第16話 クンクンと嗅ぎつける赤毛
コツ……コツ……。
深夜の中央大厨房。
大食堂の奥から近づいてきた規則正しい硬い足音が、重厚な木の扉の前でピタリと止まった。
俺、南条悠は、自身の膝の上で布巾を被ってすやすやと眠る薬術士のリリスを起こさないよう、息を殺して扉を見つめた。
「……マスター、誰か来たっすよ。この真っ直ぐで迷いのない足音、まさか小隊長殿じゃ……」
俺の白いエプロンのポケットの中で、相棒のペティが青い魔石の光を極限まで絞り、ひそひそ声で囁く。
深夜の厨房で、うら若き女の子に膝枕をしている現場など見られたら、どんな誤解を招くか分かったものではない。
ましてや、相手があの堅物で生真面目なエレノア小隊長だとしたら、問答無用で斬り捨てられる可能性すらある。
俺が冷や汗を流しながら身構えていると。
「……異常なし、か。次の区画へ向かうぞ」
扉の向こうから、野太い当直の巡回兵の声が聞こえ、再びコツコツという足音が遠ざかっていった。
「ひょ~……ビビらせやがって。ただの夜間警備の兵士だったっすね」
「ああ、心臓に悪いな……。リリスさん、風邪を引かないようにあっちの長椅子に寝かせてこよう」
俺はそっとリリスの小柄な体を抱き上げ、厨房の隅にある長椅子に寝かせた。
彼女は「むにゃ……甘い……」と呟きながら、大きな丸メガネをずり落として幸せそうに眠り続けている。
徹夜明けの彼女の脳は、先ほどのガトーショコラですっかり満たされているらしい。
「さて、と。思いがけず夜更かししてしまったが……静かなうちに、明日の仕込みの続きをやってしまおう」
俺はかまどの火を弱く入れ直し、特大の鉄鍋でお玉をゆっくりと回し始めた。
シュンシュン、ポコポコポコ……。
静まり返った深夜の厨房に、小気味良い鍋の沸騰音が響き渡る。
鍋の中では、濃い飴色をしたとろみのある液体が、ふつふつと心地よい音を立てて煮詰まっていた。
「マスター、それ、ずっと煮込んでる特製のタレっすよね? 塩と香草でシンプルに味付けするのとは、また違うんすか?」
「ああ。醤油の香ばしさと、砂糖が焦げるような深い甘み。それに魔獣の骨からとった出汁を限界まで濃縮して作る、どんな肉にも合う万能の調味料さ」
俺は昨日解体したホーンラビットの骨を捨てずに、あらかじめ鉄板でこんがりと美しい焼き色がつくまで、じっくりとローストしておいたのだ。
骨の髄から滲み出した旨味の詰まったエキスと上質な脂が、鍋の中で醤油と、みりん代わりに使用している極甘の果実酒、そしてたっぷりの砂糖と混ざり合う。
火加減をごく弱火に落とし、タレの表面に浮かんでくる細かなアクを、網じゃくしを使って丁寧にすくい取っていく。
そこにネギの青い部分や、包丁の腹で叩き潰した生姜といった香味野菜の香りが複雑に絡み合い、深夜の厨房は、もはや暴力的とも言えるほどの食欲をそそる匂いで満たされ始めていた。
「ひょ~! この匂いだけで、白いご飯が無限に食えそうっすよ! 俺、血を吸う魔剣として造られたはずなのに、金属の奥底から唾液が出てきそうっす!」
「ははは。まあ、この醤油と砂糖が焦げて煮詰まる匂いは、人間の本能を直接刺激するからな。俺のいた世界でも、この香ばしい匂いに抗える人間はそうそういなかったよ」
俺は再び鍋へと意識を集中させた。
タレ作りは、火加減と見極めが命だ。一瞬の油断が、極上の調味料をただの焦げた苦い汁に変えてしまう。
「ペティ、仕上がり具合はどうだ? 俺の目と鼻では、そろそろ完璧な煮詰まり具合だと思うんだが」
「任せるっすマスター! 俺の食材直感で、旨味成分のピークを寸分違わず見極めてやるっす!」
ペティの青い魔石が、鍋の中の液体を分析するように鋭く光を放つ。
「すっげぇっす! 醤油の塩味、砂糖の甘味、ホーンラビットの骨から出た深いコクが、今まさに完璧な黄金比率で融合したっすよ! 今すぐ火から下ろすっす!」
「よし、了解だ」
俺は分厚い布巾を使い、ずっしりと重い鉄鍋をかまどから下ろした。
ジュワァァァ……という余熱の音と共に、さらに一段と香ばしい匂いが立ち上る。
これでお肉を焼けば、一瞬で極上のご馳走に化ける万能タレの完成だ。
「ちょうど、昨日の残りのホーンラビットのひき肉がある。これで小さなつくねを焼いて、タレの絡み具合を確かめてみよう」
俺は細かく砕いた軟骨の欠片と、みじん切りにしたネギをひき肉にたっぷりと混ぜ込んだ。
そこに新鮮な卵を落とし、ペチッ、ペチッと空気を抜きながら手早く捏ね上げていく。
熱した分厚い鉄板に薄く油を敷き、丸めたつくねを等間隔に並べた。
ジューーーッ!
