第17話 孤児街の冬と冷えたパン
ジューーーッ……。
分厚い鉄板の上で、先ほどまで焼かれていた味見用のつくねの香ばしい余韻が、深夜の静かな中央大厨房にまだ色濃く漂っていた。
焦げた特製醤油タレの圧倒的な香ばしさと、ホーンラビットのあっさりとした上質な脂が混ざり合った、甘辛く、理性を揺さぶるような匂い。
その温かい匂いに優しく包まれた厨房のカウンター席に、第5特務遊撃小隊のスカウト、ミーナがちょこんと腰掛けていた。
いつもは元気いっぱいに要塞中を跳ね回っている赤いベリーショートの髪が、今はどこかしおれたように、力なく垂れ下がっている。
琥珀色の大きな瞳は、すっかり空になった小皿の底を、どこか遠い世界を見るような虚ろな目で見つめていた。
「……あたしね、王都のずっと端っこにある、太陽の光もまともに当たらないような孤児街の路地裏で育ったんだ」
ポツリと。
深夜の静寂に溶け込むような、小さな声だった。
無邪気で無鉄砲なハラペコ野生児の顔から、今は一切の笑顔が消え去り、年相応の、いや、それ以上に過酷な過去を背負った少女の顔つきに変わっている。
「冬になるとね、北の山から信じられないくらい冷たい風が吹いてさ。ボロボロの、隙間だらけの布切れ一枚じゃ、寒くて寒くて……手も足も、すぐに感覚がなくなっちゃうの」
彼女は自身の華奢な両腕を、あの頃の骨まで凍えるような寒さを思い出すように、ギュッと強く抱きしめた。
革鎧の下の小さな肩が、微かに震えているのがわかる。
「でもね、寒さよりも何よりも……お腹が空くのが……胃袋の中が空っぽで、自分が生きてるのか死んでるのか分からなくなるのが、すっごく、すっごく怖かったんだ……」
震える切実な声が、静まり返った厨房に落ちる。
俺、南条悠は、布巾でカウンターを拭く手を止め、静かに彼女の言葉に耳を傾けていた。
白いエプロンのポケットにいる相棒のペティも、今はふざけた口調を完全に封印し、青い魔石の光をそっと弱めて、彼女の吐露を静かに受け止めている。
深夜の厨房には、かまどの奥で微かに燃える炭の音だけが、優しく響いていた。
「毎日、毎日……ゴミ捨て場を必死に漁って、自分より大きな他の子供たちと殴り合って、奪い合って……」
ミーナの琥珀色の瞳の奥に、極寒の路地裏の残酷な風景が、はっきりと浮かび上がっているようだった。
「やっとの思いで見つけたのは、石みたいにかちかちに凍った、泥だらけの小さなカブ一個だけ。でも、それがその日の、あたしのたった一つの命綱だった」
彼女は両手をきゅっと固く握りしめた。
「泥を綺麗に洗う水なんてないから、服で少しだけ拭いて、そのままかじりつくの。歯が折れそうなくらいガチガチに硬くて、冷たくて……口の中は、泥のジャリジャリした嫌な味と、切れた歯茎の血の味しかしないんだよ」
ミーナの小さな体が、さらに小刻みに震え始める。
「たまに運良くパンの切れ端を見つけても、すっかり冷え切ってパサパサで……水気なんてないから、飲み込もうとすると、喉の奥が張り裂けそうになるくらい痛くて。それでも、胃袋に何かを入れないと死んじゃう気がして、涙を流しながら必死に飲み込んだんだ」
ぽたっ、と。
ミーナの瞳から溢れ出した大粒の涙が、空になった小皿の上に落ちて小さく弾けた。
「おっちゃんの作ってくれたお肉、すっごく美味しかった。あんなに温かくて、柔らかくて、口の中で肉汁がいっぱい溢れるもの、生きてて初めて食べたから……」
彼女は両手で顔を覆い、しゃくり上げるように声を震わせた。
「だから……また、あの泥の味しかしないカブをかじる生活に戻るのが……冷たいパンで喉を切る毎日に戻るのが……怖いよ……っ」
それは、ただ飢えに怯え、温かい食事と無条件の愛情を知らずに育った、一人の孤独な少女の悲痛な叫びだった。
「マスター……」
ポケットの中で、ペティが微かに柄を震わせて囁いた。
