼間だというのに辺りは薄暗い。
しばらく歩いていると、道から少し外れた木の根元に鮮やかな赤色が見え、クレドは足を止めた。
「……?」
花ではない。
街道を外れて近づくと、そこには一人の少女が倒れていた。
十五歳ほどだろうか。
腰まで伸びた深紅の髪が地面へ広がっている。泥や枯れ葉に汚れ、長い間まともに手入れされていないのか、ところどころが絡まり、本来の艶も失われていた。
その髪の間から、左右に一本ずつ黒い角が伸びている。
さらに髪から覗く耳は人間のものより長く、その先端は鋭く尖っていた。
目を閉じていても分かるほど顔立ちは整っている。だが頬は痩せ、唇は乾き、白い肌も泥や埃で薄汚れていた。
身につけているのは黒を基調とした服だった。ところどころに金の装飾が残っており、元は相当に上等なものだったことが窺える。
だが今は見る影もない。
布は何か所も裂け、裾は泥にまみれ、何度も繕った跡が残っている。
何より、少女自身が酷く痩せていた。
クレドはその傍らへしゃがみ込んだ。
「おい」
反応はない。
口元へ手を近づけてみれば、僅かに息がある。
「生きてるか」
「…………」
声が届いたのか、少女の瞼が微かに動いた。
やがてゆっくりと開いた瞳は、髪と同じ鮮やかな深紅だった。
身体は弱り切っている。それでも、その眼差しだけは妙に強かった。
「……水……」
「ん?」
「……水……寄越せ……」
「…………」
(偉そうだな)
クレドは鞄を下ろし、水筒を取り出した。
「ほら」
少女の前へ差し出すと、震える手が水筒を掴み、そのまま勢いよく傾けた。
「一気に飲むな」
ごく、ごく、と喉が鳴る。
「んぐっ……!」
少女の身体が跳ねた。
「げほっ! げほっ!」
「だから言っただろ」
しばらく咳き込んだあと、少女は水筒を抱えたままクレドを睨んだ。
深紅の瞳には、明らかな警戒が浮かんでいる。
ぐぅぅ――。
沈黙の中、少女の腹が鳴った。
クレドは鞄から硬いパンを取り出した。
「食うか?」
深紅の瞳がパンへ向く。
次の瞬間、少女はクレドの手からパンを奪い取った。
警戒するようにクレドを見つめたまま、一口齧る。
何も起こらないと分かると、もう一口。
そこからは早かった。
少女は硬いパンを夢中で食べ始め、あっという間に半分ほどを平らげた。
クレドは鞄から干し肉も取り出した。
「これも食うか?」
差し出した途端、干し肉も奪われた。
パンを齧り、干し肉を噛み千切る。先ほどまで倒れていたとは思えない勢いだった。
やがて最後の一欠片まで口へ放り込むと、少女は再び水筒を傾けた。
今度は一気に飲まなかった。
「学習したな」
「…………」
返事はない。
相変わらず深紅の瞳はクレドを警戒しているが、先ほどよりは顔に僅かに血色が戻っていた。
「名前は?」
「…………」
「俺はクレドだ」
少女は答えない。
「そうか」
クレドは立ち上がり、鞄を背負った。
「じゃあな」
そのまま街道へ戻ろうとすると、背後から声が飛んできた。
「……待て」
クレドは足を止め、振り返る。
少女は木の根元に座ったまま、こちらを見ていた。
「なんだ」
「余は……魔族だぞ」
「ああ、見ればわかる」
「…………」
少女の眉が僅かに寄る。
「なぜ助けた」
「放っといたら死にそうだったからな」
「…………」
それだけ答え、クレドは再び歩き出した。
しばらくすると、後ろから小さな足音が聞こえてくる。
振り返れば、少し離れたところを少女が歩いていた。
「なんでついてくる」
「道が同じなだけだ」
「そうか」
クレドはそれ以上聞かなかった。
◇
森を抜ける頃には、陽が傾き始めていた。
遠くに小さな村が見えてくる。
クレドはそのまま村へ向かおうとしたが、後ろから聞こえていた足音が止まった。
振り返ると、少女が街道に立ち尽くしている。
「来ないのか?」
「…………」
少女は答えず、遠くに見える村をじっと見つめていた。
やがて片手を頭へ伸ばし、二本の角を隠すように押さえると、少し遅れてクレドの後を追った。
