第29話 喰らいつく狼たち
夜明け前の最前線要塞都市、アイゼン・ヴァルク。
太陽が昇るより早く、中央大厨房へと続く重厚な木の扉が、ガシャン、ガシャンという重々しい金属音と共に静かに押し開かれた。
「……アニキ。約束通り、腹を限界まで空かせてやってきたぜ」
そこに立っていたのは、完全武装の重装甲冑に身を固めた第1大隊長のバルトだった。
普段の豪快な笑みは完全に鳴りを潜め、その顔には、これから北方大樹海の深部という死地へ向かう戦士としての、研ぎ澄まされた凄みが漂っている。
彼の背後には、ハンスをはじめとする本隊の男騎士たちが、同じく決死の覚悟を秘めた緊張した顔つきでズラリと並んでいた。
昨日まで顔を青ざめさせていた彼らだが、今はその目に「生き残る」というギラギラとした強い意志の光が宿っている。
「おはようございます、バルトさん。皆さん、いい顔つきですね」
俺、南条悠は、真っ白なコックコート風エプロンの紐をきゅっと結び直し、彼らを静かに迎え入れた。
厨房の空気はピンと張り詰め、これから始まる過酷な遠征の重圧が、肌を刺すようにピリピリと伝わってくる。
「ひょ~! すっげぇ重圧っすね! でも、ハラペコの男たちの胃袋が鳴る音が、分厚い鎧の下からガンガン聞こえてくるっすよ!」
俺のエプロンのポケットから、相棒のペティが青い魔石をチカチカと明滅させて顔を出した。
張り詰めた空気の中でも、ペティのいつもと変わらない軽い口調が、少しだけ場を和ませてくれる。
「ああ。あいつらの空っぽの胃袋に、これから極上の気合いを叩き込むぞ」
俺はかまどの魔導コンロの火力を最大まで一気に引き上げ、特大の分厚い鉄板を熱し始めた。
そして、自身のスキルである絶対鮮度アイテムボックスを展開し、昨夜切り分けて完璧に保存しておいた、グランドバイソンの極上ロース肉を取り出す。
ズシンッ、と。
分厚い木製のまな板の上に置かれた真紅の赤身と、雪のように純白の脂身の完璧なコントラストに、男たちの喉がゴクリと大きく鳴る音が聞こえた。
「マスター! 鉄板の温度、最高潮に達したっす! いつでもいけるっすよ!」
「よし、いくぞ。男たちの出陣祝いだ」
俺は分厚く切り出した大量のグランドバイソンのステーキ肉をトングで掴み、熱気の立ち上る鉄板の上へと一気に並べた。
ジュワァァァァッ!!
肉が鉄板に触れた瞬間、爆発的な破裂音と共に、芳醇で甘美な獣の脂の香りが、真っ白な煙となって厨房の天井へと一気に立ち上った。
「うおおおっ……! な、なんだこの暴力的な音と匂いは……っ!」
最前列で見ていたバルトが、思わず前のめりになって叫ぶ。
「ただ焼くだけじゃないぞ。肉から溶け出したこの極上の脂を使って、まずは相棒を仕上げる」
俺はステーキ肉を鉄板の端に寄せ、空いたスペースに、みじん切りにした大量のニンニクと玉ねぎを放り込んだ。
チリチリと香ばしい音を立ててキツネ色に変わっていく香味野菜の上に、あらかじめ少し硬めに炊き上げておいた真っ白なご飯を豪快にぶちまける。
「ひょおおおっ! マスター、鉄板焼きのガーリックライスっすね! 幻の魔獣の脂を、米の一粒一粒にこれでもかとコーティングしていくっす!」
パラパラッ、ジュウウウッ!
俺は二つの金属のヘラを両手で巧みに操り、ご飯とニンニク、そしてグランドバイソンの上質な脂を、宙に舞わせるようにリズミカルに炒め合わせた。
仕上げに特製の醤油ダレを鉄板に直接ジュッと垂らし、焦がし醤油の圧倒的な香りをまとわせる。
「……たまらねぇ。匂いだけで、俺の魂が引っ張り出されそうだぜ……」
ハンスが涙目でヨダレを拭いながら呟く。
男たちの視線は、鉄板の上で黄金色に輝くご飯と肉に完全に釘付けになっていた。
「さあ、ここからが本番だ。主役のステーキを仕上げるぞ」
俺は休ませておいたステーキ肉を再び鉄板の中央に戻し、ニンニク、玉ねぎ、焦がしバター、そして醤油をベースに煮詰めておいた特製ガーリックソースを、熱々の肉の上からたっぷりと回しかけた。
ジュワワワワワッ!!!
