第五話 『はじめての塩焼きとカニ汁』
昼を少し過ぎた頃。
クレドは昨日と同じ酒場の扉を開けた。
「あっ、お兄さん!」
カウンターにいたミリが振り返る。
昼時の賑わいも一段落したのか、店内に残っている客は数人だけだった。
いつものカウンター席へ向かい――そこで足が止まる。
そこには、昨日十人の男を引き連れて店へ乗り込んできたガルディ商会の役員、マリーナが何食わぬ顔で座っていた。
「なんでいる?」
「ご飯を食べに来ただけよ」
クレドはそれ以上聞かず、少し離れた席へ腰を下ろした。
昨日あれだけの騒ぎを起こした女が、今日は一人で飯を食べに来ているせいか、店主もまだ警戒しているようだったが、クレドには関係ない。
「店主。今日は何がある?」
「今日はいいロキシードが入ってるぞ。焼くと美味い」
「それにする」
「それと、朝から煮込んでるアニカニ汁もある。ロキシードにも合うぞ」
「それも食う」
「はいよ」
「私も同じものをお願い」
マリーナの注文に店主は一瞬だけ動きを止めたものの、何も言わずに厨房へ向かった。
しばらくして、店主が一尾の魚を取り出す。
「それがロキシードか?」
「ああ。今朝入ったばかりだ。今日は脂が乗ってるぞ」
大きさは両手に収まるほどで、背は青みがかった銀色、腹へ近づくにつれて白くなっている。
山でも川魚なら何度も捕ったが、こんな魚は見たことがない。
捌かれた身は淡い白色をしており、その表面には薄く浮いた脂が光を受けて艶めいていた。
店主は手早く下処理を済ませると、塩を振った身を焼き網へ置いた。
ジュッ――。
白かった身が熱を受けてゆっくりと締まり、やがて皮の下から透明な脂が滲み始める。
それが表面を伝って網の下へ落ちるたび、ジュッと音を立てて白い煙が立ち上った。
「…………っ」
焼けた皮の香ばしさに、熱せられた脂の濃い香りが混ざる。
(美味そうだ……)
店主が魚を返すと、薄く焦げ目のついた皮の隙間から脂がふつふつと浮き、パチッと小さく弾けた。
そのたびに香りが濃くなり、クレドの視線も焼き網へ吸い寄せられていく。
「よし。ロキシードの塩焼きだ」
こんがりと焼けた魚が皿へ移されても、皮の表面ではまだ脂が小さく弾けていた。
クレドはすぐに箸を手に取り、焼けた皮へ差し込む。
パリッ。
香ばしく焼けた皮が破れ、その下から真っ白な身が現れた。
箸を少し動かしただけでほろりと大きくほぐれ、立ち上る湯気の向こうでは、断面に滲んだ脂がきらりと光っている。
そのまま口へ運ぶ。
「…………っ!」
最初に塩気が舌へ触れ、ほろほろと崩れた白身から脂がじゅわりと広がった。
(うまぁ……)
クレドの目尻が僅かに下がる。
川魚のような淡白な味を想像していたが、まるで違った。
白身には優しい甘みがあり、そこへ脂の濃さと塩気が重なっている。飲み込めば、最後には焼けた皮の香ばしさまで鼻へ抜けていった。
今度は皮ごと少し大きめにほぐして口へ運ぶ。
パリッとした皮を歯が破った直後、柔らかな身がほろりと崩れ、まるで違う二つの食感に熱い脂が絡んでくる。
(あぁ〜……皮も美味ぇ……)
思わず目を閉じる。
山でも魚は何度も食べてきた。
捕った魚を串へ刺し、火のそばへ置いて焼く。それだけでも十分美味いと思っていた。
だが、同じように魚を火で焼いているはずなのに、これはまるで違う。
(焼き方一つでも、こんなに変わるのか……)
また一つ、知らなかった。
そう思いながら次の身をほぐしていると、店主が大きな器を目の前へ置いた。
「ほら、こっちもできてるぞ。アニカニ汁だ」
白い湯気の向こう、薄く色づいた汁には大きく切られた野菜と、鮮やかな赤い殻に覆われた脚が沈んでいる。
焼いたロキシードとはまるで違う、濃厚な香り。
そして器の端からは、大きな鋏が突き出していた。
「…………」
クレドの視線がそこへ止まる。
(でかいな)
見るからに硬そうな殻に、太い鋏。
当然もう動きはしない。
それなのに、こちらへ向けられた鋏が妙に挑戦的に見えた。
(俺を挟む気か?)
クレドの目が僅かに細くなる。
(上等だ、この野郎)
まずは匙で汁をすくう。
表面に浮かぶ細かな脂が揺れ、湯気とともに濃い香りが立ち上った。
そのまま口へ含む。
「…………!」
アニカニの濃い旨みが舌いっぱいに広がり、そこへ一緒に煮込まれた野菜の甘みが重なる。
飲み込んでも味はすぐには消えず、舌の奥にじんわりと余韻が残った。
(うめぇ……)
思わず匙を持つ手が止まる。
だが、すぐにクレドは目を細めた。
(……だが、まだだ!)
器から突き出した大きな鋏を睨む。
(カニが美味いのは知ってる。山の川でも獲れたからな! これしきのことで、俺がひれ伏すと思うなよ!)
