第二十一話 ◆萌芽
季節は順繰りに巡っていた。屋敷の木々は色づき、風が運ぶ匂いも夏とは違う。
神域の主──瓊環だけは変わらず、色が移ろわない庭の桜とともにそこにあった。神としての務めも、日々の流れも、その桜のように動かぬものだと、疑いもしなかった。
庭の桜は、彼の力で咲き留めているだけのもの。命を刻む万年桜とは違い、時を止められた飾りのようなものに過ぎない。
その静止した景色の中で、ひとつだけ確実に変わっているものがあった。
瓊環の視線だ。
気づけば、奈珠那がどこにいるかを先に探している。声をかけられる前に、その気配を拾っている。
それを特別だと、瓊環はまだ思っていなかった。思う必要がない、と判断していたのかもしれない。
しかし、瓊環は自分が止めている桜よりも、彼女との時間のほうがよほど眩しく映るような気がしていた。
だからだろうか。庭に出るより先に、瓊環は奈珠那の姿を探していた。
──気配がないな。
奈珠那の姿は屋敷の中にも、廊下にも見当たらない。ほんのわずかな違和感。それが引っかかる。
奈珠那がいない──それだけのことが、これほど意識に上るようになったのは、一体いつからだろう。
「……出かけた、か」
自分で口にして、瓊環はわずかに眉をひそめる。
「勝手にいなくなるな」と言い渡したのだ。奈珠那がそれを破るとは思えない。だから、気にすることなどない。放っておけばいい。
そう思ったはずなのに、足は自然と門のほうへ向かっていた。
門を出て奈珠那の居場所を探る。契約の印を結んでいる彼女の居場所は、意識を向ければすぐに辿れる。
目を閉じる瓊環。かすかな感触が胸に触れた瞬間、瓊環ははっと目を開いた。奈珠那がいるのは屋敷の敷地を抜けて、かなり離れた場所だった。
印から伝わる彼女の状態に異変はない。息も整い、恐怖や痛みも感じられなかった。無事だとわかっても、胸の奥には小さなざわめきが残る。
──奈珠那……どこへ。
夏の記憶が脳裏をかすめた。魂までも凍りついたかのような、あの冷え切った身体の感触。
いや、必要以上に思い出すことではない。
理屈で切り捨てながら、瓊環は奈珠那がいる方向へ歩き出す。彼女がそこにいると知っただけで、足が止まらなくなっていた。
⁂
奈珠那がいたのは、小さな花畑だった。
辺り一面に秋桜が咲き乱れ、彩度の高い赤紫色の花弁が風に揺れている。
その中心で、奈珠那がしゃがみ込んでいた。花々に囲まれた彼女の背中は、遠目では消えてしまいそうなほど小さく見える。
──具合でも悪いのか?
嫌な予感がよぎった瓊環は、無意識に歩を早めていた。
「奈珠那」
名を呼ぶと、彼女の肩が小さく揺れた。
「あ……瓊環様」
ゆっくりと立ち上がり、奈珠那が振り返った。顔色はよく、やはり呼吸も乱れてはいない。あの夏の日のような危うさは、どこにも見当たらなかった。
「どうかされましたか?」
眉を下げ、わずかに微笑みながら小首を傾げる奈珠那を見て、瓊環は小さく息を呑んだ。
少し前の彼女なら、見つかった瞬間に「申し訳ございません」と平伏し、怯えた緋い瞳でこちらの顔色を窺っていたはず。
だが、今の彼女の瞳は、秋空のようにすっきりと澄み渡っていた。
「……いや」
短く答えると、奈珠那は続きを待つようにさらに首を傾げた。
言葉を待っているだけの無防備な仕草。瓊環は一瞬、視線を逸らした。
探していた、などとは言えない。胸がざわめき、理由もなく居場所を辿った、なんてなおさらだ。
ほんのわずかな間を置いて、瓊環は平静を装った。
「なぜ、こんな場所に?」
「以前……紅玉の果実を取りに行くとき、暗がりの中うっすらと目に入ったんです。そのときは、まだ咲いていませんでしたけれど」
足元を見下ろす奈珠那。視線の先には籠があり、中には手折られた秋桜が並んでいた。
「お屋敷の彩りになるかと思って。少しだけ、摘みに来ました」
咎められるのを恐れている様子はない。許可を乞うでも、言い訳をするでもなく、自分の考えを素直に言葉にしている。
それが瓊環の意識をわずかに乱した。以前の奈珠那なら、こんなふうに話しただろうか。ここに来た理由を、こんなにも穏やかな表情で語っただろうか。
秋桜の鮮明な色に紛れて、彼女は確かにここにいる。守られる存在としてではなく、自分の足で立っていた。
──変わったな。
生死に関心がなく、感情を持たなかった壊れかけの少女はいま、自分が思う美しいものを愛でている。命令でも強制でもなく、奈珠那自身の意思でここに来たのだ。
「咲いたら、きっと綺麗だろうなって思ってたんです。だから……瓊環様と一緒に見れて、よかったです」
儚げに微笑む彼女の顔を前に、瓊環は返す言葉を失う。「一緒に」という響きは、驚くほどに熱を持ちながら深く胸に落ちた。
それを悟られないようにしたくて、選んだ言葉は少しだけ棘を含んでいた。
「勝手に遠くへ行くな、と言ったはずだ」
奈珠那の瞳が、かすかに曇った。
「申し訳……ございません」
目を伏せた彼女の顔から、笑みが消えていく。
──違う……。
こんな言葉を言いたかったのではない。
奈珠那から謝罪の言葉を引き出したかったわけでも、暗い顔をさせたかったわけでもない。目が届かない場所へ行った彼女を案じ、焦り、心が乱れた自分を認めるのが恐ろしいだけだったのだ。
瓊環は近場にあった秋桜を一輪手折り、奈珠那との距離を縮めた。
「奈珠那」
叱責を待つように彼女は小さく瞬きをする。緋い瞳が、こちらを映した。
瓊環は何も言わず、そっと手を伸ばす。指先が触れたのは艶めく黒鳶色の髪と、ほのかな人の体温。
花を挿すだけの、あまりにも些細な所作だった。
「……瓊環様?」
こちらを見上げる、わずかに戸惑った奈珠那の顔を見て、瓊環の中で記憶が疼いた。出会ったばかり、組み伏せて着物に手をかけたときの記憶だ。恐怖にこわばり、嗚咽をもらしながら泣いていた少女の姿。
安易に触れて、また泣かせてしまうのではないか。そう思ったが──秋桜に囲まれている彼女は、そうではなかった。
触れられても震えず、少しだけ頬を染めて困ったように笑っていた。
「……似合っている」
ふとこぼれた言葉は、花に向けた言葉だったのか。それとも、彼女自身に向けたものだったのか。
瓊環が答えを探すことはなかった。どちらであっても構わないほど、視界には奈珠那しか映っていなかったからだ。
奈珠那は一瞬きょとんとしたあと、指先で簪代わりの秋桜に触れた。
「ありがとうございます」
その声は思ったよりも近くて柔らかい。やがて彼女の頬が挿された秋桜よりも深く、ゆるやかに赤く染まっていく。
奈珠那から視線を逸らせなかった。胸の奥に息づいたのは安堵と、名づけられない熱。
かつて彼女を泣かせたこの手は、彼女の笑顔ひとつを失うことをひどく恐れていた。
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次回から第三章です
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