第26話 男たちの肉枯れ限界警報
先ほどまで、生フルーツティーの甘く華やかな香りと、少しだけ素直になったエレノアの穏やかな笑顔に包まれていた中央大厨房。
彼女が満足げに、そしてほんの少しだけ照れくさそうに執務室へと戻り、俺、南条悠がティーカップを綺麗に洗い終えて一息つこうとした、その時だった。
ドバァァァンッ!!
大食堂へと続く重厚な木の扉が、蝶番がへし折れんばかりの凄まじい轟音を立てて蹴り開かれた。
静寂と甘い余韻に包まれていた厨房の空気が、一瞬にして乱暴に掻き乱される。
「アニキィィィーーッ!! 頼む、助けてくれぇぇぇっ!!」
野太く、そしてどこか悲痛な、命を絞り出すような叫び声と共に飛び込んできたのは、第1大隊長であるバルトだった。
身長二メートル近い筋骨隆々の巨体を持つ彼だが、今日はなぜか背中が情けなく丸く丸まり、顔面は病人のように土気色に青ざめている。
その後ろからは、ハンスをはじめとした大柄な男騎士たちが、まるで生気を吸い取られた亡霊のような重い足取りで、ゾロゾロと雪崩れ込んできた。
皆一様に目の下には隈ができ、肩を落として絶望的な顔をしている。
「ひょ~っ!? な、なんすかこのゾンビの群れは! 朝からむさくるしい大男たちが、今度は干からびたミイラみたいな顔で押し寄せてきたっすよ!」
俺の白いエプロンのポケットから顔を出した相棒のペティが、青い魔石を激しく点滅させて甲高い声を上げた。
「どうしたんですか、バルトさん。皆さん、随分と顔色が悪いですが……朝の鍛錬で怪我でもしたんですか?」
俺が慌ててカウンター越しに声をかけると、バルトは力なく首を振り、ドサリと重い音を立ててカウンターに上半身を突っ伏した。
「怪我じゃねぇんだ、アニキ……。俺たちの胃袋と魂が、今にも干からびて死にそうなんだよ……」
「魂が、干からびる?」
俺が不思議そうに首を傾げた、その時だった。
「……本隊長、少し落ち着いてください。神聖な厨房でそのように取り乱して泣きつくのは、騎士団の規律に反しますよ」
ざわめく男たちの背後から、静かで冷徹な声が響いた。
人垣がスッと左右に割れ、そこから現れたのは、細身の体躯に黒髪を短く整え、銀縁メガネをかけた第1大隊の副官、クロード・レーヴェだった。
彼は知的で冷静な参謀として知られているが、今の彼もまた、メガネの奥の瞳に深い疲労の色を滲ませ、片手で胃の辺りを痛そうに押さえていた。
「クロードさんまで。一体何があったんですか?」
「ユウ殿、朝から騒がしくして申し訳ありません。実は明日から、我々第1大隊は北方大樹海の深部へ、数週間にも及ぶ長期の索敵遠征に出向くことが決定しまして」
クロードは銀縁メガネの位置を中指でクイッと直し、一つ深い溜息をついた。
「長期遠征となれば、携行する食料は味よりも保存性が最優先されます。今朝、兵站部から事前の配給食が支給されたのですが……それを見た途端、兵士たちの士気が急激に、絶望的なまでに低下してしまいまして」
クロードは腰からぶら下げていた無骨な麻袋を取り外し、カウンターの上にコトンと重い音を立てて置いた。
袋の口が乱暴に開くと、中から転がり出てきたのは、赤黒く変色した、岩のように硬い肉の塊だった。
血抜きもされずに、ただ強めの塩をたっぷりとまぶして乾燥させられただけの、パサパサの塩漬け肉だ。
鉄のサビのような強い血生臭さと、古びた獣の脂の嫌な匂いが、厨房の清浄な空気をじわじわと汚染していく。
「うわっ……! マスター、こいつは酷い匂いっす! 俺の刃先が、絶対にこんな不味そうなものを切りたくないって泣いてるっすよ!」
ペティが柄をガタガタと震わせて露骨に嫌がる。
俺も思わず眉をひそめた。
これを食事と呼ぶには、あまりにも過酷すぎる。人間の尊厳を削り取るような代物だ。
「……兵站学や栄養素という観点から見れば、タンパク質と塩分を確実に補給できる、極めて合理的な保存食です」
クロードは胃の辺りをさすりながら、淡々と、しかしどこか恨めしそうな声で語り続ける。
「ですが……ユウ殿の作ってくれた、あの柔らかく煮込まれた具だくさんの豚汁や、肉汁の溢れる温かいご飯を知ってしまった我々の胃袋は……もはやこの無機質な塩の塊を、どうしても受け付けなくなってしまったのです」
「クロードの副官の言う通りだぜ、アニキ……っ!」
バルトが涙目で顔を上げ、大きな手でカウンターをバンバンと叩いた。
「こんな靴底みたいな硬い肉をいくら噛み締めたって、血の気も戦う闘志なんて湧いてきやしねぇ! アニキ! お願いだ、血の気の多い肉を食わせてください! このままじゃ倒れちまう!」
バルトの魂の叫びに呼応するように、背後にいたハンスたち男騎士も、次々と悲痛な声を上げ始めた。