肉の焼ける小気味良い音が弾け、ホーンラビットのあっさりとした脂の香りが広がる。
表面がこんがりとしたキツネ色に焼き上がったところで、俺は刷毛を手に取った。
完成したばかりの特製醤油タレを、熱々のつくねの表面にたっぷりと塗りつけていく。
ジュワァァァァァッ!!
熱せられた鉄板に醤油タレが触れた瞬間、爆発的な香ばしさが深夜の空気を完全に支配した。
焦げた醤油と肉の焼ける匂い。それはもう、理性を吹き飛ばすほどの圧倒的な食欲のトリガーだった。
その時だった。
クンクンッ、スンスンッ!
大食堂へと続く重厚な木の扉の向こうから、やたらと激しく鼻を鳴らす、まるで犬のような音が聞こえてきた。
「ん……? こんな夜中に、誰かいるのか?」
俺が顔を上げると、ギィィィ……と扉が少しだけ開き、隙間から赤い毛玉のような頭と、琥珀色の大きな瞳がひょっこりと覗いた。
「うわわわっ! なんだこのヤバすぎる甘い匂いはーっ!」
タンッ! と身軽な動きで厨房に飛び込んできたのは、小柄な少女だった。
ベリーショートの鮮やかな赤毛に革鎧。第5特務遊撃小隊の精鋭スカウト、ミーナだ。
「おや、ミーナちゃん。夜間の見回りかい?」
「ユウのおっちゃん! 隠密パトロール中だったんだけど、廊下まですっごく美味そうな匂いが漏れててさ……もう我慢できなくて来ちゃったよー! あっ、リリスが寝てる!」
「ああ、徹夜明けで限界だったみたいだから、さっき長椅子に寝かせたんだ。起こさないように静かにな」
俺が微笑むと、ミーナは「わかった!」と小声で頷き、鉄板の上で湯気を立てるつくねに、文字通り釘付けになっていた。
「ひょ~! 出たっすねハラペコ野生児! 匂いに釣られて深夜の厨房に直行とは、さすがスカウトっす!」
「うわぁ! 短剣が喋った!? まあいいや、それよりおっちゃん、それ……食べていい!?」
琥珀色の瞳をキラキラと輝かせ、口元から今にもヨダレを垂らしそうなミーナを見て、俺は思わず吹き出した。
「ふふ、ちょうど味見をしてほしかったところだ。熱いから気をつけてな」
俺が小皿につくねを乗せて差し出すと、ミーナは「やったー!」と小声で歓声を上げ、手掴みでそのままパクリと食らいついた。
サクッ、ジュワッ、コリリッ。
その瞬間。
ミーナの動きが、ピタリと完全に停止した。
琥珀色の瞳が極限まで見開かれ、ピンと立った獣の耳のように赤毛が逆立っている。
「ぬ……ぬおぉ……っ!?」
彼女の口の中で、ホーンラビットの淡白な肉汁に、濃厚で甘辛い醤油タレがねっとりと絡みついていた。
噛むほどに、軟骨のコリコリとした心地よい食感が弾け、香ばしい焦がし醤油の匂いが鼻腔を突き抜けていく。
「う、うめぇぇぇぇぇぇーーーーっ!!!」
ミーナは小声で叫び声を上げると、その場で両手を高く突き上げ、ピョンピョンと激しく飛び跳ね始めた。
「ヤバい! なにこれヤバいよおっちゃん! お肉の旨味がドカンときて、タレの甘じょっぱいのがブワァーってなって!」
完全に語彙力を喪失した彼女は、歓喜の謎のダンスを踊りながら、残りのつくねを次々と口の中へ放り込んでいく。
「すっごい! コリコリしてる! 噛めば噛むほどお肉が甘いよー! うめぇぇぇっ!」
「こらこら、喉に詰まらせるぞ。ゆっくり食べなさい」
俺が苦笑しながら冷たいお茶を差し出すと、ミーナはそれも一気に飲み干し、ふぅっと大きなため息をついた。
「あー……美味しかったぁ……。あたし、生きててこんなに美味しいお肉食べたの、初めてだよ……」
すっかり空になった小皿を名残惜しそうに見つめる彼女の顔には、先ほどまでの無邪気な笑顔とは違う、どこか切実な色が浮かんでいた。
「おっちゃん……あのね、あたし……」
ミーナは小さな手で自分のお腹をさすりながら、ぽつりと呟いた。
「……こんな風にお腹いっぱいになって、安心できたことなんて……孤児街にいた頃は、一度もなかったんだ……」
その琥珀色の瞳の奥に、極寒の冬と、飢えに対する深い恐怖の記憶が揺れているのを、俺は見逃さなかった。
深夜の静寂の中、ポツリとこぼれ落ちた彼女の切実な声に、俺は優しく彼女の頭を撫でた。
【次回予告】
孤児街での過酷な記憶を語るミーナ。
彼女の冷え切ったトラウマを打ち砕くため、ユウが振る舞う「心温まるスープ」とは!?
次回第17話「孤児街の冬と冷えたパン」。お楽しみに!
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