第11話 壁際のダウナーな影
ズリッ……、ズリッ……。
男たちの熱気と朝の喧騒が去り、ようやく心地よい静寂を取り戻したはずの中央大厨房に、石畳の床を重く擦るような不気味な足音が響いた。
大食堂へと続く重厚な扉の影から、ゆっくりと、まるで墓場から抜け出してきた亡霊のように這い出てきた小柄な影。
「ひょ~っ!? ま、マスター! 出たっす! 朝っぱらからオバケが出たっすよ!」
俺のエプロンのポケットに収まっていた相棒のペティが、柄の青い魔石を激しく点滅させてけたたましい叫び声を上げた。
俺、南条悠は、布巾でカウンターを拭く手を止め、その怪しげな影の方へと静かに視線を向けた。
そこに立っていたのは、身長百五十センチにも満たない、ひどく小柄で華奢な少女だった。
顔の半分を覆い隠すような大きな丸メガネ。
その奥にあるダウナーで生気のない瞳には、インクを塗りつけたかのような真っ黒で濃いクマがくっきりと刻まれている。
手入れのされていない深緑色の長い髪はボサボサで、彼女の小さな体には不釣り合いなほどぶかぶかの、黒い魔術士のローブを床に引きずっていた。
「……脳が、糖分と栄養を求めている……」
幽鬼のような、掠れて消え入りそうな声。
彼女はふらふらとした足取りで真っ直ぐカウンターに近づくと、そのままプツンと糸が切れた操り人形のように、パタリとテーブルに突っ伏した。
「お、おいメガネ! 大丈夫かっすか!? 生きてるっすか!?」
ペティが慌てて声をかけるが、少女はピクリとも動かない。
ただ、コクン、コクンと、虫の息のように微かに首だけを揺らしている。
「ひどい疲労ですね。徹夜明け……いや、何日もまともに眠っていない顔だ」
俺はカウンター越しに彼女の青白い顔を覗き込み、急いでかまどの魔導コンロに火を入れ直した。
彼女のローブの胸元には、第5特務遊撃小隊の紋章が銀糸で刺繍されている。
エレノアさんの部下の一人、後方支援と医療を担う薬術士のリリス・フォン・クローネだろう。
「周りの連中からは『毒使い』なんて物騒な渾名で呼ばれて、不気味だと避けられていると噂で聞きましたが……」
「毒使い!? マスター、気をつけるっす! そんなヤバい奴に関わったら、俺たちの飯まで怪しい毒まみれにされるかもしれないっすよ!」
ペティがガタガタと柄を震わせるが、俺は静かに首を横に振った。
「バカを言うな。限界まで頑張って倒れ込んできた女の子を追い返すような真似、料理人の名折れだ」
俺は自身のスキル『絶対鮮度アイテムボックス』を展開し、光の空間からいくつかの小さな木箱を取り出した。
「極度の脳疲労を起こしている。まずは、強張った神経を内側から解きほぐす、甘くて温かいものが必要だ」
俺が取り出したのは、市場のネルおばちゃんの店で仕入れて乾燥させておいた、数種類のハーブだ。
カモミールに似た甘い香りの花、ミント系の爽やかな葉、そして疲労回復に即効性があるという大樹海産の赤い木の実。
「おっ、マスター。その赤い木の実、俺の『食材直感』が激しく反応してるっす! 滋養強壮にすっげぇ効くけど、煮出しすぎると強烈な苦味とエグみが出るらしいっすよ!」
「わかっている。だから、煮出す時間は秒単位で徹底的に管理する。お前のナビゲートが頼りだぞ、ペティ」
「任せるっす! 俺の直感で、一番美味くて体にいい成分だけをピンポイントで抽出してやるっすよ!」
俺は銅製の小さな手鍋に綺麗な湧き水を張り、かまどの青い炎にかけた。
シュンシュンシュン……。
