第四話 『はじめてのステーキ』
ガルディ商会の二階。
村の中心部を見渡せる執務室で、一人の女が報告を聞いていた。
二十代半ばほど。艶のある黒髪を肩まで伸ばし、身体の線に沿った濃紺の服を纏っている。
ガルディ商会会長の娘にして、商会の役員を務めるマリーナだった。
「……もう一度言って」
机を挟んだ向かいで、男が額の汗を拭う。
「昨日、うちの者が十八人……一人の男にやられました」
「十八人が、一人に?」
「はい。旅人のような男で、剣を持っていたそうですが……一度も抜かなかったと」
机を叩いていたマリーナの指先が止まった。
「それで?」
「もう、あの店には手を出すなと。借金は返したんだから、用はないだろうと……」
随分と舐められたものだ。
十八人もやられて黙っていれば、ガルディ商会がたった一人の旅人に怯えたと笑われる。
それだけは許すわけにはいかなかった。
マリーナは椅子から立ち上がると、机に置いていた手袋を手に取った。
「使える人間を十人集めて」
「マリーナ様が行かれるんですか?」
「ええ。私が直接話をつけるわ」
◇
二日酔いで丸一日を潰した翌日。
ようやく体調の戻ったクレドは、再び村の通りを歩いていた。
魔物の毒を受けたときより辛かった気がする。
その原因は分かっていた。
(……ビアー)
恐ろしい飲み物だった。
飲んでいる間はあれほど美味かったというのに、翌日は頭痛と吐き気でほとんど宿から出られなかった。
(今日は飲まない。絶対にだ)
そう心に決めたところで、見覚えのある建物が見えてきた。
扉を開けば、店内は今日も常連客で賑わっている。
「あっ! お兄さん!」
真っ先に気づいたミリに続いて、厨房から店主も顔を出した。
「おお、兄ちゃんじゃねぇか。昨日は全然見なかったな」
「宿にいた」
「具合でも悪かったのか?」
「酒にやられた」
一瞬の静寂のあと、店内に笑い声が弾けた。
「あんだけ強ぇ兄さんが酒には負けたのか!」
「…………」
クレドは何も言わず、空いていたカウンター席へ座った。
そこへ笑いを堪えたミリが水を置く。
「ビアー飲む?」
「いらない。あれは危険だ」
また店内から笑いが起こる。
「ふふっ。じゃあ今日は何食べる?」
「美味いもの」
「相変わらずだな」
店主は苦笑しながら厨房を見回すと、何かを思いついたように手を打った。
「ちょうどいいローロン牛が入ってる。ステーキにしてやるよ」
「すてーき?」
「まあ、見てな」
店主が取り出したのは、分厚く切られた赤い肉だった。
山でも獣の肉なら何度となく食べてきたが、こんなにも綺麗に厚さを揃えて切られたものは見たことがない。
その両面へ塩を振った店主が、十分に熱した鉄板へ肉を置く。
ジュウウウウウ――!
「…………!」
一気に白い煙が立ち上り、焼けた肉の香りが鼻へ飛び込んできた。
山で暮らしていた頃には、仕留めた獣の肉を自分で焼くことも珍しくなかった。
それなのに、目の前で焼かれている肉は匂いからしてまるで違う。
(俺が焼いてた肉と全然違うぞ……)
店主はすぐには肉を動かさず、頃合いを見てひっくり返した。
現れた表面には焦げとは違う綺麗な焼き色がついていて、そこから滲み出した脂が鉄板の上で小さく弾けている。
(美味そうだ……もう食えるんじゃないか?)
そう思ったところで、店主が黄色い塊を鉄板へ落とした。
ジュワァァァ――!
「…………!」
黄色い塊は熱に触れた途端に溶けて泡立ち、肉の周囲へ広がっていく。
(なんだ、それ……)
しかも、それまでとは匂いまで変わった。
焼けた肉の香ばしさに、濃厚でどこか甘みを感じさせる香りが重なり、先ほどまで以上に腹を刺激してくる。
(おいおい……)
さらに店主は、溶けたそれを匙ですくうと肉の表面へ何度も回しかけていく。
そのたびに鉄板からジュワッと音が上がり、香りがますます濃くなっていった。
(なんだよ、その黄色いやつ……!)
