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【完結】万年桜の生贄婚 〜咲かぬ桜の神と生贄少女の一年契約〜  作者: 葉南子@「ツキヨム」コン大賞・楽曲化
第三章 桜の神の恋敵

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第二十六話 誘引

 昼が過ぎ、屋敷の掃除を終え、夕餉を済ませても、奈珠那の心は落ち着かなかった。それどころか、瓊環と目が合うだけで心臓がとくんと小さく跳ねてしまう。


“──あんまり無防備なことをするな”


 その声が耳に焼き付いたまま離れなかった。

 心配をかけたのなら、きちんと謝らなければ。そう思う反面で、胸の奥では理由のわからない痺れが巡っている。それは叱られたことへの動揺とは違う、感じたことのない甘い痺れ。

 あの瞬間の瓊環の態度や口調、仕草さえも、すべてがいつもの彼とは少し違って見えた。だから夜になってもなお、思い出されてしまうのだろう。

 自室の灯りを消して寝台の端に腰を下ろしても、眠気はまったく訪れなかった。部屋に差し込む月明かりが、やけに眩しく映る。恍惚(こうこつ)とさせるような輝きに、奈珠那は自然と一人の神の姿を浮かべていた。


 ──瓊環様……。


 生贄として村から追い出され、瓊環と出会った日。あのときの光景は、今でも目に焼き付いている。

 冷酷で、怖いとさえ思った神だったのに。今はそばにいるだけで心が穏やかになり、離れているときほど、その姿を思い出してしまう存在になっている。

 

 奈珠那は小さく息を吐いて、視線を彷徨(さまよ)わせた。

 ふと、部屋の隅に置いた机が視界に入る。それと同時に、昼間と同じ花の匂いが、ふうわりと鼻先をくすぐった。


 ──藤……?


 小さなざわめきを覚えながら、奈珠那は寝台から立ち上がる。足音を忍ばせるようにして机のそばへ寄り、月明かりの下に置かれたものを見つめた。


「……これって」


 そこにあったのは、小さな紫色の手鏡と一通の文。つい先ほどまでは、何もなかったはずだ。

 奈珠那は息を詰めて、おそるおそる手紙をすくい取った。


《愛を知らない神の最期を見せてあげる。覚悟があるなら、鏡に触れて》


 文字を追った瞬間、ぞくりと全身が粟立った。


「漣様……?」


 名を口に出すと、部屋の空気がわずかに変わる。漂う花の香りが濃くなった気がした。


「神様の、最期……」


 その言葉は鋭い刃となって奈珠那の心に突き刺さる。以前、珀弥から聞いた言葉が脳裏をよぎった。


“──神は……愛を知らなければ、消えてしまうんです”


 瓊環が消えてしまう未来など想像したくはなかった。だから、忘れたふりをしていたのに。忘れられない真実を突きつけられて、胸の痛みが一層増した。

 葛藤する奈珠那。触れてはいけない。瓊環に「無防備なことをするな」と言われたばかりだ。

 けれど、もし──彼が自分に隠している痛みや、避けようのない末路があるのだとしたら。それを知らないまま、自分だけがこの温かな陽だまりの中にいていいのだろうか。


 手鏡を見つめたまま、奈珠那はしばらく動けずにいた。

 紫の縁取りは、月明かりを受けて艶を帯びている。漣が呼んでいるかのように、鏡の中で淡い光がゆらりと揺れた。

 触れれば戻れない気がした。しかし、触れなければ何もわからず、もどかしい気持ちを抱えたままだ。

 瓊環の姿が浮かぶ。怒った顔、笑った顔、そして、自分の名を呼ぶやさしい顔。

 奈珠那は、きゅっと唇を結んだ。無防備でいることと、何も知らないことは、きっと同じではない。瓊環が消える運命にあるのならば。


 ──私は……知らないふりなんて、できない。


 震える指先を伸ばして、そっと鏡の表面に触れた。

 ひやりと、冬の夜気よりもずっと冷たい感触が指を伝った瞬間。鏡から紫色の光があふれ出す。視界が藤の色に染まり、足元の感覚が失われた。

 

「……っ」


 以前にも似た感覚があった。瓊環に手を引かれ、神域へと連れられたとき。世界の境目を越える、あの眩暈(めまい)。

 床が崩れ落ちたような感覚がした刹那、誘われるように奈珠那の意識は紫の底へと引き込まれていった。


 ⁂

 

 はっと、目を開けた。足元は地に着いており、眩暈もあのときほどひどくない。意識もしっかりしている。

 戸惑いながら、奈珠那は辺りを見回した。

 どこかの部屋のようだ。目の前には、先が見えないほどの庭が広がっている。そこには無数の藤の花が、淡い光を放ちながら枝垂れていた。

 息を呑むほど壮観な景色。だが、違和感は拭えない。風は吹いていないのに、空気が澄みきっている。夜でも冬でもない空の色は、時間の流れを曖昧にさせた。

 

「……ここは?」

 

 答えるように、背後から軽やかな声がした。


「ようこそ、奈珠那ちゃん。ここは僕の神域だよ」


 振り返ると、漣がにこりと笑って立っていた。昼間よりもずっと穏やかな笑み。けれど菫色の瞳だけは、蔓(つた)のように絡みついてくるようだ。


「覚悟、決まったみたいだね」


 にこやかに言う漣。奈珠那は、小さく息を吸った。

 

