第2話 孤高の銀髪小隊長
ギィィィ……ッ。
深夜の静まり返った大食堂から、俺のいる中央大厨房へと続く重厚な木の扉が、まるで重苦しい悲鳴のような鈍い音を立ててゆっくりと開かれた。
冷たい夜風が、俺と相棒のペティによって少しずつ温まりつつあった厨房の空気を、容赦なく切り裂くように流れ込んでくる。
「……こんな夜更けに、誰かいるのか?」
冷たく、酷くかすれた、限界まで張り詰めた声だった。
俺、南条悠は、まな板の上の包丁を置いて、ゆっくりと扉の方へと視線を向けた。
そこへ立っていたのは、白銀と紺の装飾甲冑を纏った一人の若い女騎士だった。
サファイアブルーの澄んだ瞳には、隠しきれないほどの深い疲労の色が濃く滲んでいる。
今にもその場に倒れそうな重い足取りで、彼女はじっとこちらを警戒するように見つめていた。
腰まで届く美しい白銀のストレートロングヘアは、土埃や魔物の返り血で汚れ、本来の艶やかな輝きを完全に失ってしまっている。
美しい顔立ちの頬には、乾いた血の跡と、無数の細かな擦り傷が刻まれていた。
「いらっしゃいませ。ここは中央大厨房です。お腹が空いているなら、何かお出ししますよ」
俺はまな板の上を清潔な布巾で拭き上げながら、できるだけ穏やかな声で話しかけた。
「マ、マスター、あれ第5特務遊撃小隊の小隊長っすよ! 泣く子も黙る『鬼の小隊長』って噂のエレノア・ヴェルディっす!」
エプロンのポケットから顔を出した相棒のペティが、柄の青い魔石を激しく点滅させながら、ひそひそと小声で耳打ちしてくる。
今日、北方大樹海への過酷な遠征から帰還した部隊があるとは聞いていた。
彼女はその最前線で、部下たちを率いて命がけで戦い抜いてきたのだろう。
その小柄で華奢な肩に、どれほどの重圧と命の重さを背負ってきたのか。
「……貴様が、新しく入ったという料理長か。私は第5特務遊撃小隊、隊長のエレノアだ」
「南条悠です。ユウと呼んでください。ひどく疲れているようですね。そちらのカウンターへどうぞ」
俺が椅子を勧めると、エレノアは気を張ったまま、少しだけ不機嫌そうに綺麗な眉をひそめた。
だが、足を引きずるようにしてカウンター席へと歩み寄り、重い腰を下ろす。
ガシャン、と重厚な甲冑が鈍い音を立てた。
至る所に無数の真新しい爪痕や傷が刻まれており、激戦の過酷さを物語っている。
「何か、温かいものでも作りましょうか? 夜の要塞は冷え込みます。体の芯から冷え切っているでしょう」
「不要だ。配給の保存食をもらいに来ただけだ。干し肉と、固焼きパンを出してくれ」
エレノアは冷たく言い放つと、テーブルの上に小ぶりな銀貨を一枚、コトンと置いた。
「保存食……ですか。ですが、今のあなたは胃腸もひどく弱っているはずです。そんな状態であんな硬いものを胃に入れたら、確実に体を壊してしまいますよ」
「構わん。私の胃袋はそんなに軟弱ではない」
俺の心配をよそに、エレノアは厨房の隅に無造作に置かれていた配給品の木箱を強引に引き寄せた。
中に入っているのは、血抜きもされずにただ強い塩を振って乾燥させられただけの、赤黒い岩のような魔物肉の干し肉だ。
そして、石のように硬く焼き上げられた茶色いパン。
鉄のサビのような血生臭さと、古い獣の油の匂いが入り混じった、ひどく不快な香りが漂ってくる。
エレノアは無表情のまま、その岩のような干し肉を手に取り、躊躇うことなく小さな桜色の口へ運んだ。
ゴリッ、ミチッ。
静かな大厨房に、硬い繊維を無理やり噛みちぎる、ひどく無機質で痛々しい音が響き渡る。
「おいおい、小隊長さんよ。そんな靴底みたいな肉、よく平気な顔で食えるっすね。血生臭くて、俺の綺麗な刃先でも絶対に触れたくないレベルっすよ」
ペティが呆れたように声を上げる。
俺も全くの同感だった。
前世で一流のホテルシェフとして、いや、実家の大衆食堂を守ってきた一人の料理人として、あんなものは食事とは呼べない。
ただの栄養補給、いや、もはや命を削る苦行だ。
親父が作ってくれた温かいスープに救われた俺だからこそ、目の前で食事が『ただの作業』に成り下がっている現状が見過ごせなかった。
「武人に食事の味など不要! 腹に入れば同じだ」
エレノアはペティを鋭く睨みつけ、ピシャリと言い放った。