クレドの視線は、もう鉄板から離れない。
やがて焼き上がった肉が小さな鉄板へ移され、その脇には白い細切りの野菜が添えられた。
「ローロン牛のステーキと、マシリンサラダだ」
「…………」
目の前に置かれても、肉はまだジュウジュウと音を立てている。
焼けた表面には脂が艶めき、鼻をくすぐる濃厚な香りも先ほどより近い。
(やっと食える……)
クレドがナイフへ手を伸ばした、そのときだった。
「失礼するわ」
店の扉が開いた。
「…………」
伸ばした手が止まる。
黒髪の女を先頭に、屈強な男たちがぞろぞろと入ってきた。
「ガルディ商会……」
誰かが呟いた途端、それまで賑やかだった店内が静まり返る。
マリーナは店内を見回すと、カウンターに座るクレドへ目を止めた。
「あなたね。昨日、うちの者を随分と可愛がってくれたのは」
「ああ」
「少し話があるわ」
クレドはマリーナを見たあと、目の前のステーキへ視線を戻した。
鉄板の上では今も肉汁が音を立てて弾けている。
「食べてからでいいか?」
「駄目よ」
クレドの眉間に皺が寄った。
「今できたところなんだが」
「私には関係ないわ」
「冷める」
「知らないわよ」
「…………」
湯気を立てるステーキを、クレドはしばらく見つめた。
(どう考えても今が一番美味いだろ……)
それでも諦めるしかなく、名残惜しそうにナイフを置いて席を立つ。
そのまま扉へ向かったものの、外へ出る直前でもう一度だけ振り返った。
「すぐ戻る」
誰に言ったのかは分からない。
◇
店の外では、十人の男が待ち構えていた。
昨日の者たちとは身体つきも立ち方も違い、武器の扱いにも慣れていることは一目で分かった。
「昨日の連中と同じだと思わないことね。商会が抱えている中でも、腕の立つ者だけを連れてきたわ」
「そうか」
クレドはそれだけ答えると、ちらりと店の方を見た。
(今頃、冷めてるんだろうな……)
「……どこ見てるのよ?」
「ステーキが冷める」
マリーナの眉がぴくりと動いた。
「やりなさい」
◇
数秒後。
マリーナは目の前の光景を理解できずにいた。
連れてきた十人が、一人残らず地面に倒れている。
何が起きたのかすら、ほとんど見えなかった。
男たちが一斉にクレドへ襲いかかったかと思えば、次の瞬間には次々と地面へ転がされていた。
その中心に立つクレドだけが、何事もなかったかのように服についた埃を払っている。
「終わりか?」
「…………私まで、この連中と同じだと思わないことね」
マリーナは右手を突き出した。
「フレイム・ショット!」
放たれた炎が真正面からクレドを包み込む。
だが炎が消えると、マリーナの表情から余裕が消えた。
「……は?」
クレドは同じ場所に立っていた。
服の一部から僅かに煙が上がっているものの、それだけだった。
「熱いな」
そう言って歩き出したクレドに、マリーナは思わず一歩後ずさった。
「まさか……私まで殴るつもり?」
「ああ」
「女を殴る気?」
「関係ない」
即答され、マリーナの頬が引き攣る。
それでも十人もの部下を連れてきた自分が怯える姿など見せられないと、強がるように顎を上げた。
「……できるものなら、やってみなさいよ」
次の瞬間、クレドの拳がマリーナの頬のすぐ横で止まった。
「――っ!」
巻き起こった風に黒髪が大きく舞う。
見えなかった。
いつ拳を構え、いつ振ったのか。
それどころか、目の前にいたはずのクレドが動いたことすら分からなかった。
「俺は女でも容赦しない」
「…………っ」
マリーナの腰から力が抜け、その場へ崩れ落ちる。
「次にあの店へ手を出したら、今度は止めない」
地面へ座り込んだまま、マリーナは僅かに頷いた。
それを確認したクレドは、すぐに背を向けた。
(ステーキ……)
