第28話 煙と肉汁のシンフォニー
「マスター、いよいよこいつの出番っすね!」
中央大厨房の静寂を破るように、俺の右手に握られたペティの柄の青い魔石が、パチパチと期待に満ちた瞬きを見せた。
「ああ。この日のために、アイテムボックスの中で完璧に鮮度を保っておいたからな。グランドバイソンの極上ロース肉だ」
俺、南条悠は静かに頷き、自身の持つスキルである『絶対鮮度アイテムボックス』を展開した。
空中に現れた光の空間から、重厚な冷気とともに、昨夜切り分けておいた美しい霜降りの巨大な肉塊を取り出す。
ゴトリ、と。
分厚い木製のまな板の上に、その重々しい肉塊を置いた。
それは、王国北方の過酷な魔境において、滅多に狩れないとされる幻の地牛魔獣の肉である。
異世界の常識では、魔物肉は硬くて臭い、生きるためだけに噛みちぎるものとされている。
下処理や血抜き、熟成という概念がないこの世界では、それが当たり前の苦行だったのだ。
しかし、適切な処理と完璧な保管技術、そして一流の職人の手があれば、それは人を笑顔にする極上の食材へと化ける。
「ひょ~! 何度見ても、見るからにヤバい肉質っすよ!」
ペティが俺の手に握られながら、興奮したような甲高い声を上げる。
「ペティの食材直感で見ても、やっぱり最高の状態か?」
「間違いないっす! この赤身の深さとサシの入り方、異世界の歴史上でもトップクラスの代物っすよ!」
「よし。それじゃあ、遠征に向かうあいつらのために、気合を入れて捌いていくぞ。肉の繊維を絶対に傷つけないようにな」
俺は大きく深呼吸をし、ペティの白銀の刃を肉塊に当て、静かに手首を引いた。
スゥ……ッ。
トントンッ、トントンッ。
まな板の上限定で発動するペティの『調理限定切断』スキルのおかげで、分厚い魔獣の肉が、まるで常温に戻した上質なバターのように滑らかに切れていく。
「うひょー! 研がれたばかりの俺様の切れ味、最高っすね! そこそこ! もっと切っていいっすよ!」
「ああ、ペティのナビゲートのおかげで、肉の旨味の細胞を全く逃がさずに済んでいるよ」
俺が切り出したのは、大人の手のひらよりも分厚い、まさに男のロマンをそのまま体現したような、分厚い厚切りステーキ肉の山だ。
真紅の赤身の中に、雪のように美しい白い脂身が網の目のように細かく走っている。
俺は切り分けた大量の肉の表面に、ミネラルたっぷりの岩塩と粗挽きの黒胡椒を高い位置からサッと振り、手のひらで優しく叩き込んで下ごしらえを完了させた。
「次は、肉の旨味を極限まで引き上げる、特製醤油ガーリックソースの準備だな」
俺は細かくすりおろした大量のニンニクと玉ねぎを小鉢に用意し、厨房の奥にある特大の大かまどに火を入れた。
ゴォォォォ……ッ。
青い魔導の炎がはぜる音とともに、分厚い鉄板がじわじわと熱を帯びていく。
「マスター、かまどの鉄板、十分に熱されたっすよ!」
「よし、いくぞ。ここからは時間と温度との勝負だ」
俺は分厚いステーキ肉をトングで挟み、極限まで熱した鉄板の上にそっと置いた。
ジュワァァアッ!!
