1 回想:探偵事務所にて
【探偵事務所——回想:依頼を受ける】
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午後の陽が傾きかけた探偵事務所。
古びた木製の机の上には、積み上げられた書類の山と、手をつけないままのコーヒー。
その縁には、乾いた黒いリングが染みのように残っている。
カーテン越しに差し込む光が、埃の粒をぼんやりと浮かび上がらせる。
古い時計が針を刻む音だけが響く静かな部屋。
向かいの椅子には、一人の男が座っていた。
細身のスーツに身を包み、胸元には企業のロゴが入ったバッジ。
その名刺には「ネオイロス・オンライン開発部門」とある。
神経質そうな指が、書類の端を折り曲げないように慎重に押さえている。
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「……つまり、VRゲーム内で幽霊が出る、と?」
探偵は手元の書類をめくりながら、簡潔に問いかけた。
「ええ、そうです。」
男は眼鏡を押し上げ、僅かに姿勢を正す。
「正式リリース前のβテスト中なんですが、プレイヤーの何人かが“幽霊を見た”と報告していましてね。問題は、その後なんです。」
探偵は視線を上げる。
「……その後?」
「幽霊を見たプレイヤーの数人が、支離滅裂なことを言い出すんです。」
男の口調は冷静を装っているが、その奥に微かな苛立ちと困惑が滲んでいる。
「言い方が難しいのですが……あるプレイヤーは“ゲームが現実になった”と言い、また別のプレイヤーは“自分の名前が思い出せない”と。中には“ここはどこだ”と繰り返す者もいました。」
探偵は軽く眉を寄せた。
「……ゲーム内の演出や、イベントではない?」
「違います。」
男は即答する。
「問題の“幽霊”に該当するデータは、どこにも存在しませんでした。
ログを解析しても、該当するオブジェクトの生成記録は一切なく、該当エリアには**“何もない”はず**なんです。」
「ほぉ。」
「それどころか、幽霊を見たプレイヤーの動きを追っても、不可解な挙動ばかりでした。
突然、その場で立ち尽くしたかと思えば、意味不明な方向へ移動し、ログアウト後の記憶も曖昧になる者までいたんです。」
探偵は指先で机の端を軽く叩いた。
幽霊の正体がデータにない?
となれば、純粋なプログラムのバグとは考えにくい。
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「……本件については、社内でも議論が続いています。」
男はため息をつき、書類を指で押さえる。
「一部の者は“ただのグラフィックバグ”だと言っていますが、問題のプレイヤーの精神状態に影響を及ぼしている可能性がある以上、慎重にならざるを得ません。」
「なるほどな。」
探偵は顎に手を当て、考える素振りを見せる。
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【探偵の推測】
「VRの中でプレイヤーの意識を混乱させる何かがある……でも、コードの中には存在しない?」
「……その通りです。」
探偵は書類に目を落としながら、仮説を組み立てる。
可能性として考えられるのは——
① 非公式データの混入
運営のログに残らないデータが存在するなら、何者かが隠されたデータ領域を作っている可能性がある。
それが開発の過程で生まれたものなのか、それとも外部から介入されたものなのか……。
② AIの学習過程で生じた“独自の挙動”
最近のMMOでは、プレイヤーの行動データをAIが蓄積し、ゲームバランスを調整する機能がある。
もしそれが意図しない学習をし、削除されるはずのデータを保持しているとしたら?
③ 脳波データへの影響
VRMMOのフルダイブ技術は、基本的に脳波データの読み取りとフィードバックによって成立している。
もし、何らかのデータフィードバックの異常がプレイヤーの意識に影響を及ぼしているのだとしたら……?
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「つまり、こういうことか。」
探偵は書類を軽く指で弾きながら言う。
「問題の“幽霊”が、本当に存在しているなら、
それは通常のコード上では見えない何かだ。」
男は小さく頷く。
「……我々も、まだ確証を得られていませんが、その可能性はあると考えています。」
「幽霊を見たプレイヤーが、支離滅裂な言動をするのも気になるな。
……VR内の体験が、脳波フィードバックに影響を与えてる可能性は?」
「それも検討しましたが、少なくともシステム上は、そんな影響を与える仕組みは組み込まれていません。」
男は腕を組む。
「ですが……幽霊を見たプレイヤーのデータを調べたところ、いくつかのケースで“削除済みのデータ”にアクセスしようとした形跡があったんです。」
探偵は眉をひそめる。
「削除済みのデータ?」
「はい。」
「だが、データが消えているなら、そもそもプレイヤーはアクセスできないはずだろう?」
「……それが、完全には消えていなかったようなんです。」
男の口調が僅かに重くなる。
「消去プロセスは完了しているのに、一部のデータが残留している。
それが意図的なものなのか、ただの処理ミスなのかはわかりませんが……
少なくとも、“存在しないはずのもの”が、まだこのゲームに残っている可能性がある。」
探偵は、指先で机を軽く叩く。
「……なるほど。」
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【依頼の引き受け】
「それで、貴方に調査をお願いしたいんです。」
男は椅子に姿勢を戻し、慎重な口調で続ける。
「テスト用のキャラをこちらで用意しますので、実際にログインして確認していただきたい。」
探偵は、しばらく考えた後、静かに椅子の背にもたれた。
書類に目を落とし、改めて状況を整理する。
(消えたはずのデータ、消えていない痕跡。)
(存在しないはずの幽霊が、プレイヤーに影響を与えている。)
「……さて、どんなトリックが仕込まれてるのやら。」
探偵は、微かに笑みを浮かべると、書類を閉じた。
「……いいだろう、引き受けるよ。」
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