第23話「裂け目」
ただ、傍観しているわけには、いかぬことが、ある。
*
磐石国、太史府、ある朝。
――澪緒の記録。
記録の冊子を、新しい頁に、めくる。
窓の外、炊煙の昇る方角が、いつもと、すこし、ちがう。
煙の流れが、すこし、急いている。
筆を執り、一行、記す。
「六星、地に落ちて数日。磐石国の秩序は、ようやく上向きはじめた。されど、ところどころに、裂け目が、現れはじめている」
筆を置き、その「裂け目」という字を、見つめて、長いこと、頁を、めくらなかった。
それから、その下に、一行、足した。
「世界が、もとより裂けつつあったのか。それとも、あの六つの光が、何かを、連れてきたのか。わからぬ」
*
霓京の港、辰の刻。
ブルースが、港のこちら側から、歩いてくる。
今日の港も、いつものように騒がしく、いつものように活気があり、いつものように、あの拍子を口ずさんで荷を運ぶ者が、いる――
「OEOEO――SA SA――」
それを聞いて、口の端が、ひとつ、動いた。
だが、ひとつ、いつもとちがう所が、ある。
足を、止めた。
あの場所が、空いている。
春菜の屋台が、ない。
机も、桶も、毎朝いちばんに来て、いちばん最後に帰る、あの小さな屋台も――
すべて、消えていた。
そこに立って、しばらく、見ていた。
それから、わきへ歩いて、あの老いた漁師を、見つけた。
「あのトウファの…ああ、春菜――」
漁師は手を止め、ブルースをひと目見て、ため息を、ついた。
「あの子なら?」
「昨夜、あの通りが、陥没した」
ブルースは、何も言わない。
「人は無事だ。隣の家にいる。だが、屋台は――壊れた」漁師は、首を振った。「あの通りは、もとから危なかった。ずっと、誰も手を、つけなかった」
ブルースは、うつむいて、その空いた場所を、見た。
昨日の、あのトウファの味を、まだ、覚えている。
二歩、歩いて、何か思い出して、漁師を、振り返った。
「どの通りだ?」
漁師が、方角を、指した。
ブルースは、うなずいて、足早に、歩いていった。
*
同じ日。
智也が、田の畔に、しゃがんで、その稲田を、見ている。
葉は、前に通ったときより、黄ばんでいて、何株かは、もう倒れている。
遠くに、老人が、田のへりに座って、うつむき、声が、小さい。
智也が、歩み寄って、老人の前に、しゃがんだ。
「どうした」
老人は顔を上げ、智也をひと目見て、また、うつむいた。
「四十年、作ってきた。今年は、おしまいだ」
「上流で、水を、せき止められた。ここの土は、乾いて割れて、稲も、じき、枯れる」
老人は、ひと息おいて。
「毎年、なんとかすると言う。毎年、言うだけだ」
智也は、うつむいて、その乾いて割れた田を、見た。
手が、腰の刀に、触れた。
だが、これは、刀で、解決できることでは、ない。
立ち上がって、倒れた稲を、一株、また一株、起こして、寄せて、置いた。
何の役にも、立たない。それは、わかっている。
老人は、それを見て、何も言わなかった。
智也が、手を、ぱんと払って、振り返る。
「上流のこと、訊いてくる」
老人が、一瞬、固まって、何か言う間もなく、智也は、もう、歩き出していた。
老人は、その背を見て、うつむき、起こされた数株の稲を、また、見た。
ずいぶんたって、ひとつ、ため息を、ついた。
*
同じ日、白鷺神殿。
瑛子が、あの傾いた柱の前に、立っている。
前に光が射したとき、隙間から、湿った跡が、すこし、滲み出ていた。
いまその裂け目は、柱の三分の一まで、伸びている。
しゃがんで、指で、そっと、その裂け目に、触れた。
小さな砕石が、音もなく、落ちる。
立ち上がり、柱のまわりを、ひとめぐりして、あらゆる角度から、見た。
それから、片目を閉じて、指で、宙に、框を作る。
あの柱の角度は、前より、傾いていた。
手を下ろし、その柱のわきに、腰を、おろした。
侍女が、歩み寄る。「神女様――」
瑛子。「もう少し、待って」
瑛子は、座ったまま、その柱が落とす影を、見ている。
その影の角度も、傾いていた。
心のなかで、そっと、見積もる。
いまの、この速さなら――
ごく軽く、ひとこと、漏らした。
「……まずい」
*
煙嵐山、さらに山深く。
曜吾郎が、湧き水のそばに、しゃがんで、指を、水に入れている。
長いこと、感じていた。
ちがう。温度が、また、下がった。
手を、水から抜いて、自分の指を、見る。
水の滴が、ひとつ、またひとつ、湧き水へ落ちて、水面の波紋に、消えていく。
松影が、いつのまにか、わきに立っていた。
二人とも、何も、言わない。
曜吾郎。「なぜか、わかるか」
問いでは、ない。
松影は、すこし黙って、それから言った。
「あの夜、星空に裂け目が現れてから、湯が、冷めはじめた」
曜吾郎の手が、止まった。
「裂け目?」平らな声で、くり返す。
「ああ」
「じゃあ、僕と――」
「お前がここにいたから、温もりが、戻っていたのかもしれん」松影が、言った。
曜吾郎は、その湧き水を見て、長いこと、黙った。
その湯気は、まだ、石の隙間から、ゆっくりと、昇ってくる。
手を、もう一度、水に入れて、その温度を、感じた。
まだ、ある。だが、先週より、低い。
手を抜いて、立ち上がり、もう何も言わず、小屋へ、歩く。
胸の奥で、温度への不安が、ざわめいて――
手は止めずに、今日の支度を、はじめた。
――第二十四話〈はじめて、向き合う〉へ――