その瞬間、厨房内に爆発的な破裂音と、真っ白な煙が立ち上った。
「うおっ! なんて暴力的な音っすか!」
ペティが驚いたように声を上げる。
「ジュウジュウと脂が弾けるこの音が、男たちの魂を揺さぶるんだよ!」
俺は燃え上がる炎と煙を見つめながら、ニヤリと笑った。
表面はカリッと香ばしく、中は美しいレアに。
それが、この厚切りステーキを最高に美味しく焼くための絶対条件だ。
強火で肉の表面のタンパク質を一気に焼き固め、旨味の詰まった極上の肉汁を内部に完全に閉じ込めていく。
「マスター、そろそろひっくり返すタイミングっす!」
「おう!」
トングで分厚い肉を裏返すと、見事なまでに美しいきつね色の焼き目がついていた。
パチパチパチッ。
グランドバイソンの上質な脂が鉄板で弾け、甘く芳醇な香ばしい匂いが厨房全体に充満していく。
「たまんねぇ匂いっす! 俺、血を吸って命を奪う剣じゃなくて、命を生かす包丁で本当によかったっすよ!」
「仕上げに、この特製醤油ガーリックソースを回しかけるぞ」
俺は小鉢に用意しておいた、ニンニクと玉ねぎたっぷりの特製ソースを、熱々の鉄板と肉の上へ直接流し込んだ。
ジューーーッ!!
醤油が鉄板で焦げる圧倒的な香ばしさと、ニンニクの食欲を突き刺すような刺激的な香りが、一気に混ざり合う。
暴力的なまでの食欲をそそる香りの大爆発が起き、厨房の空気を完全に、そして絶望的なまでに支配した。
「ひょおおっ! マスター、これはヤバいっす! 匂いだけで、白いご飯がどんぶり三杯はいけるレベルっすよ!」
「よし、完璧な焼き上がりだ。あらかじめ炊いておいた特製ガーリックライスも添えて、完成だな」
俺が白い大皿に、分厚いステーキと黄金色のガーリックライスを美しく盛り付けた、まさにその直後だった。
ギィィィ……。
大食堂へと続く重厚な木の扉が、まるで見えない糸に吸い寄せられるかのように、ゆっくりと開かれた。
「……ユウ殿」
そこにふらふらと立っていたのは、白銀の髪を揺らした第5特務遊撃小隊の小隊長、エレノア・ヴェルディだった。
彼女のサファイアブルーの澄んだ瞳が、わずかに、いや激しく揺れている。
いつもの威厳ある甲冑姿ではなく、少し着崩した薄手の夜着の上に、慌てて外套を羽織っただけの無防備な姿だ。
「エレノアさん? どうしたんですか、こんな朝早くに。第5小隊は今日は非番のはずですが」
「……その、夜間の見回りをしていたのだが……廊下まで、とんでもなく暴力的で、けしからん匂いが漂ってきてだな……」
エレノアは少し気まずそうに視線を逸らしながら、ゴクリと大きな音を立てて生唾を飲み込んだ。
「ちょうど焼き加減の試食をしようと思っていたところなんです。よかったら、一番乗りで食べていきませんか?」
「い、いいのか!? ……ごほん。武人に食事の味など不要だが、ユウ殿がどうしてもと言うなら、味見くらいはしてやろう」
相変わらずの強がりを言いながらも、彼女の視線はカウンターの上に置かれた分厚いステーキ肉に、完全に釘付けになっていた。
桜色の小さな口元からは、今にもヨダレがこぼれ落ちそうである。
「出た! 小隊長のツンデレ! 匂いに釣られてきたくせに、目が完全に肉をロックオンしてるっすよ!」
「う、うるさいぞ、喋る短剣! 私はただ、この得体の知れない肉に毒が入っていないか、部隊の責任者として毒見をしてやるだけだ!」
俺は苦笑いしながら、カウンターテーブルに、湯気を立てる厚切りステーキとガーリックライスを並べた。
「冷めないうちに、温かいうちに食べてください。ナイフは使わなくても、フォークだけで切れるはずですよ」
エレノアは吸い寄せられるように椅子に座り、震える指先で木製のフォークを手に取った。
「では、遠慮なく……いただこう」
彼女が分厚いステーキに、フォークの先端を突き立てた瞬間。
