第20話 バゲットを浸して笑う夜
深夜の中央大厨房。
かまどの上の小さな厚手の鉄鍋からは、キングクラーケンの奥深い海鮮の旨味と、美しいきつね色になったニンニクの強烈な香りが完全に溶け出した黄金色のオリーブオイルが、微かにグツグツと心地よい音を立てていた。
先ほどまで鍋を満たしていた、真珠のように純白だったタコの身は、すでに最後の一切れまで綺麗に平らげられている。
そして、第5特務遊撃小隊の小隊長であるエレノア・ヴェルディは。
「…………」
腕を強く組み、小隊長としての威厳ある態度を保とうと必死に背筋を伸ばしてはいるものの、サファイアブルーの澄んだ瞳は、鉄鍋の底に残った黄金色のオイルをじっと見つめたまま、一向に逸らそうとしなかった。
「ひょ~! 出たっすね! 小隊長殿、タコは綺麗に食べ終わったのに、完全に鍋の底のオイルに未練タラタラっすよ!」
俺、南条悠の白いエプロンのポケットから、相棒のペティが柄の青い魔石をチカチカと明滅させて嬉しそうに冷やかす。
「なっ……!? だ、黙れ喋る短剣! 私はただ、この油の残滓をどう処理するのか、部隊の衛生管理の観点から厳しく監視しているだけで……決して舐めたいなどと……っ!」
「ふふ、そんなにムキにならなくても大丈夫ですよ、エレノアさん。実は、このアヒージョには、まだ本当の楽しみが残っているんです」
俺が微笑みながら言うと、エレノアの視線がパッと俺の手元に集中した。
「本当の、楽しみ……?」
エレノアが、ごくりと小さく生唾を飲み込む音が、静寂に包まれた厨房にはっきりと聞こえた。
俺は自身のスキルである絶対鮮度アイテムボックスを展開し、光の空間の中から、今日の昼間に焼き上げておいた細長いフランスパン……バゲットを取り出した。
表面のクープ(割れ目)が美しく開き、見るからに香ばしそうな焼き色がついている。
「タコの深い旨味と、きつね色になったニンニクの香ばしさが、このオリーブオイルには一滴残らず溶け出している。これを、ただ捨てるなんてとんでもない」
トン、トン、トントンッ。
静かな厨房に、軽快な包丁の音がリズミカルに響く。
俺はバゲットを、オイルがたっぷりと染み込みやすいように少し厚めの斜め切りにし、熱した分厚い鉄板の上に並べた。
ジューーーッ……。
ほんの少しだけ油を引いた鉄板でバゲットの表面を軽く炙ると、小麦と酵母の焼ける甘く香ばしい匂いが、ふわりと爆発的に広がり始める。
「ひょおおおっ! マスター、パンの焼ける匂いとニンニクの匂いが混ざって、厨房の空気がとんでもないことになってるっすよ!」
ペティが騒ぐ通り、表面がカリッと香ばしく焼き上がったバゲットの香りは、タコで満たされたはずのエレノアの胃袋を、再び強烈に刺激し始めていた。
「よし、焼き上がりだ。これを、この熱々の黄金オイルにたっぷりと浸して……食べてみてください」
俺がこんがりとキツネ色に焼けたバゲットを木のお皿に乗せて差し出すと、エレノアは吸い寄せられるようにスッと手を伸ばした。
「い、いただきます……」
エレノアは少し震える指先で熱々のバゲットをつまみ、鉄鍋の中でグツグツと音を立てる黄金色のオイルに迷いなくドボンと浸した。
真っ白だったパンの気泡の粗い断面が、一瞬にして極上のオイルをたっぷりと吸い込み、ジュワリと重たい黄金色に染まり上がる。
たっぷりと旨味を吸い込んだそれを見つめ、彼女はハフッ、と小さな息を吐いてから、意を決して小さな桜色の口へと運んだ。
カリッ、ジュワワワッ……!
コクン。
その瞬間。
「ぬ、ぬぅ……っ!?」
エレノアの動きが、ピタリと完全に停止した。
サファイアブルーの澄んだ瞳がこれ以上ないほどに限界まで見開かれ、バゲットを持ったまま完全にフリーズしている。
(な、なんだこの、恐ろしいほどの旨味の塊は……!?)