「私たちは命を懸けて魔物と戦っている。飯の味に現を抜かすなど、軟弱者のすることだ。成果を出さねば、生きている価値はないのだからな」
その言葉の裏に、ひどく暗く、冷たい響きが混じっているのを俺は聞き逃さなかった。
まるで自分自身に言い聞かせるような、過去の呪縛のような言葉。
「成果を出さねば、価値がない……ですか」
俺はカウンター越しに、干し肉を噛み続けるエレノアの横顔を静かに観察した。
サファイアブルーの瞳は強い意志を持っているが、その下には色濃い疲労のクマがくっきりとできている。
無理やり硬い肉を咀嚼している唇は、血の気が引いて白っぽくカサカサに乾燥していた。
何より、テーブルの上に置かれた彼女の小さな手が、限界を訴えるように小刻みに震えているのだ。
「隊長さん、あんた限界っすよ! 俺の『食材直感』じゃなくても、あんたがボロボロなのは一目でわかるっす!」
「黙れ、喋る短剣。私は平気だ。これしきのことで……」
エレノアがペティに言い返そうと立ち上がった、その瞬間だった。
「あっ……」
ガクンッ、と彼女の膝から完全に力が抜け、その体が石畳の床に向かって崩れ落ちそうになる。
「危ない!」
俺は反射的にカウンターを飛び越え、倒れ込むエレノアの体を両腕でしっかりと受け止めた。
「なっ……!? き、貴様、気安く触るな……っ!」
「無理をしないでください。ひどい熱じゃないですか」
腕の中に収まったエレノアの体は、重厚な甲冑を着ているというのに、驚くほど軽かった。
装甲越しでも伝わってくるほど、彼女の体は異常な熱を持っている。
魔物との連戦による極度の疲労と、何日も続く睡眠不足。
それに加えて、粗悪な食事による慢性的な栄養失調が、彼女の体を内側から静かに蝕んでいたのだ。
「離せ……私は、まだやれる。戦わねば……私には、それしか生きる価値がないのだから……!」
エレノアは俺の厚い胸板を押し返そうとするが、その手には全く力が入っていなかった。
彼女の瞳の奥に、孤独で怯えるような寂しい光がよぎる。
俺は彼女の体をそっと支えながら、ゆっくりと椅子に座り直させた。
「戦うためだけに生きているなんて、そんな悲しいことを言わないでください」
「……何?」
俺は低い声で、静かに彼女の言葉を否定した。
いつもは気弱で冴えないおじさんでいるつもりだったが、こればかりは料理人の端くれとして見過ごせない。
「腹に入れば同じなんてことは絶対にない。味気ない飯で命を削って戦うなんて、そんなの間違ってます」
「間違っているだと……? 貴様に何がわかる! 私はッ……!」
「わかりますよ。現にあなたの体が、悲鳴を上げている。こんなパサパサの肉じゃ、心までは絶対に潤せない」
俺の確かな怒りを孕んだ言葉に、エレノアはハッとして言葉に詰まった。
サファイアブルーの瞳が、驚いたように大きく見開かれている。
「あなたは十分すぎるほどに戦って、部下を無事に帰還させた。立派な成果ですよ。だから、今は休まなくては駄目だ」
俺はカウンターの上に残っていた硬い干し肉と固焼きパンを取り上げ、無造作に木箱の中へと戻した。
そして、白いコックコート風エプロンの紐をギュッと力強く締め直す。
「こんなひどい食事は、今日で終わりにしましょう」
「お、おっさん……なんだか急に空気が変わったっすね。職人の目がマジっす」
ペティが驚いたように青い魔石を点滅させる。
俺は自身のスキル『絶対鮮度アイテムボックス』を展開し、光の空間から一つの食材を取り出した。
ズンッ、と分厚いまな板の上に置かれたのは、昨日市場のマルコさんから仕入れておいた新鮮な『ホーンラビット』の肉だ。
丁寧に血抜きをして適切に処理を施せば、上質な鶏肉のようなあっさりとした旨味を引き出せるポピュラーな魔物肉。
「少しだけ、待っていてください。すぐに、体に染み渡る本物の『食事』をお出ししますから」
俺はペティの白銀の柄をしっかりと握りしめ、冷たい湧き水で刃先を清めた。
「マスター、なんだか俺まで燃えてきたっすよ! 最高の切れ味でサポートするっす!」
「ああ、頼むぞペティ。まずはこの肉の筋を断ち切り、極限まで柔らかくする」
「任せるっす! マスター、その太い繊維の裏側に硬いスジが隠れてるっすよ! そこから刃を入れるっす!」
トントントントンッ!