厨房の空気が、ソースの焦げる悪魔的とも言える圧倒的な香ばしさに完全に支配された。
男たちの理性を根こそぎ吹き飛ばす、煙と肉汁とニンニクの、最強の匂いのシンフォニーだ。
「完成だ。グランドバイソンの厚切りステーキ、特製ガーリックライス盛り」
俺は巨大な木皿にガーリックライスを山盛りにし、その上に、中が美しいレアに仕上がった分厚いステーキをこれでもかと乗せた。
たっぷりのソースが肉肌を照らし、肉汁と共にガーリックライスへと染み込んでいく。
「さあ、冷めないうちに思いっきり喰ってくれ」
ドスンッ、と次々にカウンターへと配られる大盛りのステーキ皿。
バルトは震える両手でフォークとナイフを握りしめ、分厚い肉の一切れを、黄金色のガーリックライスと共に大きくすくい上げた。
そして、野獣のように大きく口を開け、それを一気に放り込んだ。
サクッ、ジュワワワッ。
コクン。
その瞬間。
「ぬ、ぬぅ……っ!?」
バルトの二メートル近い巨体が、まるで落雷に撃たれたようにビクリと激しく震え、その場で完全にフリーズした。
(な、なんだ……この信じられない柔らかさと、溢れ出す甘い肉汁は……っ!?)
彼の脳内で、これまで戦士として信じてきた「魔物肉は硬くて不味い」という常識が、木端微塵に粉砕されていた。
分厚いステーキ肉は、噛む必要すらないほどに舌の上でとろけ出し、グランドバイソンの野性味あふれる強烈な旨味と、雪のような脂の上品な甘みが、口内を暴力的なまでに蹂躙していく。
そこに、ニンニクのパンチが効いた焦がしバター醤油のソースと、脂の旨味を全て吸い込んだガーリックライスがねっとりと絡み合い、決して止まることのない無限の食欲を呼び覚ましていた。
「う、うめぇぇぇぇぇぇーーーーっ!!!」
バルトは天を仰ぎ、厨房の天井を突き破らんばかりの大咆哮を上げた。
「なんだこれ! なんだこの美味さは! 靴底みたいな干し肉を噛みちぎって死んでいくのが俺たちの運命だと思ってたのに……こんなに柔らかくて、温かくて、力が身体の奥底からマグマみたいに湧き上がってくる肉があるなんて聞いてねぇぞぉぉっ!」
バルトの目から、大粒の涙がボロボロとこぼれ落ち、分厚い胸当てを濡らしていく。
その咆哮を合図に、周囲のハンスたち男騎士も次々とステーキを口に運び、狂喜と感動の悲鳴を上げ始めた。
「うまっ! 肉汁が……甘い肉汁が止まらねぇ!」
「ガーリックライスが美味すぎる! 腹の底から、闘志が燃えたぎってくるぜ!」
ガツガツ、モグモグ、ズズッ!
一心不乱に肉を喰らい、涙と鼻水を流しながら、皿を舐めるように平らげていく男たち。
死地へ向かう前の張り詰めた恐怖は、圧倒的な「美味い飯」の活力によって、一切の迷いのない強靭な闘志へと完全に塗り替えられていた。
「ひょ~! 男たちの喰いっぷり、見てるだけで胸が熱くなるっすね! マスターの飯が、あいつらの魂に完全に火をつけたっす!」
ペティが誇らしげに青い光を輝かせる。
やがて、全員の皿が最後の一粒まで綺麗に空になり、荒い息を吐きながらも、その顔に獣のような力強い光を宿した男たちが、一斉に俺の方を向いた。
「アニキ……」
バルトが勢いよく立ち上がり、血と泥にまみれる前の、今はまだ綺麗なガントレットで自身の胸を強く叩いた。
「こんな最高の飯を食わせてもらって、死んで帰るわけにはいかねぇ。俺たち、絶対にこの命を繋いで、魔物をぶっ殺して、またアニキの飯を食いに帰ってくるぜ」
その真っ直ぐで熱い瞳に応えるように、俺は深く頷き、静かに、しかし力強く口を開いた。
「生きて帰ってくること。それ以上の武功なんて、この世にはない」
俺の言葉が静寂の厨房に響き渡った瞬間。
男たちはハッと息を呑み、そして次の瞬間、大食堂の天井を突き破るほどの、割れんばかりの雄叫びを上げた。
「おおおおおぉぉぉぉっ!! 行くぞ野郎ども! アニキの飯のために、魔物どもを根こそぎ叩き潰して生きて帰るぜぇぇっ!!」
士気が極限まで跳ね上がり、足取りも軽く出陣していく狼たちの頼もしい背中。
俺はエプロンの裾で手を拭きながら、その背中が見えなくなるまで静かに見送った。
「……ふん。相変わらず、男たちの扱いが上手いな、ユウ殿」
ふと、厨房の入り口の壁際から、凛とした澄んだ声が聞こえた。
振り返ると、白銀の髪を揺らした第5小隊長のエレノアが、腕を組みながら、どこか誇らしげな、優しい笑みを浮かべてこちらを見つめていた。
過酷な遠征の朝。
だが、この厨房から送り出された彼らの心には、決して消えることのない温かい炎が灯っていた。
【次回予告】
熱気と共に男たちを送り出したユウ。
厨房に残されたエレノアが、男たちへの待遇に少しだけ拗ねた顔を見せる!?
次回第30話「アニキの背中を囲む夜」。お楽しみに!
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