「ハラペコは辛いっす……。俺もずっと、暗くて冷たいガラクタ倉庫で、誰にも使われずに埃をかぶってたから、こいつの『冷たくて寂しいのが怖い』って気持ちが、少しだけわかるっす……。マスター、あいつの記憶、なんとかしてやってほしいっす」
「ああ、わかっているとも」
俺は低い声で答え、自身のスキルである絶対鮮度アイテムボックスの光の空間へ静かに手を伸ばした。
幼い子供が、泥にまみれたカブを泣きながらかじる。
彼女のその冷え切った過去のトラウマを、そのままにしておくわけにはいかない。
料理人として、いや、一人の大人として、俺の温かい料理でその悲しい記憶を優しく上書きしてやらなければならない。
「ミーナちゃん」
俺が静かに、だがはっきりとした芯のある声で呼びかけると、彼女は涙でぐしゃぐしゃになった顔をゆっくりと上げた。
「冷たい泥の味なんか、もう二度と思い出す必要はない。君のその悲しい記憶は、今から俺が全部上書きしてやる」
俺が光の空間の中から取り出したのは、大樹海近郊の豊かな土壌で採れたばかりの、真っ白で丸々と太った美しいカブだった。
瑞々しい青々とした葉がついたそれは、孤児街の凍りついたカブとは全く違う、生命力に溢れた極上の食材だ。
「おっちゃん……それ……」
「泥だらけでかちかちのカブじゃない。甘くて、柔らかくて、心がほどけるような……本当のカブの味を教えてあげるよ」
俺は冷たい湧き水でカブの土を綺麗に洗い流し、ペティの白銀の柄をしっかりと握りしめた。
「頼むぞ、ペティ。繊維の奥の奥まで、一番柔らかく火が通る切り方を教えてくれ」
「任せるっすマスター! 俺の食材直感で、ハラペコの冷え切った胃袋に一番優しく染み込む、極上の切り方を見極めてやるっす!」
トントン、トントントンッ!
静寂に包まれた厨房に、軽快で、どこまでも優しい包丁の音が響き渡る。
ペティのナビゲートに従ってくし切りにされたカブの断面は、瑞々しい水分をたっぷりと湛えて、厨房の灯りを反射してキラキラと光り輝いていた。
「これに合わせるのは、昨日の朝に仕込んでおいた、ロックバードの濃厚な鶏白湯スープだ」
俺はかまどの火を入れ直し、熱伝導の良い銅製の小鍋に、コラーゲンで白濁した濃厚な鶏出汁をたっぷりと張った。
シュンシュンシュン……。
お湯が沸き立つ心地よい音と共に、鶏の深いコクと、骨の髄から出た甘い香りが、厨房の空気を優しく包み込んでいく。
そこに、切り分けた真っ白なカブをそっと放り込んだ。
コトコト、コトコト……。
極限まで弱火に落とし、じっくりと時間をかけて煮込んでいく。
カブの形が煮崩れないように、しかし中心まで完全にスープの濃厚な旨味が染み込むように、魔法をかけるように丁寧に熱を通していくのだ。
「仕上げに、体を芯から温める生姜の絞り汁を少しだけ落とし、ミネラルたっぷりの岩塩で味を整えて……よし、完成だ」
俺はあらかじめお湯で温めておいた深めの木椀に、とろとろに透き通るまで煮込まれたカブをよそい、白濁した濃厚な鶏白湯スープをたっぷりと注ぎ入れた。
ふわりと立ち上る湯気は、冬の寒さと飢えの恐怖を完全に忘れさせるほどに温かく、優しい匂いに満ちている。
「お待たせしました。とろとろカブの濃厚鶏白湯スープだ」
俺は湯気の立つ木椀を、ミーナの目の前へとそっと差し出した。
「まずはこれで、君の冷え切った胃袋と記憶を温めなさい」
ミーナは真っ赤に腫らした琥珀色の目で見つめ、震える両手でその木椀を、まるで宝物でも扱うかのように大切そうに包み込んだ。
「……あったかい。お椀を持ってるだけで、凍えてた手が、ぽかぽかしてくる……」
彼女はそっと木椀に桜色の唇をつけ、白濁したスープと、柔らかく煮込まれたカブを一緒に、ゆっくりと口へと流し込んだ。
コクン。
その瞬間。
ミーナの琥珀色の瞳が、信じられないものを見たかのように大きく見開かれた。
(な、なんだこれ……!? カブが……口の中で溶けちゃった……!)
