第14話「名前を呼べない」
山道。
侍衛が、まわりを囲んでいた。
大きな隊ではない。
でも、整っていた。
ふいに、瑛子の口から、高い音がこぼれた。
少しだけ、哀しみを帯びた、きれいな音。
「ん……ぉ……」
ちょうど、その山道の曲がり角で――
ブルースが、別の方向から、歩いてきた。
二人は、正面から、出くわした。
ブルースが、足を止める。
あの、言葉にならない懐かしさが、胸のどこかから、こみあげてきた。
瑛子も、止まった。
音が、やんだ。
視線が、ブルースのほうへ、向く。
二人は、山道で、一秒、見つめあった。
その一秒は、光みたいに、長かった。
何かの線が、その一秒のなかで、かすかに、震えた。
それから、ブルースが、口を開いた。
「行くな」
説明も、理由もない。
自分でも、なぜ言ったのか、わからなかった。
踏みだそうとした瑛子の足が、また、止まる。
侍衛たちも、止まった。
一秒、沈黙した。
それから、瑛子は、また歩きだした。
二歩、歩いて、振り返る。
ブルースに向かって、手を振った。
何も、言わずに。
そして、山道の角に、消えていった。
ブルースは、その場に立っていた。
その角を、ずっと、見ていた。
胸の奥に、何かがつかえている。
その嫌な感じが、何なのかは、わからない。
ただ――
「行くな」と言ったあの一瞬が、本物だったことだけは、わかっていた。
*
その時だった。
「なんだなんだ!」
智也が皿を抱えて、駆け込んできた。
危うく戸口にぶつかりそうになる。
右を見て、左を見て――
曜吾郎が立っているのが、見えた。
卓の上から、一人ぶん、減っているのが見えた。
「あれ?さっきの、きれいな人は?」
曜吾郎は、ぽつりと言った。
「行った」
「行った?どこに?」
「連れて行かれた」
智也は、少し固まった。
手の中の皿に、目を落とす。
「……じゃあ、これ――」
「置いて、座れ」
智也は皿を置いて、座った。
それでも、まだ腑に落ちない。
「なんで連れて行かれたんだ?」
曜吾郎は、あの飯の椀に蓋をして、脇へ寄せた。
何も言わない。
手元の仕事を、続ける。
智也はその椀を見て、それ以上は訊かなかった。
*
ブルースが、物珍しそうに小屋へ入ってきた。
曜吾郎が顔を上げて、ブルースを一目見た。
「お前は……」
少し、止まって。
「……いや。まず飯にするか?それとも、湯に浸かるか?」
ブルースは急に機嫌が良くなって、大きな声で言った。
「飯!」
曜吾郎はちらりと見て、飯をよそって、ブルースの前に置いた。
ブルースは腰を下ろした。
椀を見下ろしたまま、何も言わない。
「どうした?」
「なんでもない」
智也はブルースを見て、それから戸口を見て、少し考えた。
「あんた、さっきのきれいな人、見なかったか?」
ブルースが顔を上げる。
「友達か?」
智也は首を振った。
「知らない。昼に初めて会って、一緒に遊んでただけだ。さっきまで、ここにいた」
「……ここに?」
智也はうなずいて、飯を食べはじめた。
「で、誰かに連れて行かれた」
ブルースは少し黙って、曜吾郎のほうを見た。
曜吾郎は、蓋をしたあの椀を、脇へ寄せた。
何も言わない。
手元の仕事を、続ける。
ブルースは、あの椀が誰のものか、訊かなかった。
でも、その椀を見ていた――
さっき浮かんだ機嫌の良さが、すっと、また沈んだ。
三人は、そうやって、その卓を囲んで、飯を食った。
とても、静かだった。
でも、どうしてか。
最初から、こうあるべきだった気がした。
*
太史府、蔵書閣、深夜。
玄墨は、扉を押し開けた。
夜風が、長い廊下を吹き抜ける。
ふと、立ち止まった。
手を押し出す。脚を伸ばす。宙を画く。納める。
胸の奥から噴き出してくる、あの塞いだものが、抑えきれない。
扉の外は、太史府の静かな廊。
その先は、霓京城の夜。
人の声は遠く、灯りも遠い。
玄墨は敷居の前に立って、すぐには跨がなかった。
なぜだか、わからない。
ただ、その一瞬。
ふいに、誰かに会いたくなった。
澪緒ではない。巖爺でもない。
この府の、誰でもない。
名前の、呼べない幾人かだった。
頭の中を、いくつもの光景がよぎる。
笑い声。
光。
差し出された、誰かの手。
――私が、置いていかれたのか?
それとも、君たちが、私を忘れたのか?
玄墨は頭を下げて、自分の手を見た。
「……私は、誰を想っている?」
誰も、答えない。
長いこと、戸口に立っていた。
最後はやはり、扉を、そっと閉じた。
油の灯が、風のない室内で、かすかに、揺れた。




