第六話 『はじめてのチュー?』
夕方になる頃には、酒場はいつになく賑わっていた。
明日クレドが村を出るらしい――そんな話がどこから広まったのか、日が傾き始めた頃から一人、また一人と村人が集まり始め、気づけばほとんどの席が埋まっている。
「兄ちゃん、これ食ってくれ!」
「こっちも持ってきたぞ!」
「おい、ビアー空いてるじゃねぇか!」
クレドの前には、店主が作った料理だけでなく、村人たちが持ち寄った料理まで次々と並べられていった。
焼いた肉に野菜の煮込み、腸詰め、焼きたてのパン。
そのどれもがクレドにとっては見たことのない料理ばかりで、勧められるまま次から次へと箸を伸ばしていく。
「これも美味いな」
「だろ? うちの母ちゃんが作ったんだ!」
「こっちも食ってみろよ!」
「食う」
差し出された皿を受け取り、また一口。
山を下りてから、まだ数日しか経っていない。それなのに、知らない料理が次から次へと出てくる。
(やっぱり山を下りて正解だったな……)
そんなことを考えていると、目の前になみなみとビアーの注がれた木杯が置かれた。
「ほら兄ちゃん、飲め!」
「…………一杯だけだ」
「おう! 一杯だけな!」
クレドは木杯を持ち上げ、喉へ流し込む。
独特の苦みのあとから爽快な喉越しがやってきて、思わずもう一口飲んだ。
(やっぱり美味いな)
料理を食べ、ビアーを飲む。
そうして一杯目を空にしたところで、すぐさま別の男が新しい木杯を差し出してきた。
「兄ちゃん、もう一杯!」
「一杯だけと言った」
「これは俺からの一杯だから別だ!」
「…………?」
意味が分からない。
「まあまあ、明日には出てっちまうんだろ? 今日くらいいいじゃねぇか!」
クレドは差し出された木杯を見つめた。
(まあ……一杯増えたくらいなら大丈夫か)
受け取った。
それが間違いだった。
宴が始まってどれくらい経ったのか。
店内には絶えず笑い声が響き、酒の入った村人たちはすっかり出来上がっていた。
クレドも最初に何杯飲んだかまでは覚えていたが、途中から数えるのをやめている。
「そういや兄ちゃん、いくつなんだ?」
料理を食べていたクレドは顔を上げた。
「三十八だ」
「…………は?」
尋ねてきた男だけでなく、近くで飲んでいた村人たちまで一斉にクレドを見る。
「三十八!? 嘘だろ!? どう見ても二十代じゃねぇか!」
「えっ、お兄さん三十八歳なんですか!?」
離れたところで料理を運んでいたミリまで声を上げた。
「そうだ」
「父さんと四つしか変わらないじゃないですか!」
ミリが驚いた顔で店主とクレドを交互に見比べる。
「全然見えない……」
「おいミリ。それ、どういう意味だ」
「だって父さんはちゃんと四十二歳に見えるもん」
「ちゃんとってなんだ!」
店内にどっと笑い声が広がった。
クレドはそんな二人を見比べながら、自分の頬へ手を当てる。
「俺も三十八に見えると思うが」
「見えませんよ! どう見ても二十代です!」
言い切られても、いまいちピンとこない。
山で暮らしていた頃、毎日顔を合わせていた男といえばハムエルくらいだった。
六十を過ぎ、白髪と皺だらけだった師匠と比べれば自分が若いことくらいは分かるが、三十八歳の男が普通どんな顔をしているのかなど知るはずもない。
(でも三十八って、おっさんだろ……?)
納得できないままビアーへ口をつけたところで、隣から声がした。
「クレド」
「なんだ」
いつの間に移動してきたのか、マリーナがすぐ横に座っていた。
頬は赤く、目も少し潤んでいる。
「ねえ……昨日の目、もう一回して」
「目?」
「私を見てたときの目よ。ほらぁ……あの、すっごく冷たいやつ」
マリーナは両手で頬杖をつき、クレドの顔を覗き込んだ。
「もっと見下した目で私を見て」
「…………」
「そう、それ! あぁ……その目ぇ……」
マリーナは頬を赤らめたまま身をくねらせると、不意に片手で股を押さえた。
「あーん、もう濡れてきたぁ……」
クレドが眉を寄せる。
「……漏らしたのか?」
「違うわよ!」
「お前、酔ってるな」
「酔ってるわよ。だから言えるの」
マリーナはさらに顔を近づけ、じっとクレドを見つめる。
「私ね、今まで男にあんな目で見られたことなかったのよ。商会の会長の娘で、役員で、しかもこんなに美人でしょ?」
「知らん」
「そこよ!」
勢いよく指を差され、クレドは眉を寄せた。
マリーナの周りにいた男たちは、昔から彼女の機嫌を窺った。
商会での立場に頭を下げる者もいれば、気を引こうと持ち上げてくる者もいた。
自分に逆らう男などほとんどいない。
ましてや、女としての自分に興味すら示さない男など初めてだった。
「あんなふうに見下されて……本気で私なんかどうでもいいって顔されて……」
思い出すように目を細めると、マリーナは自分の頬を両手で包んだ。
「…………ゾクゾクした」
「風邪か?」
「違うわよ!」
「ならなんだ」
「分かんないわよ! 私だって昨日初めて知ったんだから!」
クレドにはますます分からない。
「ねえ、クレドぉ……私と結婚しない?」
「しない」
「じゃあチューして?」
クレドは僅かに眉を寄せた。
「ちゅうってなんだ?」
「もう、そんなこと言ってぇ……」
マリーナは目を閉じ、クレドへ唇を尖らせる。
「んー……」
「…………」
クレドはしばらくその顔を見つめると、手元の皿から豆を一粒摘まみ、その口へ丁寧に入れた。
「んむっ!?」