◇
村へ入ると、すぐにいくつもの視線が二人へ向けられた。
正確には、クレドの少し後ろを歩く少女へ。
畑から戻ってきた男が足を止め、井戸端にいた女たちは声を潜める。
道端で遊んでいた子供を、母親が慌てて自分のそばへ引き寄せた。
少女は角に手を添えたまま、クレドの後ろを歩いている。
クレドは近くにいた男から食事のできる場所を聞き、村の中央へ向かった。
村で唯一の食事処は、小さな二階建ての宿を兼ねていた。
扉を開ける。
「いらっしゃい」
カウンターの向こうにいた恰幅のいい男が顔を上げた。
「飯と寝床が欲しい」
「ああ、二人か?」
「そうだ」
少女がクレドに続いて店へ入る。
店主の表情が変わった。
視線が、その黒い角へ向かう。
「……魔族か」
「ああ」
少女の身体が僅かに強張る。
店主はしばらく彼女を見ていたが、やがて困ったように頭を掻いた。
「悪いが、その子は……」
「妹だ」
「…………は?」
少女がクレドを見る。
店主も目を瞬いた。
「俺の妹だ」
「いや、妹って……あんた、どう見ても――」
「妹だ」
「…………」
店主が黙る。
クレド自身、なぜそんな言葉が口から出たのか分からなかった。
ただ、ほんの一瞬。
遠い昔に握っていた、小さな手の感触が脳裏を過ぎる。
それもすぐに消えた。
「入っていいか?」
「……あんたが責任持つってんならな」
「ああ」
「一泊と夕飯なら、一人このくらいだ」
店主が金額を告げる。
クレドは懐から革袋を取り出し、硬貨を数えた。
二人分には足りない。
「俺の分はないな」
「は?」
クレドは少女を見る。
「こいつの分はある」
少女が目を見開いた。
「お前さんはどうするんだ?」
「仕事をくれ」
「仕事?」
「ああ。俺の飯と寝床の分だ。何かあるか?」
店主はクレドを上から下まで眺め、しばらく考え込んだ。
「……仕事ならあるにはある」
「何をすればいい」
「裏に薪がある。それを割ってくれるなら、飯と寝床くらいは出してやる」
「分かった」
クレドは自分の外套を脱ぐと、少女の頭から被せた。
「被ってろ」
「…………?」
「角、隠れるだろ」
少女は外套の端を掴んだ。
「お前は休んでろ」
それだけ言って、クレドは裏口へ向かった。
少女は何も言わず、その背中を見送った。
◇
裏には大量の丸太が積まれていた。
「これか」
壁へ立てかけられていた斧を手に取り、丸太を台へ置いて振り下ろす。
乾いた音とともに真っ二つになった。
次の丸太も同じように割り、その次も、さらにその次も。途中からは二本、三本とまとめて台へ乗せ、クレドは一定の調子で斧を振り続けた。
しばらくして、様子を見に来た店主が裏口で固まった。
「終わった」
「……は?」
先ほどまで積まれていた丸太は一つも残っておらず、代わりに割られた薪が壁際へ綺麗に積み上げられている。
「全部か?」
「ああ」
「いや……これ、七日分はあったんだけど」
「そうなのか」
「そうなのかって……」
クレドは斧を元の場所へ戻した。
「他に仕事は?」
「…………」
「まだ足りないならやるぞ」
「ねぇよ。それだけやってくれりゃ十分だ」
「そうか。助かる」
店へ戻ると、少女が外套を被ったまま椅子に座っていた。
クレドを見ると、僅かに顔を上げる。
「もう終わったのか?」
「ああ」
少女の視線がクレドの身体を一度だけなぞる。
だが、何も言わなかった。
◇
日が落ちる頃には、店内に村人たちが集まり始めていた。
畑仕事を終えた男たちが酒を飲み、あちこちの卓から笑い声が響いている。
クレドと少女は向かい合って座っていた。
「待たせたな」
店主が二つの深皿を運んでくる。
「カウイ嵩のシチューだ」
白い湯気が立ち上る。
大きく切られた肉と芋、いくつもの野菜が、とろみのある茶色い汁の中に沈んでいた。
肉と野菜を長く煮込んだ濃い香りが鼻をくすぐる。
(美味そうだ)
クレドがスプーンへ手を伸ばす。