「神様の最期って……なんなんですか」

「まあ、そう急がずに」


 漣は奈珠那の横を通り過ぎ、悪びれもせず縁側に腰を下ろす。


「座って。奈珠那ちゃんが立ったままじゃ、話しづらいから」

「私は……ここで……」


 一歩も近づかないまま、奈珠那はその場に立ち留まった。無防備でいるな、と瓊環に言われた言葉が胸の中で小さく脈打つ。

 気を引き締める奈珠那。ここは、瓊環の神域ではない。優しさに身を委ねていい場所ではないのだ。

 

「ふふ」


 漣は奈珠那の様子を見て、どこか満足そうに目を細めた。

 

「いいね、その顔。ちゃんと警戒してる」

「……」

「安心して。今は、無理やりどうこうするつもりはないから」


 ひと息ついた漣の吐息に呼応するように、藤の花がさらりと揺れた。


「奈珠那ちゃん、愛を知らない神は消えるって聞いたことあるよね」

「……はい」


 否定する理由はなかった。知っているからこそ、ここに来たのだから。

 

「じゃあさ。僕たち神について、奈珠那ちゃんはどの程度知ってる?」


 漣は縁側に腰を下ろしたまま奈珠那を見上げる。

 その問いに、奈珠那は口をつぐんだ。知らないことを知らないまま生きてきたのだと、漣の言葉で今さら思い知らされる。

 答えに詰まる奈珠那を、漣は気にした様子もなく続けた。


「僕たちみたいな神は、人間の願いや祈りから生まれるんだ」


 漣の顔からは、いつもの軽い笑みが消えていた。藤の香りが一段と強くなる。むせそうなほど濃い花の匂い。甘さを通り越して、苦味のように喉元まで伝ってきた。

 

「祀られ、必要とされ、想われることで、神は存在を保つことができる。瓊環もそうだよ」

「瓊環様、も……?」

「万年桜が人の心を惹きつけ、祈りを集めている。僕みたいな神とは比べものにならないほどに。だから瓊環は、愛を知らなくても今日まで在り続けられたんだ」


 漣の口調は感情が抜け落ちたように淡々としていた。

 しかし、彼の発するひと言ひと言が、真実という重さを伴いながら奈珠那の胸に深く沈む。その重みに押しつぶされたように、奈珠那は立ち尽くしたまま漣から視線を逸らすことができずにいた。


「ねえ、奈珠那ちゃん」


 名を呼ばれただけで、肩がわずかに跳ねる。

 

「もし、愛もなく、誰からの願いも祈りも届かなくなった神がいたとしたら……どうなると思う?」

 

 答えはわかっているのに、すぐには声にできなかった。口に出すのを躊躇(ためら)ってしまうほど、その真実は残酷で、怖いものだったからだ。

 奈珠那は一度だけ喉を鳴らし、胸の前で小さく手を握りしめた。

 

「……消えて、しまう……」


 ようやく絞り出した、掠れた声色だった。

 

「そう、消えちゃうんだ。……僕みたいに」


 その言葉と同時に、漣の身体が霧に溶けるように一瞬だけ淡く透ける。すぐに戻ったものの、今にも風にさらわれ、跡形もなく消えてしまいそうだった。

 

「漣様……!?」

「もう時間切れなんだ」


 ため息をもらした漣の姿が、再び朧げになる。

 奈珠那はまだ、目の前で起きている事態を整理できずにいた。

 理由も原因もわからないまま、目の前からひとりの神が消えようとしている。それだけでも、じゅうぶんに恐ろしい。それ以上に、瓊環の旧友だという事実が奈珠那の胸を締めつけた。

 二人が過ごしてきた時間を、奈珠那は知らない。だからと言って、このまま終わらせていいはずがない。放ってなどおけない。

 奈珠那の身体は、考えるよりも先に漣のそばに寄っていた。


「消えるなんて、そんな……。何か、私にできることは……」

「奈珠那ちゃんは本当に優しいね」


 かすかに笑った漣の仕草は、どこか壊れかけて見えた。自嘲と失意が入り混じったその笑みは、救いを求めるようで、諦めきったようでもある。

 やり場を失った漣の感情は縋(すが)るように奈珠那へと傾き、逃げ場のない距離まで迫ってくるようだった。

 

「……っ」


 距離が詰まったと気づいたときには、視界が揺れていた。背中に冷たい感触が走り、見上げた先には漣の顔がある。藤の香りが一気に押し寄せた。

 身体を押さえつける力は強くない。けれど、退路を断つように漣の影が覆いかぶさっている。

 

「僕のこと、好きになってくれる?」

「……え」

「奈珠那ちゃんにできることだよ。僕を好きになって」


 言葉の意味を理解しきれず、喉がひくりと震えた。

 

「……私、は……」

「瓊環のことが好きなんでしょ」


 透き通るほど白い指先で頬をなぞられる。氷のように冷たい感触に身体がこわばった。


「それでもいいよ。ついでに僕も愛してくれれば」


 耳元に熱のこもった吐息が落ちる。逃げなければと思うのに、身体が言うことをきかない。組み伏せる漣の腕だけが、鉛のように重くのしかかっていた。


 ──瓊環様……!


 心の中で名を叫んだ、その瞬間だった。


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