第二十話 自覚
目を覚ましたとき、部屋の中はすでに夕暮れに染まっていた。
障子越しに差し込む橙色の光が、畳の上に長い影を落としている。どうやら半日以上眠っていらしい。
「……あ」
身を起こそうとして、いつもより身体が軽いことに気づく。重だるさも、息苦しさも消えている。代わりに、身体の奥にかすかな温もりが残っていた。
──ああ……。
理由を考えるよりも先に、答えは浮かんだ。
──瓊環様……。
抱き上げられた彼の腕の感触を、まだ肌が覚えている。身体に残るその温もりは、自分を守るように巡らされていた彼の体温と力の名残だと、言葉にしなくてもわかった。
「奈珠那様!」
のそりと上半身を起こした瞬間、目に飛び込んできたのは狼狽した幼い狐の神使。震える耳と忙しなく動く尻尾は、彼の動揺を表しているようだった。
「珀弥……」
「よ、よかった……! お身体の具合はいかがですか!? 話は瓊環様から強引に聞き出しました!」
奈珠那は布団の上で、ゆっくりと頭を下げる。
「はい。もう大丈夫みたいです」
「本当ですか……はあ……」
大きく息を吐き、珀弥はようやく肩の力を抜いた。
その仕草に、初めてこの屋敷に来た日のことがぼんやりと脳裏をよぎる。あのときも、こうして彼がそばにいてくれた。
「ありがとうございます」
礼を述べると、珀弥は少し照れたように鼻の下をかいた。
「まったく。天寧様の奔放さには毎回振り回されますよ。次に来られた際には、オレがびしっと言いますからね!」
その言葉に、小さく首を振る奈珠那。
「天寧様は……悪くないんです」
「え?」
「だから、珀弥も……どうか、いつも通り接してあげてください」
「……わかりました! 奈珠那様がそう仰るのであれば」
ほんの少し訝しげに顔をしかめた珀弥だったが、すぐにぱっと顔を上げ、いつもの調子で胸を張った。
「オレ、奈珠那様の選ぶ言葉はちゃんと信じてますから!」
「ありがとうございます」
互いに微笑みを交わしたあと、珀弥がふっと力を抜くように息を吐いた。
「……それにしても」
珀弥の声色が、わずかに変わった。ぴんと伸びていた耳が悠然と落ち着いていく。猫のように無邪気に揺れていた尻尾も、いつの間にか静止していた。
青磁色の瞳が、まっすぐに奈珠那を映す。そこに宿っているのは、長く神に仕えてきた神使としての輝きだった。
「奈珠那様は、本当に不思議なお方ですね」
珀弥は小首を傾げて、くすりと微笑んだ。
「どんなにきつい言葉を向けられても、傷つけられても、人を拒まず、恨まず……ちゃんと相手を見ようとする。天寧様がおとなしく引かれたのも、奈珠那様のその在り方に思うところがあったからでしょう」
「私は……そんなつもりじゃ……」
「もちろん、ご本人に自覚がないところも含めて、ですよ」
否定しようとした言葉を、珀弥の穏やかな声が遮る。奈珠那は戸惑いながら、自身の細い指先を見つめた。
自分は必死だっただけだ。けれど、そんな無防備な自分の振る舞いが神の心を動かしたのだと、珀弥は言った。
「だからこそ。瓊環様も、奈珠那様を見過ごせなくなっている。変わっているのではなく、揺らいでいる、と言ったほうが近いかもしれませんね」
「……揺らいで、いる……」
「ええ。あの人にとって、それはとても大きなことなんですよ」
揺らいでいるのは、奈珠那も同じなのかもしれない。
生きたいと思ってしまったこと、戻りたいと願ってしまったこと。そのすべてが、まだ名前を持たないまま胸で小さく波打っている。
「あの……珀弥」
「はい、なんでしょう?」
少しだけ、声の調子が明るく戻った。珀弥はいつもの人懐っこい表情を浮かべ、こちらの言葉を待つように耳をぴょこりと立ち上げている。
奈珠那は机の上に置かれた紅玉の果実を見つめ、昨夜、夜風に紛れて消えた女神の言葉を拾い上げた。
「天寧様が……『あなたなら、瓊環を助けられるのかもね』って言ったんです」
珀弥の表情が、ぴたりと止まる。
「それって……どういう意味か、わかりますか?」
問いかけると、彼は一瞬だけ言葉を探すように視線を伏せ、それから神妙な面持ちで口を開いた。
「奈珠那様の世界……人間界の万年桜。最近、咲かなくなりましたよね」
「え、ええ……」
思いがけない言葉に戸惑いながらも、小さく頷いた。
「あれは、ただの象徴ではありません。瓊環様の命そのものなんです」
「……命?」
「はい。五百年余り、万年桜は花を結び続けてきました。でも……もう、限界が近いんです」
珀弥の声は静かだった。事実のみを告げるように。
「神が神として在り続けるには、必要なものがあります。それが欠ければ、どれほど強大でも、やがて消えてしまう。瓊環様には……それが足りていないんです」
「足りない、もの……?」
ほんのわずかな間を置いて、珀弥は告げた。
「愛です」
短い言葉は散りかけの花弁のように奈珠那の胸に触れて、はらりと落ちた。
「神は……愛を知らなければ、消えてしまうんです」
奈珠那の胸に波紋が広がった。それは、落ちた花弁が水面に触れたように音もなく、けれど身体の隅々まで浸透していく。
──愛……。
瓊環を愛せなければ、彼は消える。
衝撃的な事実に、奈珠那は思わず胸元の衣を握りしめた。
彼を愛すること──それは自分に課された残酷な運命だと、どこかで思っていた。
だが、本当は違う。
それが彼の救いになると気づいた瞬間、胸の奥で小さく何かが疼いた。
消えないでほしい、と思ってしまった自分の心が、灯のようにそこにあった。