マリーナの目が開く。
「ちょっと! 何すんのよ!」
「食べたいから口を近づけたんじゃないのか?」
「違うわよ! チューよ、チュー!」
「だから、それが分からん」
「うー……!」
頬を膨らませてクレドを睨んでいたマリーナだったが、やがて何かを考えるように目を細めた。
「……でも、焦らされるのも……それはそれでいいわね」
「もう一個食うか?」
「いらないわよ!」
その声に、近くで飲んでいた村人たちから笑いが起こる。
「笑うんじゃないわよ!」
そう怒鳴りながらも、マリーナはクレドの隣から離れようとはしなかった。
それどころかさらに腕へ抱きつき、その肩へ頬を寄せてくる。
「クレドぉ……やっぱり私、あんたのこと好きだわ。私も一緒に旅する」
「好きにしろ」
「いいの?」
「俺は知らん。来たいなら勝手に来ればいい」
「…………」
マリーナは腕にしがみついたまま、なぜかさらに頬を赤くしてクレドを見上げた。
「……そういうところなのよねぇ」
「何がだ」
「なんでもない」
満足そうにクレドの肩へ頭を預けた、そのときだった。
酒場の扉が勢いよく開く。
「マリーナ様!」
飛び込んできたガルディ商会の男たちは店内を見回し、クレドの腕に絡みついているマリーナを見つけるなり揃って顔を引きつらせた。
「こんなところにいたんですか! 何度探したと思ってるんです!」
「うるさいわねぇ……」
「明日も仕事があるんですよ! 帰りますよ!」
「嫌よ。私、クレドと旅するから」
「はぁ!?」
「だから、もう仕事しなぁい」
「何言ってるんですか!」
慌てて駆け寄った男たちが両脇から腕を掴むと、マリーナはクレドへさらに強くしがみついた。
「離しなさいよ! 私はこの人についていくの!」
「駄目です! 明日の予定どうするんですか!」
「知らなぁい!」
「知らないじゃありません!」
それでも抵抗するマリーナを、男たちはどうにかクレドから引き剥がし、そのままずるずると店の外へ引きずっていく。
「クレドぉ!」
「なんだ」
「待っててねぇ! 絶対ついていくからぁ!」
「明日出る」
「じゃあ待ってなさいよぉぉぉ!」
叫び声を残し、マリーナは男たちに連れていかれた。
閉まった扉をクレドはしばらく見つめていたが、やがて何事もなかったように料理へ向き直る。
「兄ちゃん……大変だな」
近くの男に言われ、クレドは首を傾げた。
「何がだ?」
そう言って、残っていたビアーを飲み干した。
◇
翌朝。
「…………またか」
宿のベッドで目を覚ましたクレドは、頭痛と吐き気に襲われながら天井を見つめていた。
結局その日も二日酔いに敗れ、村を出ることはできなかった。
◇
さらに翌朝。
今度こそ荷物を背負って宿を出ると、村の入口には店主やミリをはじめ、何人もの村人が集まっていた。
「本当に行っちゃうんですね」
「ああ」
ミリは少し寂しそうに笑った。
「また来てくださいね」
クレドは少し考えてから頷く。
「ここの飯は美味いからな。また来る」
「はい!」
それだけで、ミリの顔に笑みが戻った。
「兄ちゃん、これ持ってけ」
店主から差し出された布袋を受け取って中を見ると、パンや干した肉、それに水の入った革袋が詰められていた。
「いいのか?」
「世話になった礼だ。道中で食え」
「……すまない」
「今度来たときは、もっと美味いもん食わせてやるよ」
「期待してる」
布袋を荷物へしまい、クレドは村人たちに背を向けた。
何人もの見送りの声を背中に受けながら街道を歩き、やがて村の姿も見えなくなった頃、道の先に一人の女が立っているのが見えた。
「何してる?」
「待ってたのよ」
一昨日の夜とは違い、頬も赤くなければ足取りもしっかりしている。
ただ、クレドが近づくと、マリーナはどこか気まずそうに視線を逸らした。
「一昨日、旅についてくると言ってたな」
「……覚えてるの?」
「ああ」
「他には?」
「俺に見下せと言ってた」
「…………」
「濡れたとも言ってたな」
「もういい! 忘れなさい!」
真っ赤になったマリーナが慌てて言葉を遮る。
「そうか」
「……ほんっと、そういうところよ」
大きく息を吐き、火照った顔を手で扇いでから、マリーナは気を取り直すようにクレドを見た。
「でも、今すぐ一緒には行けないわ。商会の役員として放り出せない仕事もあるし、父とも話をしないといけないから」
「そうか」
「でも、全部片づけたら行く」
「どこに?」
「あなたのところよ」
「俺がどこにいるか分からないぞ」
「探すわ」
迷いのない返事だった。
クレドは少しだけ考えたが、止める理由もない。
「来たいなら、お前が勝手に追ってこい」
「…………っ」
その言葉に、マリーナの頬がまた僅かに赤くなる。
「そういう言い方……やっぱりいいわぁ」
「よく分からんが、お気に召したようでなによりだ」
マリーナは思わず吹き出すと、どこか名残惜しそうにクレドを見つめた。
「ええ。またね、クレド」
「ああ」
短く答え、クレドはマリーナの横を通り過ぎた。
行き先は決めていない。
魔王を倒す必要もなければ、急いで向かわなければならない場所もない。
二十八年間、ただ一つの目的のために生きてきた。
その目的は、もうなくなった。
けれど、この先にはまだ自分の知らない町がある。
自分の知らない料理がある。
それだけで、今は十分だった。
(次は、何を食うか)
まだ見ぬ土地へ続く街道を、クレドは一人、歩き続けた。




