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第9話 「神女ではない」

白鷺神殿はくろしんでん、酉の刻。


瑛子えいこは、祭壇の上で、目を覚ました。


目を開けて、まず、したこと。


頭上の、光の角度を、確かめた。


光は、高い窓から、斜めに差していた。


その線を、しばらく、目で追う。


それから、指先で、前髪を、そっと払った。


癖だった。


自分の着ているものに、目を落とす。


純白。


幾重にも、重なった布。


縁に、金が、走っている。


見覚えのない、衣だった。


それでも、驚かなかった。


祭壇のわきに置かれた、透き通った宝石を、手に取る。


手のひらに、しばらく、載せたまま。


指で、その紋様を、ゆっくりと、なぞった。


冷たい。


そして、奥に、淡い光を、ためている。


顔を上げ、この空間を、見渡した。


高い、天井。


長い、影。


少しだけ、目を細める。


値踏みしている、のではない。


この景色を、覚えておきたかった。


指が、無意識に、持ち上がる。


空中に、框を、切った。


片目を、閉じて。


この一枚を、収める……


神殿の神官が、慌てて駆けてきた。


祭壇の下に、ひざまずく。


「神女様が、ついに、降臨なされた――」


その下で。


侍女たちが、いっせいに、膝をついた。


誰かが報せたわけでも、ない。


誰かが、手配したわけでも、ない。


この神殿に三百年、語り継がれてきた、古い予言のせいだった。


「六色の光、落ち、神女、天より降りたまう。磐石ばんせきの盟、再び開かるる日、近し」


この出迎えの儀式を、侍女たちは、入殿の初日から習う。


一代、また一代。


長く続きすぎて、ほとんどの者が、この礼が誰を迎えるためのものか、忘れていた――今日まで。


侍女たちは、思った。


神女が指で切った、あの框は、神を降ろす、神聖な儀式に違いない、と。


誰も、頭を上げなかった。


瑛子は、手を下ろし、ひざまずいた人々を、見下ろした。


ここの者たちが、自分を見る、その目――


しばらく、何も言わなかった。


「光は、」


声は、平らだった。


「悪くない」


神官が、一瞬、固まる。


「ただ、」瑛子は、続けた。


殿堂の、一本の柱を、指さす。


「あの柱、傾いている」


神官は、二秒、固まった。


「神女様……あの柱は、三百年、傾いでおります」


瑛子は、その柱を、長いこと見た。


「ん」


しばらくして、もう一言、そっと足した。


「……神殿ぜんたいが、ずれている」


それきり、説明は、しなかった。


身を翻し、見つけうるかぎり最良の、光の角度に、腰を下ろす。


そのまま、柱を、見つづけた。


ここが、どこなのか、まだ分からない。


それでも、光のある場所なら、悪くない、と思った。


外で、侍女たちが、ひそひそと言い交わす。


「神女様は、奥が深い」


「柱が傾いでいる、と仰せに……天よりの、啓示でしょうか……」


瑛子は、聞いていない。


傾いだ柱の、影の長さを、考えていた。


その影が、床のどこまで、伸びるか。


夕の光が動けば、それも、動く。


そのとき。


城の方から、遠く、ざわめきが、伝わってきた。


途切れ、また、続く。


その音の、刻む拍子。


言葉にできない、覚えのある、何か。


どこかで、聞いた。


いつ、どこでかは、思い出せない。


瑛子は、ほんの少し、そちらへ、顔を向けた。


それから、また、柱に、戻った。


侍女が、整えた衣を捧げて、進み出る。


神女に、正式な神殿の礼服を、着替えさせるために。


瑛子の指が、止まった。


「……待て」


声は、まだ、平らだった。


だが、耳の付け根は、もう、赤い。


「自分で、換える」


侍女たちは、顔を見合わせ、退がっていった。


侍女の、ひとり。


「神女様って……」


神官。


「……ああ」


  *


瑛子が腰を下ろした、ちょうど、その瞬間。


神殿の、外壁。


その屋根の、上。


笠をかぶった影が、ひとつ。


風は、なかった。


それでも、その影は、そこに、あった。


笠のふちを、ほんの少し、持ち上げる。


月の光が、笠の下を、撫でていく。


あらわになった半面の顔は、ぞっとするほど、冷たかった。


その者は、瑛子を、長いこと、見ていた。


ただ、見ていた。


ずっと前から、知っているかのように。


口の端が、ごくわずかに、動く。


それから、笠を押し戻し、身を翻して、屋根の向こうへ、消えた。


舞い上がったのは、ひとすじの砂塵だけ。


軒先にとまっていた、数羽の伝書鳩が、


その一瞬、いっせいに羽ばたいて、散った。



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