第4話 至高の唐揚げと甘い敗北
白い大皿の上に、こんがりと黄金色に輝く唐揚げが山のように積まれている。
パチパチ……と、衣に残った油が微かに弾ける心地よい音。
そこから立ち上る、暴力的なまでに香ばしい醤油とニンニクの香りが、夜の静かな中央大厨房を完全に支配していた。
「……」
孤高の小隊長として恐れられるエレノア・ヴェルディは今、人生最大の試練に直面していた。
カウンター席に座る彼女の視線は、皿の上の料理から一ミリたりとも動かない。
サファイアブルーの澄んだ瞳が、かすかに揺れている。
「ひょ~! 小隊長さん、さっきから涎が出そうになってるっすよ!」
エプロンのポケットから顔を出した相棒のペティが、青い魔石を点滅させながらニヤニヤと笑い声を上げた。
「マスターの完璧な二度揚げの前に、あんたの意地がいつまでもつか見ものっすね!」
「だ、黙れ喋る短剣! 私は涎など垂らしていない!」
エレノアは慌てて口元を手の甲で拭ったが、その頬はすでに微かな朱に染まっていた。
「それに、私はこのような軟弱な料理に屈するつもりはない。武人に必要なのは栄養であって、味など不要だ……っ!」
言葉ではそう強がっているものの、彼女の小さな手はすでに木製のフォークを固く握りしめている。
極寒の大樹海での過酷な遠征、冷え切った体、そして限界を迎えている空腹。
そこへ叩き込まれた極上の香気は、彼女の強固な理性を内側から激しく揺さぶっていた。
「冷めると衣のサクサク感が損なわれますよ」
俺、南条悠はカウンター越しに優しく微笑みかけた。
「ホーンラビットの肉は元々あっさりしていますが、特製のタレを揉み込んで油で揚げることで、旨味を極限まで引き出しています。料理人としては、一番美味しい瞬間に食べてほしいですね」
「……くっ、お前という男は……!」
エレノアは悔しそうに唇を噛んだ。
だが、限界まで酷使された彼女の肉体は、これ以上の我慢を許さなかった。
ぐぅぅぅぅぅ……っ。
再び、彼女の華奢なお腹から抗えない空腹のサインが鳴り響く。
「あ……うぅ……っ」
白銀の髪の隙間から覗く耳の先端まで真っ赤に染め上げ、エレノアはついに観念したように息を吐いた。
「……勘違いするな。これは、新しい料理長が作った得体の知れない料理に、毒が入っていないか私が自ら毒味をしてやるだけだ。決して、匂いに釣られたわけでは……ないからな!」
「はいはい。毒味でもなんでも構いません。さあ、どうぞ」
俺が促すと、エレノアは震える手でフォークを握り直し、一番大きな唐揚げへと狙いを定めた。
サクッ。
フォークの先端が黄金色の衣に触れた瞬間、小気味良い音が厨房に響く。
「なっ……!? なんだ、この硬さは……いや、硬いのではない。表面だけが薄いガラスのように張っている……!?」
エレノアが驚きに目を丸くする。
フォークが衣を突破すると、今度は抵抗なく柔らかな肉の奥深くまでスゥッと沈み込んでいった。
透明な肉汁が、フォークの刺さった穴からじゅわっと溢れ出し、衣の表面をキラキラと輝かせる。
「い、いただきます……」
エレノアは小さな桜色の唇を開き、唐揚げを一口で頬張った。
サクゥゥゥゥッ!!
静まり返った大厨房に、信じられないほど軽快で、耳に心地よい咀嚼音が響き渡る。
その瞬間だった。
「ぬ、ぬぅ……っ!?」
エレノアの動きが、ピタリと完全に停止した。
サファイアブルーの瞳が、これ以上ないほどに限界まで見開かれている。
「おっ! 出たっす! 小隊長のフリーズ現象っす!」
ペティが嬉しそうに叫ぶが、エレノアの耳にはもう何も届いていなかった。
彼女の脳内は今、かつて経験したことのない味覚の暴力によってパニックを引き起こしている。
(な、なんだこれは……!? 噛んだ瞬間、衣が弾けて消えた……!?)
エレノアの口の中で、完璧な温度で二度揚げされた衣が心地よく崩れていく。
それに続いて、閉じ込められていたホーンラビットの熱い肉汁が、爆発的な勢いで舌の上へと流れ込んできたのだ。
(熱い……! だが、美味い……! 肉が、信じられないほど柔らかい!)