「なっ……!?」
エレノアのサファイアブルーの瞳が、驚愕に限界まで見開かれた。
「力を入れずとも、肉がスッと切れるだと……!? これが、あの硬くて臭いと言われている魔獣の肉なのか!?」
「中は綺麗なレアに仕上げてあります。鉄板に残ったニンニクのソースをたっぷり絡めてどうぞ」
彼女は震える手で分厚い肉片をフォークに刺し、ゆっくりと小さな桜色の口へと運んだ。
サクッ。
表面のカリッと香ばしい歯ごたえの音が、静かな厨房に響く。
その直後だった。
「ぬ、ぬぅ……っ!?」
エレノアの動きが、ピタリと完全にフリーズした。
咀嚼するたびに、極限まで熱された表面の中に閉じ込められていた、極上の甘い肉汁が、口の中いっぱいに洪水のようになだれ込んでいく。
人間の舌の温度だけで、雪のような脂がふわりと液状に溶け出していくのだ。
「こ、これは……っ」
彼女の白い頬が、みるみるうちに熱を帯びて赤く染まっていく。
「噛めば噛むほど、濃厚な旨味が爆発する……! それにこの、ニンニクと醤油の香ばしいタレが、肉の甘い脂と完璧に絡み合って……!」
「横に添えてある特製ガーリックライスと一緒に食べてみてください。もっと凄いことになりますよ」
エレノアは無言でコクコクと激しく頷き、肉とガーリックライスを交互に口の中へと放り込み始めた。
モグモグ、モグモグ……!
「う、うまい……! 止まらん……っ! 胃袋が、もっと肉を寄越せと叫んでいる……!」
先ほどの「味など不要」という強がりは完全にどこへやら。
彼女は耳の先端まで真っ赤に染め上げながら、一心不乱に、夢中でステーキを平らげていく。
「ひょ~! 小隊長、完全大敗北っすね! 理性が吹き飛んで、頬張りすぎてリスみたいになってるっすよ!」
「……だ、黙れ……っ! (モグモグ)……これは……(モグモグ)……私が軟弱なわけではない……! 肉が暴力的なのだ……!」
必死に言い訳をしながらも、絶対にフォークを動かす手を止めない彼女の可愛らしい様子を見ながら、俺は思わずふっと笑みをこぼした。
「ゆっくりで大丈夫ですよ。喉に詰まらせないように、温かいお茶も出しますからね」
あっという間に特大の皿を綺麗に空にしたエレノアは、温かいお茶を一口飲み、満足そうにほうっと深く、長い甘い吐息を漏らした。
「……ユウ殿」
「はい?」
「お前の手にかかれば、どんな硬い魔獣も、至高のご馳走になるのだな。……ごちそうさま。本当に、信じられないくらい美味しかったぞ」
彼女は照れ隠しのように顔を背けながら、小さく、しかし心からの感謝を込めて呟いた。
「お粗末様です。一番美味しい瞬間に喜んでもらえて、俺も料理人冥利に尽きますよ」
俺は空になった皿を下げながら、厨房に漂うガーリックと肉の香りの余韻を穏やかに楽しんでいた。
静かな朝の厨房に、満ち足りた甘い空気が流れる。
しかし、その平穏な時間は長くは続かなかった。
その時だった。
ドスッ、ドスッ、ズシンッ……!
大食堂の奥の廊下から、何やら地鳴りのような、大勢の重たい足音が猛スピードでこちらへ向かって近づいてくるのが聞こえた。
「マスター! なんかヤバい大群が、こっちに向かって突撃してきてるっすよ!」
ペティの警告と同時に、厨房の重厚な扉がガタガタと大きく揺れ始めた。
どうやら、この暴力的な肉の匂いは、要塞にいる他の誰かの『極限まで飢えた強烈な胃袋』も、完全に刺激してしまったらしい。
【次回予告】
押し寄せる腹ペコ大男たちの波!
匂いに釣られた乱入者、バルトたちの胃袋がついに限界突破!
次回第29話「喰らいつく狼たち」。お楽しみに!
最後までお読みいただきありがとうございました!
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