今のクレドにとっては、倒れている十人よりもそちらの方が重要だった。
「……待って」
呼び止められ、クレドが振り返る。
「…………っ」
目が合った瞬間、マリーナの身体が強張った。
先ほどまで、自分はこの男をどうにかできると思っていた。
それが今では、ただ視線を向けられただけで身体が勝手に怯えている。
「……なんでもないわ」
「そうか」
クレドはそれ以上気に留めることなく、店へ戻っていった。
マリーナは地面に座り込んだまま、その背中を見送る。
「……何なのよ、あいつ……」
握った手には、まだ僅かな震えが残っていた。
◇
店へ戻ったクレドは、自分の席の前で立ち止まった。
「…………」
先ほどまで勢いよく立ち上っていた湯気は、もうほとんど残っていない。
(……遅かった)
店主がその顔を見て苦笑した。
「焼き直してやるよ」
「いいのか?」
「ああ。せっかくなら、一番美味い状態で食ってくれ」
「……頼む」
再び鉄板が火へかけられ、肉が温め直される。
仕上げに店主があの黄色い塊を落とすと、ジュワァァァ――と音を立てながら溶け出し、濃厚な香りが立ち上った。
(これだ……)
クレドの眉間に寄っていた皺が緩む。
熱々になった鉄板が、もう一度目の前へ置かれた。
「今度こそ食え」
「ああ」
待ちに待ったステーキへナイフを入れると、ほとんど力を込めていないのに刃がすっと沈んでいった。
切り口からじわりと肉汁が溢れ出すのを見て、思わず喉が鳴る。
(おお……)
一切れをフォークで刺し、そのまま口へ運んだ。
「…………!」
噛んだ瞬間、熱い肉汁が口いっぱいに溢れた。
焼けた表面は香ばしく、中から広がるのは濃い肉の旨み。
しかも柔らかいだけではなく、歯を入れれば肉らしい弾力が僅かに返り、噛むたびにまた肉汁が溢れてくる。
(な、なんだこの肉……!)
クレドは思わず目を閉じ、空いている手を額へ当てた。
(柔らか〜い……!)
飲み込むのが惜しいほどだった。
それでも喉を通っていく肉を見送り、目を開けば、まだ目の前にはステーキが残っている。
今度は少し大きめに切り分け、口へ運ぶ。
「…………ふふ」
小さな声が漏れた。
「兄ちゃん、今笑ったな」
クレドの手が止まる。
「…………?」
「いや、なんでもねぇ」
店主は笑いを堪えながら調理へ戻っていった。
何のことか分からず僅かに首を傾げたものの、目の前のステーキを見れば、そんな疑問はすぐに消えた。
(はぁ〜ん……たまらな〜い……!)
もう一切れ。
今度はすぐに飲み込まず、ゆっくりと噛み締める。
すると肉の旨みとは別に、あの黄色い塊から溶け出した濃厚な香りが鼻へ抜けていった。
(これ……あの黄色いやつか?)
肉だけでも十分に美味しい。
そこへさらに、まろやかなコクと香りが加わっている。
(なんでさらに美味しくなるだよ……!)
膝の上に置いた手が、ぎゅっと握られた。
美味い肉に、美味いものを足している。
(そんなことしたら……もう止まらなくなるっちまう……!)
クレドは夢中になって食べ進めたが、何切れか口へ運んだところで、次第に脂の濃さが舌に残り始めた。
(美味しいけどぉ……ちょっと重くなってきた……)
そこで、鉄板の脇に添えられた白い野菜へ目が向いた。
(そういえば、これもあったんだ)
フォークで刺して口へ運ぶ。
噛んだ瞬間、シャキッとした歯触りとともに瑞々しさが弾けた。
そこへ僅かな辛みと酸味が重なり、口の中に残っていた肉の脂をさっぱりと流していく。
「…………!」
(あらぁ……!)
もう一口。
シャキッと噛めば、また口の中がさっぱりする。
(いいじゃな〜い……!)
すっかり軽くなった口の中に満足していると、自然と視線がステーキへ戻った。
「…………」
(お……?)