何と戦っているのかは、自分でも分かっていない。
クレドは赤い脚を手に取り、硬い殻を割った。
中から現れた真っ白な身は湯気を纏い、先ほどの汁とは違う甘い香りを漂わせている。
(来い……!)
そのまま口へ運ぶ。
ぷりっとした身が歯を押し返し、噛み切った途端に濃い甘みが口いっぱいへ滲み出した。
「…………!」
(ぐっ……! こいつ……やる……!)
もう一口食べれば、噛むほどに甘みが増していく。
ならばと汁を含んでみると、先ほど食べた身の味が舌に残っているせいか、最初の一口よりもアニカニの旨みがはっきりと感じられた。
(くっ……!)
だが、まだ負けてはいない。
ふと隣の皿に残ったロキシードが目に入り、クレドは香ばしく焼けた皮と脂の乗った白身を一緒に口へ運んだ。
(あぁ……やっぱり美味ぇ……)
その余韻を残したまま、何気なくアニカニ汁を一口含む。
「…………!」
匙を持つ手が止まった。
(なっ……!?)
ロキシードの脂と香ばしさが残る口へ、アニカニの濃厚な旨みが押し寄せてくる。
どちらも決して軽い味ではない。
それなのに不思議とぶつからず、汁を飲んだあとには、また焼けた魚の香りが恋しくなった。
もう一度ロキシードを食べる。
すると今度は、アニカニ汁が欲しくなる。
「…………」
クレドは二つの器を見比べた。
(お前……仲間までいたのか……!)
そしてロキシードへ目を向ける。
(くっ……卑怯だぞ! 一対一じゃねぇのか!)
もちろん、そんな約束は誰ともしていない。
だが、もはやクレドにとってこれは食事ではなく、アニカニとの戦いだった。
ロキシードの皮を噛み締めれば香ばしさと脂が広がり、そこへアニカニ汁を流し込めば濃厚な旨みが重なる。
汁の余韻が残ればまた魚へ箸が伸び、その合間には甘い脚の身まで口へ運んでしまう。
(くそっ……強ぇ……!)
食べ進めるほど追い詰められていくのは、どういうわけかクレドの方だった。
やがてロキシードの皿には骨だけが残り、アニカニ汁もほとんど飲み干していた。
だが、まだ終わっていない。
器の中には、最後の相手が残っていた。
大きな鋏を見つめ、クレドはゆっくりと顔を上げる。
(……そうだったな)
ここまで食べた脚とは、明らかに太さが違う。
クレドはその鋏を両手で持ち上げた。
(こいつに勝てば……俺の勝ちだ)
何をもって勝ちなのかは、本人にも分かっていない。
バキッ、と硬い殻を割る。
中から現れたのは、それまでの脚とは比べものにならないほど太い、真っ白な身だった。
(来い!)
クレドはそのまま齧りついた。
ぷりっとした身が強く歯を押し返し、ぶつりと噛み切れた瞬間、濃厚な甘みが口いっぱいに弾ける。
「…………っ!」
噛むたびに身の中から旨みが滲み出し、アニカニ特有の甘みが舌へまとわりついてくる。
クレドの手から、ゆっくりと鋏が下がった。
(だ……だめだ……)
目を閉じ、額へ手を当てる。
(この美味さは……俺の……俺のぉ……!)
もう一度、鋏の身を頬張る。
その瞬間、肩からすっと力が抜けた。
(…………完敗だ……)
二十八年間、どれだけ強大な魔物を前にしても、ここまで素直に敗北を認めたことはない。
だが、これは認めるしかなかった。
(うめぇ〜……)
最後に残った汁まで綺麗に飲み干すと、クレドは満足そうに息を吐き、空になった器を置いた。
「どうだった?」
「美味かった」
店主に答えながら、クレドは割れたアニカニの鋏へもう一度目を落とす。
(強敵だった)
もちろん、その戦いを知る者は誰もいなかった。
少し離れた席では、マリーナも食事を終えていた。
口元を拭った彼女はしばらく黙っていたが、やがてクレドへ顔を向ける。
「ちょっと」
「なんだ」
「昨日のこと、謝っておくわ」
クレドは水を飲みながらマリーナを見る。
「人を連れて押しかけたことよ。悪かったわね」
「もういい」
それだけ答え、残っていた水を飲むクレドに、マリーナもそれ以上は何も言わなかった。
今度はカウンターの向こうにいる店主へ向き直る。
「店主。今までのことも謝るわ」
その言葉に、店主の手が止まった。
「うちの人間が、この店に嫌がらせをしていたことは知ってた。借金を返し終わったあともね」
「知ってて止めなかったのか」
「ええ。私にとっては、それくらいのことだったから。でも、それであなたたちに迷惑をかけたことは事実よ」
マリーナは店主へ頭を下げた。
「ごめんなさい」
店主はすぐには答えなかった。
「……今さら謝われても、なかったことにはならねぇぞ」
「分かってる。許してもらおうとも思ってないわ。ただ、もうこの店には手を出させない。商会の人間には私から話す」
短い沈黙のあと、店主は小さく息を吐いた。
「……なら、それでいい」
許したわけではない。
マリーナもそれ以上を求めることなく、もう一度だけ頭を下げた。
その日の夕方には、明日クレドが村を出るという話が、いつの間にか村中へ広まっていた。