静かな厨房に、お湯が沸き立つ心地よい音が響き始める。
沸騰する直前の絶妙な温度を見計らい、俺は手ですり潰したハーブと木の実を、そっとお湯の中に落とした。
ジュワッ、と微かな音とともに、透明だったお湯が瞬く間に淡く美しいルビー色へと染まっていく。
「今っすマスター! 火から下ろすっす!」
ペティの鋭い声に合わせて、俺は手鍋を火から離し、目の細かい茶こしを使って厚手の陶器のカップへと液体を注ぎ込んだ。
トクトクトク……。
カップに注がれると同時に、花のような優しい甘い香りと、ミントの清涼感、そして木の実の甘酸っぱい匂いが、ふわりと爆発的に立ち上った。
厨房の空気が、一瞬にして自律神経を癒やす温かな香りで満たされていく。
「仕上げは、これだ」
俺はアイテムボックスから、大樹海近郊で採れたという希少な『百花蜜』の小瓶を取り出した。
極度の疲労状態にある脳には、何よりもまず吸収の早い上質な糖分が必要だ。
透明感のある黄金色のハチミツが、瓶を傾けるとゆっくりと、重いとろみを持って木製スプーンへと流れ落ちていく。
たっぷりと百花蜜をすくい上げると、朝の光を反射してまるで宝石のようにキラキラと輝いた。
そのまま熱いカップの中へと静かに沈め、カチャ、カチャと心地よい音を立ててゆっくりと溶かし込んでいく。
熱いハーブの液体とハチミツが混ざり合うことで、濃厚で甘い百花蜜の匂いが、ミントの清涼感と完璧なマリアージュを果たした。
「お待たせしました。『特製・干しハーブの甘い煎じ薬』です」
俺は湯気の立つカップを、カウンターに突っ伏しているリリスの顔のすぐそばへとそっと置いた。
「……ん……?」
濃厚なハチミツとハーブの香りが、真っ直ぐに鼻腔をくすぐったのか。
リリスはピクリと肩を揺らし、大きな丸メガネの奥のダウナーな瞳をゆっくりと開けた。
「……なんだ、この香りは……私の調合した薬品の匂いとは違う……もっと、とろけるように甘くて……」
彼女はふらふらと上体を起こし、目の前に置かれたカップをじっと見つめた。
カップから立ち上る湯気が、リリスの大きな丸メガネを白く曇らせる。
「飲んでみてください。今のあなたに一番必要な栄養と糖分を、たっぷりと詰め込んでありますから」
俺が優しく微笑みかけると、リリスは警戒するように俺とカップを交互に睨みつけた。
「……貴様、新しく来たという料理長か。私にこんな得体の知れないものを飲ませて、どうするつもりだ。毒でも入れたか……?」
「毒使いと呼ばれるあなたが、毒を怖がるんですか?」
俺がくすりと笑うと、リリスはムスッとした顔になり、カップを両手で包み込んだ。
冷え切っていた彼女の小さな指先に、陶器越しの優しい熱がじんわりと伝わっていく。
「……ふん。ならば、私のこの舌で直接鑑定してやる……」
強がるような言葉とは裏腹に、彼女の小さな鼻はピクピクと甘い香りを忙しなく追っていた。
彼女はカップの縁に小さな唇を寄せ、淡いルビー色の液体をゆっくりと口へと流し込んだ。
コクン。
その瞬間だった。
「ぬ、ぬぅ……っ!?」
リリスの小柄な体が、まるで雷に打たれたようにビクリと激しく跳ね上がった。
大きな丸メガネの奥の瞳が、これ以上ないほどに限界まで見開かれている。
「ひょ~! 出たっす! 小隊長に続く、メガネのフリーズ現象っす!」
ペティが嬉しそうに囃し立てるが、リリスの耳にはもう何も届いていなかった。
(な、なんだこれは……っ!? 薬草特有の強いえぐみが、完全に消えている……っ!?)