ついさっきまで少し重く感じ始めていたはずなのに。
(また肉食いたくなってきた……)
クレドは再びステーキへナイフを入れ、一切れを口へ運ぶ。
(はぁ〜ん……!)
濃厚な肉の旨みとバターの香りが、再び鮮明に広がった。
(うまぁ、美味しさが復活してる……!)
肉を食べ、脂が残り始めたところでマシリンサラダを挟む。
口の中がさっぱりすると、また肉へ手が伸びる。
何度か繰り返しているうちに、浮かれていたクレドの頭にも、ようやく一つのことが見えてきた。
(……これ、唐揚げとビアーのときと同じか?)
一つだけでも美味い。
だが、まったく違う味を間に挟むことで口の中が切り替わり、もう一度その美味さを新鮮に感じられる。
(美味いものって……組み合わせると、もっと美味くなるのか)
その発見が面白くなり、それからは自分で順番を変えながらステーキとマシリンサラダを楽しんだ。
そうして食べ進めているうちに、残る肉は最後の一切れとなった。
(……もうこれだけか)
少し惜しみながらナイフを入れ、最後だけはゆっくりと口へ運ぶ。
目を閉じて噛み締め、肉の旨みとバターの香りが消えるまで十分に味わってから飲み込んだ。
「…………」
目を開けば、鉄板の上にはもう肉が残っていない。
(……終わっちゃった)
僅かに肩が落ちる。
「美味しかった?」
「ああ。美味かった」
ミリに答えながらも、クレドの視線は空になった鉄板へ向いたままだった。
やがて、そこに僅かに残った黄色い液体へ目を止める。
「店主。あの黄色いやつはなんだ?」
「ああ、バターか? 牛の乳から作るんだよ」
「……牛の乳?」
クレドは鉄板に残ったバターと店主を交互に見る。
(乳から……あれが……?)
牛の乳から作ったものを肉へかける。
それだけで、あれほど味が変わる。
やはり世の中には、知らないことばかりだった。
「お兄さん」
ミリが声をかける。
「ビアーは?」
「いらん」
即答だった。
昨日の頭痛と吐き気を思い出せば当然だ。
クレドが席を立とうとした、そのときだった。
隣のテーブルに座っていた男が、冷えたジョッキを豪快に傾ける。
ゴクゴクゴク――。
「ぷはぁ〜! やっぱこれだな!」
「…………」
クレドの足が止まった。
ジョッキの中で揺れる黄金色の液体。
その上には、真っ白な泡がこんもりと浮かんでいる。
昨日の頭痛が蘇った。
吐き気も蘇った。
丸一日、宿のベッドからほとんど動けなかった。
(飲まない)
クレドは眉間に皺を寄せ、ジョッキから目を逸らした。
だが、その瞬間。
唐揚げを食べたあとに流し込んだ、あの一口まで蘇った。
冷たさ。
シュワシュワと弾ける刺激。
脂の残った口の中を、一気に流していく感覚。
「…………」
クレドは目を閉じた。
(昨日は死ぬほど辛かった)
それは間違いない。
(でも……美味かった)
それも間違いない。
しばらく黙ったまま葛藤した末、クレドはゆっくりと席へ座り直した。
「ビアー」
「飲まないんじゃなかったの?」
「…………一杯だけ」
間もなく、冷えたビアーが目の前へ置かれた。
クレドは警戒するようにジョッキを見つめてから、恐る恐る持ち上げる。
ゴクッ。
「…………」
冷たさとともに、シュワシュワとした刺激が喉を通っていく。
(あぁ〜ん……これよぅ……!)
昨日あれほど自分を苦しめた飲み物だというのに、この瞬間だけはそんな記憶が遠ざかっていく。
もう一口。
ゴクッ。
「ぷはぁ〜……」
(やっぱり美味しいじゃな〜い……!)
先ほどまで眉間に寄っていた皺は、いつの間にか綺麗に消えていた。
クレドは満足そうにジョッキを眺める。
(でも今日は一杯だけよぅ……絶対に一杯だけ……)
そう自分に言い聞かせながら、もう一度ジョッキを口へ運んだ。