魔物肉特有の血生臭さは微塵も感じられない。
生姜とニンニクのパンチの効いた香りが鼻腔を抜け、特製醤油ダレの香ばしさと奥深い甘みが、疲労しきった細胞の一つ一つに染み渡っていく。
「……はふっ、ほふっ……んんっ……!」
エレノアは熱さに目を白黒させながらも、口の中の唐揚げを吐き出すことができなかった。
あまりにも美味すぎる。
パサパサの干し肉を虚無の顔で噛みちぎっていた彼女にとって、このジューシーな塊は、彼女の知る食の世界を根底から覆す異次元の食べ物だった。
コクンッ。
最後に残った濃厚な旨味ごと、エレノアは唐揚げを飲み込んだ。
「…………」
数秒の、完全な沈黙。
そして、鬼の小隊長として恐れられた彼女の全身から、ふにゃりと完全に力が抜けた。
張り詰めていた肩の力が落ち、白く乾燥していた頬が、熱と幸福感でみるみると桜色に染まっていく。
「あ、あぁ……なんという……なんという美味さだ……」
エレノアの声は、もはや威厳の欠片もない、とろけるような甘い吐息へと変わっていた。
「魔物肉が……こんなにも優しく、心を満たしてくれるなんて……」
「お気に召したようで何よりです」
俺が微笑むと、エレノアはハッとして我に返り、慌てて背筋を伸ばそうとした。
だが、一度目覚めてしまった食欲は、もう彼女の理性では抑えきれない。
「も、もう一つ……いや、毒味が足りない! もっと詳しく調べねば……!」
言い訳もそこそこに、エレノアのフォークが目にも留まらぬ速さで次々と唐揚げを貫いていく。
サクッ、ジュワッ。
「んん~っ! ほふっ、はふっ……美味しい……美味しいぞ……!」
モグモグと頬をリスのように限界まで膨らませ、幸せそうに咀嚼を続けるエレノア。
その姿は、戦場で血に染まる冷徹な騎士ではなく、年相応の可愛らしい一人の女の子そのものだった。
「ひょ~! 見事な完敗っすね! 毒味って言いながら、皿の上がどんどん無くなっていくっす!」
「ペティ、静かに。彼女は本当に疲れていたんだ。ゆっくり食べさせてやれ」
俺は木製のコップに冷たい湧き水を注ぎ、彼女のそばにそっと置いた。
「ぷはぁっ!」
あっという間に山盛りの唐揚げを平らげ、水を一気に飲み干したエレノアが、満足そうに大きな息を吐く。
空になった皿を見つめ、彼女は自分がしでかしたことに気づいたのか、顔を両手で覆ってうつむいてしまった。
「私としたことが……食欲に負け、あんな浅ましい姿を……っ」
指の隙間から見える彼女の耳は、茹でダコのように真っ赤だ。
「恥じることはありませんよ。美味そうに食べてくれて、俺も料理人冥利に尽きます」
俺は布巾でカウンターを吹きながら、静かな声で言った。
「ま、大したもんじゃないですが……食べて休んでください」
俺の言葉に、エレノアは顔を上げ、潤んだサファイアブルーの瞳で俺を見つめた。
「ユウ殿……お前は、不思議な男だな」
彼女の瞳から、出会った時のような冷たい警戒心は消え去っていた。
代わりに宿っているのは、戸惑いと、ほんの少しの安堵の色。
「これで、少しは元気が出ましたか?」
「ああ。体が芯から温まって……それに、不思議と心まで軽くなった気がする」
ふわりと、エレノアが小さく微笑んだ。
それは、要塞の誰も見たことのない、彼女の本当の笑顔だった。
「さて、お腹も落ち着いたところで……」
俺は自身のスキル『絶対鮮度アイテムボックス』を展開し、光の空間に手を入れた。
「実は、食後の甘いデザートも仕込んでおいたんです。甘いものは別腹って言いますからね」
「あ、あまい……デザートだと……!?」
エレノアの頭の上の見えない耳が、ピクリと反応したのを俺は見逃さなかった。
大の甘党である彼女の第二の戦いが、今ここで幕を開けようとしていた。
【次回予告】
唐揚げの塩気の後は、至高の甘味がやってくる!
濃厚な卵とミルクの魔法に、鬼の小隊長が今度こそ完全に溶け落ちる!?
次回第5話「とろけるプリンとほどける緊張」。お楽しみに!
最後までお読みいただきありがとうございました!
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