第19話 蛸とニンニクの香ばしい夜
ドンッ! ドズンッ! メキメキッ……!
深夜の中央大厨房の裏手。
食材の搬入口である重厚な木の扉の向こうから、地響きのような鈍く重い音が響き渡った。
俺、南条悠は、鉄板の片付けを終えようとしていた手を止め、怪訝に思いながら裏口の扉をゆっくりと開けた。
冷たい夜風と一緒に厨房へ流れ込んできたのは、むせ返るような強烈な磯の香りと、気味の悪いほどの生臭く重たいぬめりの気配だ。
暗がりの石畳の上にドサリと無造作に投げ出されていたのは、大人の背丈ほどもある、巨大で赤黒い触手の塊だった。
「ひょ~! で、出たっす! マスター、こいつは大海原の悪魔って呼ばれてる、超特大のキングクラーケンっすよ!」
俺の白いエプロンのポケットから飛び出した相棒、喋る短剣のペティが、柄の青い魔石を激しく明滅させて叫んだ。
「キングクラーケン……つまり、とてつもなくデカい魔物のタコだな。それにしても見事な太さだ」
俺は巨大な触手の先端を両手で持ち上げてみた。
ズシリとした恐ろしいほどの重量感があり、表面は分厚いゴムや装甲板のようにガチガチに硬く強張っている。
びっしりと並んだ巨大な吸盤は、見るからに凶悪だ。
「マスター、そいつの肉質は呪いレベルで硬いっすよ! 剣で斬りつけても刃こぼれするし、そのまま煮込んでも馬車のタイヤを噛んでるみたいに絶望的な食感になるっす!」
ペティが警告するように青い光をチカチカと瞬かせる。
「なるほどな。そのままじゃとても食えない硬い肉……だが、職人の手にかかれば、こいつは最高の夜食に化けるぞ」
俺は巨大なタコの触手を一本切り離し、厨房の分厚いまな板の上に乗せた。
普通の包丁では太刀打ちできない硬さだが、ここには頼りになる最高の調理器具がある。
「ペティ、お前の力が必要だ。繊維を断ち切るように、吸盤の周りの硬い皮と強靭な筋を削ぎ落としてくれ」
「任せるっすマスター! 俺の食材直感で、一番柔らかくて美味い芯の部分だけを丸裸にしてやるっすよ!」
俺はペティの白銀の柄をしっかりと握りしめ、巨大な触手へと刃を滑らせた。
スゥ……ッ、スルスルッ。
ペティの青い光に導かれ、鎧のように硬かった赤黒い皮が、まるで薄い紙のように滑らかに剥がれ落ちていく。
中から現れたのは、透き通るような純白の、真珠のように美しいタコの身だった。
「よし、皮は引けた。だが、まだ太い繊維がガチガチに強張っているな。ここからが職人の知恵の見せ所だ」
俺は自身のスキルである絶対鮮度アイテムボックスを展開し、分厚い大根の切れ端を取り出した。
そして、その大根を使って、純白のタコの身をバンバンとリズミカルに叩き始めた。
ペチッ、バンッ、ペチッ!
「ひょ~! 大根で叩くなんて聞いたことないっす! でも、俺の直感が、身がどんどん柔らかくなってるって告げてるっすよ!」
「ああ。大根に含まれる強力な酵素成分が、タコのガチガチの筋繊維を優しく分解してくれるんだ。さらにペティの峰で繊維の太い部分を叩いてほぐせば、驚くほど柔らかくなる」
トントントントンッ!
静寂に包まれた厨房に、軽快な包丁の音が響き渡る。
下処理を終え、一口大の食べやすい乱切りにされた純白の身は、すっかり強張りが取れてみずみずしい弾力を取り戻していた。
「下準備は完璧だ。一気に香りを乗せていくぞ」
俺はかまどに小さな厚手の鉄鍋を置き、そこにたっぷりの上質なオリーブオイルを注ぎ込んだ。
スライスした大量のニンニクと、香りを引き立てるための乾燥ハーブ、そしてピリッと味を引き締める真っ赤な鷹の爪をオイルの中に落とす。
弱火でじっくりと熱を加えていくと、シュワシュワという細かな泡と共に、ニンニクが美しいきつね色へと変わっていく。
それと同時に、食欲を直接殴りつけるような、強烈で香ばしい匂いがオイル全体に溶け出し始めた。
「……うおおおっ! マスター、この匂いヤバいっす! 魔石が砕けそうなくらい、食欲のど真ん中をぶち抜いてくる強烈な香りっすよ!」
ペティの言う通り、ニンニクとオリーブオイルが熱される匂いは、深夜の厨房において最も凶悪な誘惑だ。
そこに、先ほど下処理を終えた純白のキングクラーケンの身をたっぷりと放り込んだ。
ジュワァァァァァッ!!