かつて彼女の歯を折らんばかりに硬かった泥付きのカブは、そこには一切存在しなかった。
舌の上に乗せた瞬間、カブはふわりとほどけるように溶け出し、中からロックバードの濃厚な旨味と、カブ自身の驚くほどの自然な甘みがジュワッと溢れ出してきたのだ。
パサパサで喉を切り裂くような痛みも、血の味も、泥の嫌な味も一切ない。
生姜の微かな刺激が、冷え切っていた胃の腑からじんわりと全身を温め、細胞の隅々にまで優しい栄養が染み渡っていく。
「あ……あぁ……っ」
ミーナの口から、とろけるような甘い吐息が漏れた。
「美味しい……っ。すっごく甘くて……お肉の味が中までいっぱい染み込んでて……泥の味なんて、ちっともしないよ……っ」
ぽろぽろと、再び彼女の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちる。
しかしそれは、過去の恐怖を思い出した悲しみの涙ではなかった。
芯から冷え切っていた心が、圧倒的な優しさと温もりによって完全に溶かされた、純粋な安堵の涙だった。
「うわぁぁぁん……っ! おっちゃぁぁん……っ! 美味しいよぉぉ……!」
ミーナは温かい木椀を抱えたまま、堪えきれなくなった子供のように大声を上げて泣きじゃくった。
「こんなに美味しくて、温かいカブ……あたし、生きててよかったぁぁ……!」
「よかった。これでもう、カブを見るたびに悲しい思いをしなくて済むな」
俺はカウンター越しに手を伸ばし、泣きじゃくる彼女の赤い髪を、大きな手で優しく撫でてやった。
「ここではいつでも、温かくて美味い飯が腹いっぱい食べられる。君はもう、一人で寒空の下を歩かなくていいんだ」
俺の言葉に、ミーナは何度も何度も強く首を縦に振り、夢中でスープとカブを飲み込んでいった。
やがて、木椀が最後の一滴まで綺麗に空になると、彼女はほうっと長い長い息を吐き出し、涙で濡れた顔に、ようやくいつもの満面の笑みを浮かべた。
「ごちそうさまでした! あたしのお腹の中、今はポカポカで幸せでいっぱいだよ!」
「それは何よりだ。……さて、冷えた胃袋の準備運動はこれで完璧だな」
俺がそう言って振り返ると、ミーナは不思議そうに小首を傾げた。
「準備運動?」
「ああ。さっきのはあくまで、胃を温めるためのスープだ。育ち盛りの君には、まだちゃんとしたメインディッシュを出していなかったからな」
俺はかまどの横に置いてあった、大量のホーンラビットのひき肉が詰まったボウルを引き寄せた。
「さっき味見してもらった、軟骨コリコリのつくね。あれを君の胃袋の限界まで、特製醤油タレで焼き上げてやる」
「ひょ~! 出たっすねマスターの本気! ハラペコの胃袋を完全に崩壊させる、容赦ない飯テロの時間っすよ!」
ペティが青い魔石をピカピカと光らせて囃し立てる。
「うわぁぁっ!! つくね! さっきのおっきなつくねがいっぱいだぁぁっ!」
ミーナは先ほどの涙などすっかり忘れ、カウンターから身を乗り出して鉄板に釘付けになっていた。
琥珀色の瞳はキラキラと輝き、小さな口からは今にもヨダレが垂れそうだ。
「しかも、ただのつくね焼きじゃない。俺が本気で炊き上げた真っ白なご飯の上に、これでもかと乗せた『特製甘辛つくね丼』にしてやるからな。覚悟しておけよ」
「ご飯!? 白くてフワフワのあのご飯の上に乗っけるの!? やばい! おっちゃんそれ最高すぎるよーーっ!」
孤児街の冷たい記憶は、もう彼女の心を縛ることはない。
これからは、この厨房から漂う香ばしい匂いと、温かいご飯が、彼女の新しい記憶として深く刻まれていくのだ。
【次回予告】
限界までお腹を空かせた野生児の前に、ついに本命のメインディッシュが登場!
炊きたて白米と軟骨入り甘辛つくねの破壊的コンボに、ミーナの語彙力が再び消滅する!?
次回第18話「軟骨コリコリの甘辛つくね」。お楽しみに!
最後までお読みいただきありがとうございました!
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