彼女の口の中で、鉄板で焼かれた小麦の圧倒的な香ばしさと、キングクラーケンの奥深い海鮮の甘み、そしてニンニクの強烈なパンチが、完璧な一体感を持って爆発していた。
オリーブオイルのまろやかなコクが、バゲットの気泡の隅々にまで染み渡り、噛むたびにジュワッ、ジュワッと熱い旨味が洪水のように溢れ出してくる。
カリカリに焼かれたパンの耳と、オイルを吸ってトロトロになった内側の食感のコントラストが、脳の報酬系を直接激しく刺激するのだ。
「……はぁっ……んんっ……美味しい……っ!」
武人に味など不要と強がっていた彼女の理性は、この炭水化物と上質な脂質の暴力的な相乗効果の前に、完全に根こそぎ崩壊していた。
「ひょ~! 小隊長殿、またしても完全にモグモグタイムに突入っすね! すっげぇ幸せそうな顔してるっすよ!」
ペティが冷やかすが、エレノアはもう反論する余裕すらなかった。
ただ無心に、目の前のパンをオイルに浸しては、尽きることのない食欲のままに胃の腑へと流し込み続ける。
やがて、山盛りだったバゲットの皿が空になり、鉄鍋のオイルも最後の一滴まで綺麗に拭き取られるように無くなると。
「……ごちそうさまでした。信じられないくらい、美味しかった……」
すっかり空になった鍋を見つめる彼女の顔には、いつもの冷徹な鬼の小隊長の面影はない。
ただ美味しいご飯に心を満たされ、体の底から安心しきった、年相応の愛らしい少女の表情がそこにあった。
「ふふ、お粗末様でした。綺麗に食べてくれて、作った甲斐がありましたよ」
殺伐としていたはずの要塞の深夜の厨房が、一つの鍋を挟んで、ひだまりのように温かく穏やかな時間へと変わっていた。
「……食べ物を分け合うことは、命と心を分かち合うことだって、昔、親父がよく言っていました」
俺が布巾でカウンターを拭きながらポツリと呟くと、エレノアがハッとして顔を上げた。
「同じ鍋をつつき合って、同じ『美味しい』を共有する。そうやって、人は少しずつ家族みたいになっていくんだと、俺は思いますよ」
俺の言葉に、エレノアはサファイアブルーの瞳を微かに瞬かせた。
実の父親である公爵から「成果を出せぬ者は血族にあらず」と冷たく見捨てられ、この最前線の要塞へと追いやられた彼女。
誰も信じず、一人で孤独に気を張って生きてきた彼女の氷のような心が、ユウの作る温かい料理と、その言葉によって、今、完全に優しく溶かされた瞬間だった。
エレノアはカウンター越しに立つ俺の方へ、無意識のうちに少しだけ身を乗り出した。
「……そうだな。私も……そう思う」
夜の静寂の中、エレノアはふっと、これまでに見たことのないような、心底柔らかく穏やかな笑みを見せた。
深夜の厨房は、ニンニクの芳醇な名残香と、二人の間にある温かい信頼の空気に優しく包まれていた。
「……ところで、ユウ殿。一つ、お前に相談してもいいだろうか」
ふと、エレノアが自分の小さな両手を見つめながら、思い出したように口を開いた。
「どうしました?」
「私の手だ……。戦闘で常に重い剣を握り、部隊の先頭に立っているせいで、すっかりごつごつに荒れ、最近は肌の調子も悪いと密かに悩んでいるのだ」
彼女は自分の指先を自嘲気味に見つめた。
剣のグリップと分厚いガントレットの摩擦でできた、硬く分厚いタコと無数の痛々しい擦り傷が、その白い肌に深く刻まれている。
「武人に色気など不要……父様はそう仰っていたからな。でも、時々自分の荒れた肌やタコだらけの手を見ると……少しだけ、悲しくなってしまうのだ。私も、一応……女だからな」
その震えるような、切実な乙女の告白に、俺は胸の奥がギュッと締め付けられるのを感じた。
「マスター……小隊長、無理して笑ってるっす。あの手、ずっと一人で重い剣を振るって、小隊のみんなを守ってきた、すっごく立派で綺麗な手っすよ……」
ペティがポケットの中で、悲しそうに青い光を弱める。
俺はカウンター越しに、エレノアの荒れた手を見つめ、静かに口を開いた。
「エレノアさん。仲間を守るために身につけたその名誉ある傷や肌荒れを、無駄なものだなんて言う奴は、俺が絶対に許しません」
俺の真っ直ぐで力強い言葉に、エレノアがハッとして顔を上げた。
「ですが、働く者の身体は一番の宝物です。自分を犠牲にするばかりじゃなく、たまには思いっきり、自分自身を甘やかして大切にしてやらなきゃいけませんよ」
俺は彼女のサファイアブルーの瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「明日の朝、とびきりお腹を空かせて厨房に来てください。俺とペティが、極上の魔法のスープで、あなたのお肌を全身プルプルのツヤツヤにしてやりますから」
俺の自信に満ちた言葉に、エレノアはポカンと目を丸くした後、みるみるとその白い頬を真っ赤に染め上げていった。
「あ、あら……ユウ殿ってば罪な人。そ、そんなに真っ直ぐ見つめられたら、私……っ」
先ほどまでの悲壮感はすっかり吹き飛び、そこには純情な乙女の顔だけがあった。
美味しい夜食の余韻の中、要塞の夜は静かに更けていく。
【次回予告】
手荒れに悩む小隊長のため、ユウの職人魂が火を噴く!
ガチガチの牛スジ肉が、魔法のようにとろける絶品美容スープに大化けする!?
次回第21話「とろとろプルプルの薬膳スープ」。お楽しみに!
最後までお読みいただきありがとうございました!
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