第8話 「本に、呼ばれた」
太史府の蔵書閣、申の刻。
澪緒が星象を書き留めていた、あの夜。後院のほうで、どすん、と鈍い音がした。
筆を置いて、見にいく。
蔵書閣の中、画軸の山に埋もれるようにして、一人の男が座っていた。表情は、静かだった。
澪緒は戸口に立って、しばらく、その男を見ていた。
「あなた、どこから入ったの?」
男は、ゆっくりと立ち上がり、彼女を見た。
たった今、天から落ちてきたとは思えないほど、落ち着いた目で。
「目を覚ましたら、もう、ここにいた。」
あたりを見回し、机の縁を撫で、一冊の古い書物を開く。
それから、頁の一字を指でさした。「この字は、なんと読む?」
澪緒は怪訝そうに近づき、ひと目見て。「……『星』。」
男はうなずいて、また読みはじめた。
澪緒は、その場を、離れなかった。
「どこから来たの?」「……少し、考えなければならない。」
「どこへ行くの?」「わからない。」
彼女は、男を見た。「じゃあ、何をしているの?」
「本を読んでいる。」
男は一頁めくり、ひと呼吸おいてから、答えた。「ここに、答えがあるから。」
玄墨は、「その答えとは何か」には、答えなかった。
澪緒はそこに立って、長いこと、彼を見ていた。それから背を向け、また、自分の記録を書きはじめた。
太史府の掌事、巖爺が廊下を通りかかり、ひょいと首を伸ばして、中を覗いた。
声を低めて。「流れの文士か? 置いてやれ。何かの役に、立つかもしれん。」言うと、また歩いていく。
「神殿のほうで、ひと悶着あってな。ちょっと見てくる。」
玄墨はそれを聞いていたが、何も言わず、古籍に目を戻した。
その夜は、長かった。油の灯は、燃えては足され、足されては燃え。澪緒の記録は半分まで進み、ふと止まって、顔を上げた——
蔵書閣のあの男は、まだ、そこに座っていた。
壁いっぱいの書巻に向かって、本を見ているようで、その目は、ずっと遠くに、焦点を合わせている——
喜びでも、悲しみでもない。「ここ、なのか?!」という、あの安堵に似た何か。
眉は、かすかに寄っていた。胸の奥に、まだ、掴みきれない何かがある。
ある一頁で、彼の手が、止まった。
その頁には、磐石国の建国のはじめ、六星が降りたという伝説が、記されていた。
字はかすれ、記述は、ところどころ欠けている——
彼は指で、その数行を、そっとなぞった。顔に、表情はない。
でも、その手は、長いこと、止まっていた。
それから頁をめくり、また、読みつづける。
「あいつら……? 誰だ、あいつらって……?」
澪緒は何も言わず、うつむいて、記録を書きつづけた。
その時、ふと、聞こえた——
一つの字が、蔵書閣の奥から、ごく小さく、漏れてきた。
その字の語尾が、ほんの少し、ずれていた。この土地の、訛りではない。
それから、沈黙。それから、咳払いの音。
もう一度、読みなおす。今度は、音が、正しかった。
澪緒はうつむいたまま、口の端を、わずかに動かして、また書きつづけた。何も、なかったように。
窓の外から、港のほうの遠いざわめきが、かすかに、聞こえてくる。
玄墨の、頁をめくる手が、宙で止まった。
あの方角に、何かが——うまくは、言えない。
彼は、立ち上がりはしなかった。
ただ、窓の外の、神殿を、見つめた。