熱いオイルが激しく弾け、タコの持つ極上の磯の旨味とニンニクの香ばしさが、爆発的な勢いで混ざり合う。
表面がうっすらと美しい桜色に色づき、身がプリッと丸まった瞬間が、最高の食べ頃だ。
「仕上げに少しの岩塩と、パセリを散らして……キングクラーケンの特製アヒージョの完成だ」
グツグツと煮立つ黄金色のオイルの中で、ニンニクの香りをまとった桜色のタコが宝石のように輝いている。
厨房の中は、理性を完全に吹き飛ばすほどの暴力的で濃厚な匂いで満たされていた。
その時だった。
ギィィィ……。
大食堂へと続く重厚な木の扉が、まるで見えない糸に吸い寄せられるかのように、ゆっくりと開かれた。
「……ユウ殿。今の、この耐え難いほどに暴力的な香ばしい匂いは……一体、何なのだ……?」
そこにふらふらと立っていたのは、第5特務遊撃小隊の小隊長、エレノア・ヴェルディだった。
美しい白銀のストレートロングヘアを少し乱し、サファイアブルーの澄んだ瞳が、鉄鍋の中でグツグツと音を立てるアヒージョを真っ直ぐに捉えて離さない。
いつもの威厳ある分厚い甲冑姿ではなく、少し着崩した薄手の夜着の上に、慌てて外套を羽織っただけの姿であることからも、彼女がどれほどこの匂いに抗えなかったかが痛いほどによくわかる。
「おや、エレノアさん。深夜の書類仕事の休憩ですか?」
「きゅ、休憩などではない! 執務室にまで、この……人をひどく惑わすような匂いが漂ってきて、書類の文字が全く頭に入らなくなってしまったのだ!」
エレノアは必死に小隊長としての威厳を保とうと腕を組んでいるが、その桜色の口元は微かに震えている。
ごくり。
静寂に包まれた厨房に、彼女が大きく生唾を飲み込む音がはっきりと響き渡った。
「ひょ~! 小隊長殿、完全に匂いでおびき寄せられちまったっすね! 目が鍋に完全に釘付けっすよ!」
「なっ……! だ、黙れ喋る短剣! 私はただ、風紀を乱す匂いの元を部隊の責任者として調査しに来ただけで……決して、それが食べたいなどと……!」
ぐぅぅぅぅぅ……っ!
彼女の必死の弁明を根こそぎ粉砕するように、華奢なお腹から盛大な空腹の音が鳴り響いた。
「あ……うぅ……っ」
エレノアは白銀の髪の隙間から覗く耳の先端までを一瞬にして真っ赤に染め上げ、両手でお腹を強く押さえて、その場にうずくまってしまった。
「ふふ、ちょうどいいところに来てくれました。夜食の味見をしてほしかったところなんですよ。タコとニンニクは疲労回復にも最高に効きますからね」
俺はグツグツと音を立てる鉄鍋ごと、熱いままカウンターの上に置き、小さなフォークをエレノアの前に差し出した。
「い、いただきます……」
エレノアは震える指先でフォークを持ち、黄金色のオイルをまとった桜色のタコの身を刺した。
ハフッ、と熱さを逃がすように小さな息を吐き、そのまま小さな口へと運ぶ。
コクン。
その瞬間。
「ぬ、ぬぅ……っ!?」
エレノアの動きが、ピタリと完全に停止した。
サファイアブルーの瞳がこれ以上ないほどに限界まで見開かれ、フォークを持ったままの姿勢でフリーズしている。
(な、なんだこの食感は……!?)
彼女の口の中で、鎧のように硬かったはずのキングクラーケンの身が、驚くほどの心地よい弾力を持ったまま、サクッと噛み切れたのだ。
噛むたびに、タコの奥深い甘みと旨味がジュワッと溢れ出し、そこにニンニクの強烈な香ばしさと、ピリッとした鷹の爪の刺激がねっとりと絡みつく。
オリーブオイルのまろやかなコクが、すべての風味を完璧にまとめ上げていた。
「……はぁっ……美味しい……っ!」
エレノアは熱さと美味さに目を白黒させながらも、ハフハフと熱いタコを頬張り、無心に咀嚼を続けた。
武人に味など不要と強がっていた彼女の理性は、ニンニクと海鮮の暴力的な相乗効果の前に完全に崩壊していた。
冷え切っていた白い頬が、熱いオイルとニンニクの効果で、みるみると健康的な桜色に染まっていく。
一心不乱にタコを頬張るその姿は、小隊長という重圧から解放された、ただの一人の少女だった。
「自分の手で誰かを笑顔にできる。それ以上に誇らしい仕事はない」
俺が布巾でカウンターを拭きながらポツリと呟くと、エレノアがハッとして顔を上げた。
「お前は、本当に不思議な男だな……。この料理を食べると、胸の奥の冷たいものが解けていくのがわかる」
彼女の小さな、震えるような声が厨房に響く。
ずっと成果を出し続けなければと孤独に気を張って生きてきた彼女の氷のような心が、この温かい料理によって、今、確かに優しく溶かされていこうとしていた。
やがて鉄鍋の中のタコが綺麗になくなると、エレノアは名残惜しそうに、残った黄金色のオイルを見つめた。
「ふふ、アヒージョの本当の楽しみは、タコの旨味とニンニクの香りが完全に溶け出した、この残りの極上オイルなんですよ」
俺がそう言って、かまどで香ばしくカリカリに焼き上げた分厚いバゲットを取り出すと、エレノアの瞳が再びキラキラと輝き始めた。
【次回予告】
残った極上オイルとカリカリのバゲット。
深夜の密室で、エレノアとユウの絆がさらに深まっていく!
次回第20話「バゲットを浸して笑う夜」。お楽しみに!
最後までお読みいただきありがとうございました!
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