「そうだ! 俺たちの身体は、もうアニキの美味い肉じゃなきゃ動かねぇんだ!」
「明日から死地に赴くっていうのに、こんなパサパサの肉じゃ、魔物に食われる前に心がポッキリと折れちまう!」
「アニキ! 頼む! 俺たちの腹に、ドカンとくるやつを、生きてるって実感できる肉を入れてくれぇぇっ!」
むさくるしい男たちの悲鳴と熱気が、厨房の温度を一気に引き上げていく。
死と隣り合わせの過酷な戦場へ向かう彼らにとって、食事とは単なる栄養補給ではない。
生きて必ず帰ってくるための活力であり、絶望的な戦いの中で心を繋ぎ止める、唯一の希望なのだ。
俺はカウンターの上に転がる、無残なほどにパサパサの塩漬け肉を見つめ、静かに息を吐いた。
「……クロードさん。兵站の論理は理解できます。腐らない食料は、遠征において必須の絶対条件でしょう」
俺の低い声に、クロードは押し黙ったまま静かに頷いた。
「ですが、心まで干からびてしまっては、どんなに頑強な盾や鋭い剣を持っていようと、最後まで過酷な戦場を戦い抜くことはできません。兵士の心を満たし、闘志を燃え上がらせるのも、また食事の重要な役割のはずです」
俺はエプロンの紐をギュッと力強く結び直し、涙目でこちらを見つめるバルトたちに真っ直ぐに向き直った。
「わかりました。明日からの過酷な遠征、絶対に全員が生きて帰ってこられるように……俺が、あなたたちの胃袋に極上の気合いを叩き込んでやります」
「ア、アニキィィッ……!」
バルトの土気色だった顔に、パッと明るい希望の光が差した。
「ひょ~! 言ったっすねマスター! むさくるしい男たちの胃袋を満足させる、とびきりガツンとくる肉料理の出番っすね!」
ペティが青い魔石をピカピカと輝かせる。
俺はコクリと頷き、自身のスキルである絶対鮮度アイテムボックスを展開した。
「血の気の多い、闘志が爆発的に湧き上がる肉が食べたいと言いましたね、バルトさん」
「お、おうよ! 噛みちぎった瞬間に、肉汁がブワッと溢れて、身体の奥から力が漲ってくるようなやつを頼むぜ!」
「任せてください。あなたたちのその限界まで飢えた肉欲を、余すことなく完璧に満たす最高の食材が、ここで出番を待っていましたから」
俺は光の空間の奥深くへと手を伸ばした。
ズシンッ……!
分厚い木製のまな板の上に引きずり出され、重々しい音を立てたのは。
大人の胴体ほどもある、とてつもなく巨大で重厚な肉のブロックだった。
「なっ……!?」
バルトとクロードが、同時に息を呑んで目を限界まで丸くする。
それは、見事なまでに美しい真紅の赤身と、雪のように真っ白な脂身が、芸術的な霜降り模様を描いている極上の塊肉だった。
まだ火を通していない生の状態であるにも関わらず、その肉から放たれる圧倒的な生命力と、濃厚で甘やかな獣の香りが、厨房の空気を一気に支配していく。
「こ、これは……まさか……」
クロードが震える指でメガネを押し上げ、信じられないといった顔でその巨大な肉の塊を見つめた。
「ええ。市場のマルコさんが、奇跡的に仕入れてくれた最高峰の食材です。滅多に狩れないと言われる地牛魔獣、グランドバイソンの極上ロース肉ですよ」
俺のその言葉が落ちた瞬間。
「グ、グランドバイソンの……極上ロースだとぉぉぉっ!?」
バルトの大絶叫が、厨房の天井を突き破らんばかりに響き渡った。
「おい嘘だろ!? あんな幻の魔獣肉、王都の王族の晩餐会でしかお目にかかれねぇような代物だぞ!」
「す、すげぇ……生肉を見てるだけなのに、口の中にヨダレが滝のように溢れてきやがる……っ!」
ハンスたち一般兵士も、まな板の上の巨大な肉塊に完全に釘付けになり、ゴクリ、ゴクリと激しく喉を鳴らしている。
先ほどまでゾンビのように項垂れていた男たちの目に、獲物を狙う獣のようなギラギラとした強い光が戻っていた。
「さあ、男たちの決起集会の始まりだ。お前たち、絶対に生きて帰ってくる覚悟はあるか?」
俺が包丁の柄を握りしめ、静かに、しかし挑発するように笑いかけると。
「応よぉぉぉっ!! アニキの肉を食うためなら、どんな魔物だって素手で引き裂いてやるぜぇぇっ!!」
バルトの咆哮と共に、男たちの地鳴りのような歓声が厨房を揺るがした。
【次回予告】
幻の極上肉、グランドバイソンのロース塊肉が登場!
立ち上る煙と弾ける肉汁。男たちの闘志に火をつける、分厚いステーキの調理が始まる!
次回第27話「滅多に狩れない地牛魔獣」。お楽しみに!
最後までお読みいただきありがとうございました!
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