ペティの直感的なナビゲートに従い、俺の包丁がリズミカルにまな板の上で跳ねる。
静まり返っていた大厨房に、軽快で小気味よい音が響き始めた。
「よし、スジは完璧に断ち切った。次は刃の背で軽く叩いて、肉の繊維をほぐしていく」
「完璧っすマスター! これで火を通しても絶対に硬くならないっすよ!」
戦場の殺伐とした金属音とは違う、命を育むための心地よく温かい音。
「な……何をする気だ……私は、そんなものを頼んだ覚えは……」
エレノアは虚勢を張って立ち上がろうとするが、すでに彼女の体は限界を超えていた。
抗うことのできない疲労感の中で、まな板に向かう俺の広い背中を、ただ呆然と見つめている。
スゥ……ッ、トンッ。
ペティの滑らかな刃筋が、ホーンラビットの肉の繊維を一切潰すことなく、見事な一口大へと切り分けていく。
俺は切り分けた肉を大きなボウルに移し、特製の醤油ベースの調味料をたっぷりと回しかけた。
そこに、すりおろしたニンニク、たっぷりの生姜、そして少しの果汁を合わせたタレを加え、しっかりと手で揉み込んでいく。
クチャッ、クチャッ。
肉の繊維の奥深くまで、タレの旨味がじゅわっと染み込んでいくのが手元から伝わってきた。
「……な、なんだ。この、鼻腔をくすぐる香りは……」
かすれたエレノアの声が、厨房の空気に溶ける。
まだ火を通していないというのに、タレの香ばしい匂いとニンニクの食欲をそそる香りが、ふわりと彼女のもとへと漂っていったのだ。
極限まで疲弊し、空腹状態にある彼女の胃袋を、その暴力的なまでに食欲をそそる香りが容赦なく刺激する。
ギュルルルルゥゥゥ……。
その時、静かな厨房に、全く可愛気のない大きなお腹の鳴る音が響き渡った。
「あっ……!?」
エレノアはハッと両手でお腹を押さえ、サファイアブルーの瞳を限界まで見開いた。
「ひょ~! 小隊長さん、すっげぇいい音鳴らしたっすね!」
「ち、違う! 今のは私ではない! 決して私の腹の虫が鳴いたわけでは……っ!」
顔を真っ赤にして慌てふためく彼女の姿は、冷徹な鬼の小隊長というより、年相応の可愛らしい女の子そのものだった。
「あはは。戦士の腹の虫は、元気な証拠ですよ。恥ずかしがることはありません」
俺は笑いながら、かまどの火力を一段階引き上げた。
ゴォォォォッ!
魔導コンロの青い炎が、分厚い鉄鍋を熱していく。
鍋の中にたっぷりと注がれた黄金色の油が、チリチリと小さな音を立てて温度を上げ始めていた。
「さあ、ここからが職人の腕の見せ所です。極上の唐揚げで、あなたのその意地っ張りな胃袋を満たしてみせましょう」
「か、唐揚げだと……? そんな未知の料理、私が口にするわけが……っ」
強がるエレノアの言葉とは裏腹に、彼女の視線はすっかり油の張られた鍋へと完全に釘付けになっていた。
香ばしいタレに漬け込まれたホーンラビットの肉。
それが熱々の油に放り込まれた時、果たしてどんな魔法が起きるのか。
深夜の厨房に、やがて彼女の理性を吹き飛ばす、禁断の香りが立ち上ろうとしていた。
【次回予告】
意地を張る孤高の女騎士に、深夜の飯テロが襲い掛かる!
熱々の油が弾ける音と、抗えない香ばしい匂い……ついにエレノアが陥落の危機!?
次回第3話「厨房から漂う禁断の香り」。お楽しみに!
最後までお読みいただきありがとうございました!
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