そのときだった。
「……おい」
少し離れた卓から声がした。
「あれ、魔族じゃねぇか?」
店内の声が少しずつ小さくなっていく。
「本当だ。角がある」
「なんで魔族が村に入ってんだよ」
「店主、何考えてんだ」
「飯食うところに魔族なんか入れるなよ」
「見てるだけで飯が不味くなる」
「外で食わせろよ」
「追い出せ」
少女は何も言わなかった。
ただ、目の前のシチューを見つめている。
やがて、その手がスプーンから離れた。
椅子が小さく鳴る。
「どこへ行く」
「……外だ」
「飯は?」
「……いらぬ」
クレドは少女を見上げた。
それから周囲の客へ目を向ける。
「こいつは俺の妹だ」
少女の足が止まった。
「こいつの分の金は払った。俺も働いた。その対価でここにいる」
先ほど声を上げていた男たちを見回す。
「ここで妹と飯を食う」
一拍置く。
「何か文句あるか?」
「…………」
誰も答えなかった。
クレドと目が合えば、先ほどまで声を上げていた者たちも口を閉ざす。
「座れ」
「…………」
「冷める」
少女はしばらくクレドを見つめたあと、ゆっくりと席へ戻った。
クレドはスプーンを手に取る。
「食おう」
少女もスプーンを握った。
シチューをすくい、白い湯気へ小さく息を吹きかけてから口へ運ぶ。
「…………」
動きが止まった。
柔らかく煮込まれた肉が、舌の上でほろりと崩れる。
芋はほくほくとしていて、野菜の甘みが溶け込んだ熱い汁が口いっぱいに広がった。
もう一口。
そして、また一口。
「……美味しい」
小さな声が漏れる。
「……温かい」
ぽたりと、雫が一つシチューへ落ちた。
「……ぐすっ……」
もう一粒。
「ぐすっ……ぐすっ……」
少女は俯いたまま、シチューを口へ運ぶ。
涙は止まらない。
「……え〜ん……」
とうとう堪えきれず、声が漏れた。
「うぅ……ぐす……」
スプーンを握ったまま、肩を震わせて泣いている。
クレドはその姿を見ていた。
初めて町でまともな料理を食べた日のことを、少しだけ思い出す。
自分もあの日、泣いた。
クレドは懐から布を取り出した。
「顔」
少女が涙で濡れた顔を上げる。
クレドは頬を伝う涙を布で拭った。
一瞬だけ少女の身体が強張ったが、それでも逃げなかった。
片方の頬を拭い、もう片方も拭う。
それから布を少女へ渡した。
「ほら」
「…………」
少女は布を両手で受け取った。
まだ鼻をすすっている。
それでも、もう一度スプーンを握ってシチューを口へ運んだ。
「……美味しい」
クレドも自分のスプーンを取った。
一口食べれば、柔らかな肉から旨みが広がり、熱い汁とともに野菜の甘みが身体へ染み込んでいく。
(ああ……美味いな)
向かいでは、少女が時折鼻をすすりながらシチューを食べている。
クレドももう一口、シチューを口へ運んだ。
◇
翌朝。
クレドは宿を出ると、荷物を背負い直した。
村の向こうには街道が続いている。
「……待て」
後ろから声がして振り返る。
少女が立っていた。昨日貸した外套を被っている。
「どこへ行く」
「次の町だ」
「何をしに行くのだ」
「美味いものを食いに」
「…………」
少女が僅かに眉を寄せた。
「それだけか?」
「ああ」
クレドが街道へ向き直る。
「待て」
「なんだ」
「余は……」
少女は一度口を閉ざした。
「行くところはあるのか?」
「…………」
しばらく黙ったあと、小さく首を横へ振る。
「ない」
「そうか」
「…………」
「ついて来たければ来い」
少女が顔を上げる。
「……よいのか?」
「ああ」
クレドはそれだけ答えて歩き出した。
少女はその背中を見つめていたが、やがて駆け出して隣へ並ぶ。
「……余が同行してやる」
「そうか」
数歩進んだところで、少女がクレドを見上げた。
「カサノヴァだ」
「ん?」
「余の名は、カサノヴァだ」
クレドは一度だけその顔を見る。
「そうか。行くぞ、カサノヴァ」
「うむ」
二人の足音が並んで、街道を進んでいった。




