第13話「湯気が消えるまで」
二人が光を見ていた、そのとき――
瑛子が、低く、ひとつの旋律を口ずさんだ。
「……ん――」
智也も、なぜかその拍に、合わせられた。
思いがけず、ぴたりと。
遠くから、ふいに――
「OEOEO――!!!」
智也は、はっと我に返った。
「あ、あの声!」
そのまま、駆け出す。
瑛子は半拍遅れて、夕日を一度見てから、追いかけた。
二人は路地を抜け、石段を踏み、店じまいの屋台のあいだを、すり抜けていく。
智也はずっと、「あっち!あっち!」と、勘だけで突っ走る。
瑛子は、ずっと黙って、覚えていた――
左に酒屋、右に茶館、三つ目の角に割れた石灯籠、五つ目の路地に、いい影。
*
茶館の、戸口。
ひとりの男が、思わず、半歩、前に出た。
蒼鷹は――
…………。
*
智也が、小さな橋を駆け抜けたとき――
「こつん」
何かが、肩に当たった。
智也は、足を止めた。
あたりを見回す。
誰もいない。
「誰だ。ふざけてんのか」
返事はない。
眉をひそめて、また歩きだす。
後ろから、ついてくる者がいた。
ただ、こっちの光のほうがいい、と思っているだけ。
指で框を作りながら、歩いている。
二つ目が、右耳に当たった。
反射的に、左へ身をかわす。
そのまま、左へ曲がった。
何も、考えずに。
三つ目は、左腰の刀に当たった。
澄んだ音がする。
智也は刀を見て、空を見て、肩をすくめた。
右へ進む。
四つ目が、額に命中した。
「いってぇ――!!」
頭を抱えて、しゃがみこむ。
もう一度、まわりを見た。
やっぱり、誰もいない。
屋根の上で。
誰かが、ごく軽く、笑った。
瑛子は、智也のすぐそばにいた。
誰かに見られていることに、まったく気づかない。
ただ、手を上げる。
前から落ちてくる夕日に向かって、もう一度、框を作った。
*
二人は、歩きつづけた。
路地が、だんだん、まばらになっていく。
前のほうに、うっすらと、山の輪郭が見えてきた。
智也が、鼻を鳴らす。
「お」
瑛子が顔を上げて、方向を確かめた。
その方角から、なんとも言えない匂いがする。
薄い、硫黄の匂い。
瑛子の指が、ふと、止まった。
それから、山へ続く道を見て、肩をすくめる。
そのまま、上へ歩いていった。
*
山道が、狭くなってくる。
夜風が、木の葉を揺らした。
智也が、湯気の匂いをかぐ。
「お、いい匂い」
前方。
木の小屋の、灯りがついていた。
曜吾郎が、飯をよそって、二人の前に置いた。
この二人が、なぜか小屋の前に現れて――
曜吾郎は、なんのためらいもなく、迎え入れた。
瑛子は、その椀を抱えて、湯気をかいだ。
何も言わない。
でも、その目の奥で。
何かが、ひとつ、光った。
――ちょうど、そのときだった。
小屋の外で、揃った足音がした。
土御門泰臣の手の者が、戸口に現れる。
「神女様。刻限にございます。神殿へ、お戻りください」
瑛子は、動かなかった。
うつむいて、その飯を見ている。
三秒、沈黙した。
曜吾郎は、手にしていたものを置いて、立ち上がった。
瑛子と、その者たちのあいだに、歩いていく。
「連れていくな」とは、言わない。
「先に食わせてやれ」とも、言わない――
ただ、そこに立った。
その者たちは、曜吾郎を見て、動かなかった。
曜吾郎が、ぽつりと言った。
「食べ終わるまで、待ってもらえないか」
声は、平らだった。
問い詰めているのではない。
ただ、ほんとうに、訊いていた。
それでいて――
どこか、怒りに近いものが、滲んでいた。
兵たちが、顔を見合わせる。
そのとき。
瑛子の手が、曜吾郎の左肩を、そっと叩いた。
あごを、その右肩に、預ける。
「いい」
瑛子は立ち上がって、その椀を、机に戻した。
「先に、あの人たちと行く」
曜吾郎が振り向いて、瑛子を見た。
瑛子は、曜吾郎に向かって、うなずいた。
そのうなずきが――
曜吾郎の胸の奥で、何かが、そっと動いた。
それから、瑛子は、その者たちについて、歩いていった。
曜吾郎は、その場に立っていた。
机に戻された、飯を見ている。
ゆっくりと、湯気の消えていく、その一杯を。
ずっと、立っていた。