口に入れた瞬間、百花蜜の濃厚で優しい甘みが、疲弊しきった舌の細胞を温かく包み込んだ。
それに続いて、ミントの清涼感が、何日も徹夜して泥のように重かった頭の中を、スッとクリアに掃き清めていく。
飲み込んだ後には赤い木の実の心地よい酸味が広がり、冷え切っていた胃の腑から、じんわりと強烈なエネルギーが湧き上がってくるのだ。
それは、ただの薬ではなく、優しさに満ちた『極上の飲み物』だった。
「あ……あぁ……っ」
リリスの桜色の唇から、とろけるような甘い吐息が漏れた。
真っ白で血の気のなかった頬と耳が、熱と糖分によってみるみると健康的な赤色に染まっていく。
彼女はもう我慢できないといった様子で、両手でカップをしっかりと持ち直し、ごくごくと音を立てて煎じ薬を飲み干していった。
「ぷはぁっ……!」
空になったカップをテーブルに置き、リリスは大きく息を吐き出した。
先ほどまでの幽鬼のようなダウナーな雰囲気はすっかり消え去り、その表情には年相応の可愛らしい生気が戻っている。
「……驚いた。ただのハーブの煎じ薬に、こんな……人をダメにするような甘さと優しさを隠し持たせているなんて……」
リリスは丸メガネの位置を指先でクイッと直し、熱を帯びた瞳で俺を見つめた。
「脳の隅々まで、一瞬で糖分が染み渡った……。貴様、ただの料理人ではないな。私の知識を遥かに超える、恐るべき調合の腕だ」
「大げさですよ。ただ、疲れ切った人には甘くて温かいものが一番効くって、昔から決まってるんです」
俺が布巾でカウンターを拭きながら答えると、リリスは不思議そうに小首を傾げた。
「……貴様、私が怖くないのか? 周りの連中は、私が怪しい薬を煮詰めているだけで、不気味な魔女だと避けて通るのに」
彼女の瞳の奥に、ほんの少しだけ寂しそうな色が揺れる。
いつも一人で研究に没頭し、誰からも理解されなかった孤独の影。
「怖いわけないでしょう。むしろ、仲間の体を治すために薬術を学んで、徹夜でフラフラになるまで頑張っているなんて、立派な仕事じゃないですか」
俺の言葉に、リリスはハッとして瞳を大きく揺らした。
ずっと「不気味な毒使い」と遠ざけられてきた彼女の心に、俺の何気ない肯定の言葉が、温かいハチミツのようにスッと染み込んだようだった。
「……ふん。変な男だ」
リリスは顔を赤らめ、誤魔化すようにプイッと横を向いた。
だが、その口元は微かに、嬉しそうに緩んでいる。
と、その時。
横を向いたリリスの視線が、まな板の横の木箱に無造作に置かれていた一つの食材で、ピタリと止まった。
「……おい、ユウ。なぜ、あんな恐ろしいものが厨房に置かれているのだ?」
リリスの指さす先。
そこには、先ほどマルコさんの市場で仕入れてきたばかりの、人間の形によく似た不気味な根菜が転がっていた。
「ああ、これですか? 大樹海で採れた『マンドラゴラ』の芋ですよ。すごくいい出汁が出るんです」
俺が平然と答えると、リリスは血相を変えてガタッと立ち上がった。
「バカな! マンドラゴラは猛毒を持つ魔植物だぞ! 致死量の毒を孕んだそれを、まさか……料理にするつもりか!?」
驚愕し、顔面を蒼白にするリリスを前に、俺はペティの柄を握りしめ、静かに微笑んだ。
【次回予告】
猛毒を持つ不気味な根菜、マンドラゴラ!
だが、職人の腕と薬術士の知識が合わされば、それは極上の食材へと化ける!?
次回第12話「不気味な根菜と職人の眼」。お楽しみに!
最後までお読みいただきありがとうございました!
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