第二十二話 藤の花の神
季節は静かに冬へと移ろっていた。
朝の空気は凛として、部屋の障子を開けると庭一面が白に覆われていた。何度目かの雪が、音を吸い込むように積もっていく。結晶が重なり合い、世界を無垢に染めているようだった。
景色と反して、屋敷の中はそれほど寒くはなかった。
神域の空気は一年を通して穏やかで、汗ばむような暑さも、凍えるほどの冷えもない。それでも、季節が巡っていることは肌でわかる。
最近になって、奈珠那はそれが瓊環の力によるものだと知った。神域には、本来四季など存在しないらしい。しかし長い時を生きる神は、人間と違い季節や時間の流れが曖昧になってしまう。だから神はこうしてわずかな変化をつけるのだと、瓊環は言っていた。
奈珠那は上着を羽織り、縁側へと向かう。
屋敷での暮らしにも、すっかり慣れた。この時期の朝は珀弥が騒がしく雪を踏みしめ、昼や夜には囲炉裏の火を囲んで食事をとる。奈珠那は日々縫い物をしたり、書を読んだり、ときどき庭を眺めたりする。
特別なことは何もない。けれど、退屈だと思ったことは一度だってなかった。
瓊環はいつも少し離れた場所にいた。声をかければ応えてくれるし、視線が合えば静かに頷く。必要以上に触れ合うことはない。でも彼の存在は常に隣にあって、いつの間にかそれが当たり前になっていた。
そんな瓊環だったが、冬になって庭に出ることが増えた。白く積もる雪の中、色を失わない桜のそばに立つ背中を、奈珠那は縁側から何も言わずに見つめている。
脳裏をよぎるのは、珀弥の言葉だった。
──愛を知らなければ……消えてしまう。
もし、瓊環が消えてしまったとしたら、助けてもらった自分はどうなるのだろう。元いた家に戻れるわけでもなく、この神域に一人取り残されてしまうのだろうか。それとも、契約通り瓊環は自分の命を奪っていくのだろうか。
だが、そんな先のことを考えるよりも胸に迫ってくるのは、もっと単純な感情だった。
──いなくならいでほしい。
自分を助けてくれたから。居場所を与えてくれたから。そんな理由は、後付けのようなもの。
たった一人の神──瓊環という存在がこの世界から消えてしまうことが、どうしようもなく怖かった。
彼は愛を知らないまま神として在り続けている。だからこそ、命が尽きかけているのだ。
自分が愛せば、瓊環は消えずに済むのかもしれない。そう理屈ではわかっている。
しかし果たして、瓊環と同じように愛を知らない奈珠那の想いが、彼をつなぎ留めるほどのものになり得るのだろうか。
──こんな賭けみたいなことに……どうして私なんかを……。
答えの出ない数々の問いが胸をよぎり、奈珠那は小さく首を振る。問いただす勇気も、答えを受け止める覚悟も、自分にはまだ足りない。瓊環の背を見つめながら、悠然と流れる時間に身を委ねていた。
「奈珠那」
「はい」
名を呼ばれて縁側から下りる。草履の裏で、雪がさくりと音を立てた。
「寒くないか?」
「はい、大丈夫です」
「そうか」
わずかに目を細める瓊環。吐く息が白く染まる景色の中、かつて冷え切っていたはずの金の瞳は、雪解け水のようにやわらかな光を湛えていた。
「瓊環様! 奈珠那様!」
甲高い声とともに、珀弥が雪を蹴散らしながら駆け寄ってくる。
「見てください、雪だるまです!」
両手にちょこんと乗せられたそれは、歪で今にも崩れそうなものだったが。珀弥が精いっぱいの思いを込めて作ったものだと、誇らしげな顔を見てすぐにわかった。
「かわいいですね」
「下手くそめ」
奈珠那の賞賛と、瓊環の容赦ない一言が重なる。珀弥は瓊環の言葉にだけ反応して、「ひどい!」と大袈裟に肩を落としてみせた。
「もう一回、作り直してきます。次は度肝を抜くような立派なやつを作りますから!」
そう宣言して、雪を踏みしめながら庭の奥へ駆けていく。
「本当に、珀弥は子どもみたいですね」
「お前が来てから、なおうるさくなったな」
言葉とは裏腹に、瓊環の声には棘がない。そんな彼の横顔を盗み見て、奈珠那は小さく笑った。
そのとき、ふと風向きが変わった。ひんやりとした空気に、わずかな違和感が混じる。桜が散ったあとにやってくる、甘くて、どこか人を酔わせるような花の香りが鼻先をくすぐった。
「……近頃、来客が多いな」
「え?」
奈珠那が戸惑いながら顔を上げると、雪を踏む音もなく、聞いたことのない低い声が庭に落ちた。
「やあ。久しいね、瓊環。百五十年ぶりかな」
現れたのは、薄紫色の髪を顎の辺りで真っ直ぐに切り揃えた、中性的な容姿の男だった。
雪景色の中にあっても浮かない佇まい。足音も気配もほとんどなく、気づけばそこに立っている。口元には人懐こい笑みを浮かべ、場の空気を自分の色に染めてしまう軽さがあった。
「漣」
「もっと驚いてくれてもいいんじゃない? せっかく旧友が遊びにきたっていうのに」
男は軽く笑い、肩をすくめる。
「瓊環様……このお方は?」
おそるおそる訊ねる間に、漣と呼ばれた男が目の前でぴたりと足を止めた。
「君が最近、瓊環が拾ったっていう女の子か」
言いながら、ぐいと興味深そうに奈珠那へ顔を寄せる。その瞳は宵のうちを思わせる菫色をしていて、表情こそ柔らかいのにまったく底が見えなかった。
「僕は漣。瓊環とは腐れ縁ってやつかな。天寧から散々愚痴を聞かされてさ、どんなもんかなって見にきたんだけど……」
漣は白く細い指を奈珠那へ伸ばした。
「思ったより、ずっと可愛いね」
「え……」
蓮の指先が彼女の頬に触れるかという瞬間、横から伸びてきた力強い腕が奈珠那の肩を抱き寄せた。
「離れろ」
瓊環の低い声が、すぐ背後から響いた。
「冗談だよ」
あっさりと手を引く漣。どこか面白がっているような仕草だ。
「こいつは俺の契約相手だ。気安く触れるな」
「珍しいね、瓊環がそんな顔するなんて。天寧が嫉くのもわかるなあ」
肩を抱く瓊環の手に、わずかに力がこもった。
「奈珠那ちゃん、だよね。僕は、藤の神なんだ。これからよろしくね」
ふわりと甘い香りが風に乗った。
ああ、と奈珠那はそこで気づく。先ほど感じた違和感の正体は、この香りだったのだ。
雪の庭に紛れ込んだ、季節外れの花の匂い。それは、漣という神から感じた藤の花の香りだった。




