第十八話 意思
光の届かない、底なし沼に沈んでいくような感覚だった。手足の感覚はなく、極寒の地に裸で放り出されたかのような冷えが、内側から身体を貫いていく。
重苦しいほどの神気は、容赦なく奈珠那の細い命を削り取ろうとしていた。胸元に抱いた果実の重みだけが、奈珠那をこの世に繋ぎ止めている。
まぶたが重い。息が詰まる。もはや奈珠那は、身体が崩れるのを待つだけだった。
意識が闇に溶け落ちようとした、その刹那。
「奈珠那!」
鼓膜を震わせたのは、これまで聞いたこともない切迫した叫び。空気が裂けるように濃密な神気が一瞬で押しのけられ、眩いくらいの光が闇に差し込んだ。
かすみきった目を細めた瞬間、冷え切った身体が強く抱き寄せられる。
「しっかりしろ!」
鋭い声と同時に、ほのかな熱が身体に触れた。神の力よりも温かな、誰かの温もりだった。
奈珠那は気力を振り絞り、わずかにまぶたを押し上げる。視界の中に映ったのは、夜闇の中でも鮮明に輝く金色の双眸。いつも凪いでいるはずのその瞳が、今は荒れ狂う水面のように揺れていた。
「……たま、き……さま……?」
掠れた声で名を呼ぶと、抱きしめる腕がさらに強くなった。
「今は喋るな」
叱責のようでいて、声は少し震えている。瓊環は奈珠那の身体をためらいなく腕の中に抱き上げた。
冷え切っていた身体に、じわりと熱が戻る。凍りついていた血がゆっくりと巡り始め、浅く乱れていた呼吸が次第に整っていった。
以前、体調を崩したときと同じ、安らかでやさしい光の膜が身体を包み込んでいる。きっと彼がまた、自分のために力を使ってくれているのだろう。
「なぜ、あんな場所に一人で……」
奈珠那を抱きかかえ屋敷へと歩き出した瓊環の声は、ところどころで途切れていた。発するというより、もれ出したような吐息混じりの声。怒りよりも先に、抑えきれない動揺が滲んでいた。
「……申し訳……ございません」
奈珠那は震える両手を動かし、胸元に隠していたものを差し出した。
「これ……を……取って、きました……」
花弁に守られた紅玉の珠は、奈珠那の胸の上で心臓のように脈打ち、煌めきを放っている。
命を懸けて摘みとったそれを直視した瓊環は、言葉を失ったようだった。目をわずかに見開いて、視線を紅い果実に落としている。
「……こんなもののために?」
呆然とした声が落ちてすぐ、彼の瞳から動揺が消えた。状況を理解したと同時に、感情が一気に反転したかのように語気が強まった。
「この辺りがどれほど危険か、珀弥が教えなかったはずはない。お前、もしかして……」
歩みを進めていた瓊環の足が、ぴたりと止まる。月光のように輝く金の瞳が、奈珠那を射抜いた。
「死にたくなったのか?」
核心だけを突くような問いかけだった。
奈珠那は彼の瞳の奥で揺らいだものを、怒りとは思わなかった。その問いは凍てつくような怒りを上回るほど、切実なものに聞こえたからだ。
「そうじゃ……ありません」
奈珠那は必死に言葉を紡いだ。
「私は……何も持っていません。守られて、生かされているだけ……そう思ったら、自分が嫌になったんです」
果実を抱えている指先に自然と力がこもる。
「だけど、どうすればいいのか、わからなくて……。でも、何もしないまま、ここに居続けるなんて……できませんでした。だから……果実を取りに来たんです」
言いながら、呼吸をするのが楽になっていった。
肺を刺していた濃い神気から、彼が守り続けてくれているのだろう。毛布に包まれているような温もりが全身を満たしていた。
──また、守ってもらってる……。
優しさに甘えてしまいたい気持ちと、このままではいけないという思いがせめぎ合う。
だけど、目を逸らすなんてしたくない。奈珠那は初めて、胸の奥にある感情を言葉に変えた。
「私……今は死にたいなんて思っていません。生きてみたいって、少しだけ、思えるようになったんです」
それが何を意味するのか理解できないほど、奈珠那は鈍くもなかった。
「生きる」という選択は、この神と向き合い続けるということだ。期限付きの契約も、その内容も、忘れていたわけではない。
自分のような人間が愛を知ることができるのか。ましてや、それを神に向けることなど。
それでも──。
「瓊環様……」
奈珠那は小さく息を吸った。
「私、戻りたかったんです。瓊環様のいる場所に」
瓊環はすぐには答えなかった。代わりに、自分を抱える腕にわずかな力が入ったのがわかった。
落とさぬように、離さぬようにと、その腕は奈珠那を繋ぎ止めるかのようだった。
「……帰るぞ」
それだけ言って、瓊環は再び歩き出した。
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