第10話 賑やかになったオアシス
ズズッ、ズズズーッ!
朝の中央大厨房に、男たちが豪快に汁をすする音と、獣の嗚咽のような泣き声が響き渡っていた。
「うっ……ぐすっ……アニキ、うめぇ……! こんな心に染みるうめぇ飯、俺の人生で初めてだ……!」
第1大隊長のバルトが、空になった大きなお椀を両手で大切そうに抱え込みながら、大粒の涙をぼろぼろとこぼしている。
先ほどまで提供していた『一晩寝かせた山賊豚汁とおこげ飯』の破壊力は、屈強な男たちの胃袋と涙腺を完全に崩壊させていた。
厨房のあちこちで、使い込まれた鎧を着込んだ大柄な騎士たちが鼻をすすり、肩を震わせて感動の余韻に浸っている。
「ひょ~! マスター、完全に要塞のむさくるしい連中を骨抜きにしちまったっすね! みんな泣きながらお椀の底を舐め回してるっすよ!」
俺のエプロンのポケットから顔を出した相棒のペティが、青い魔石をピカピカと点滅させながら面白そうに声を上げた。
「ペティ、お椀を舐めるのは行儀が悪いからやめさせるように言ってくれ。……バルトさん、おかわりならまだ大鍋にありますから、そんなに泣かないでくださいよ」
俺、南条悠は、布巾でカウンターに飛んだ汁を丁寧に拭きながら苦笑いした。
「ア、アニキィィ! 俺、一生かけてこの厨房の皿洗いを手伝わせてもらうぜ! 魔物討伐が終わったら、アニキの背中には一生ついていくって決めたんだ!」
バルトがガタッと立ち上がり、二メートル近い巨体を揺らして俺に向かって直立不動で敬礼をする。
周囲の兵士たちも「俺たちもっす、アニキ!」「アニキの包丁のサビになりてぇ!」と一斉に立ち上がって泣き叫び始めた。
朝からあまりにも熱苦しく、暑苦しい光景だ。
嬉しい反面、このむさくるしい集団にどう返事をしようか迷っていた、その時だった。
ギィィィ……。
大食堂へと続く重厚な木の扉が、静かに、だが確かな威圧感を伴って開かれた。
「……朝から随分と騒がしいな。騎士団の神聖な厨房が、まるで荒くれ者の集まる大衆酒場のような有様ではないか」
凛とした、しかしどこか呆れ果てたような澄んだ声。
ガシャン、チャキッ。
心地よく手入れされた装飾甲冑の音を響かせて現れたのは、第5特務遊撃小隊の小隊長、エレノア・ヴェルディだった。
朝の光を反射して絹糸のように輝く白銀の長い髪。
そしてサファイアブルーの冷ややかな瞳が、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしたバルトたちを、まるで汚物でも見るかのように見据えている。
「ひっ……! お、鬼の小隊長殿……!」
「ば、バルト本隊長! ひとまず退散しましょう! あの目はガチで斬られるやつの目っす! アニキ、また昼に来るっすからねー!」
エレノアの絶対零度の登場に、先ほどまで大泣きして「一生ついていく」と豪語していた男たちが、蜘蛛の子を散らすように慌てふためく。
彼らは空になったお椀をカウンターに乱暴に積み上げると、次々と大食堂の方へと逃げていった。
巨漢のバルトでさえ、エレノアの静かな怒気を孕んだ視線にはたじろいだようで、俺にペコペコとお辞儀をしてから足早に去っていった。
嵐のような喧騒と熱気が一気に引き、厨房には再び心地よい静寂が戻ってきた。
「……まったく。あの大男たちは、少しは王国の騎士としての矜持を持てないのか。みっともないにも程がある」
エレノアは小さくため息をつきながら、いつものカウンター席へと歩み寄ってきた。
「おはようございます、エレノアさん。彼らも悪気はないんですよ。ただ、美味しいものを食べて、少し感情が豊かになっているだけで」
俺が微笑みながら声をかけると、エレノアはサファイアブルーの瞳をスッと俺に向けた。
「おはよう、ユウ殿。お前がそうやって際限なく甘やかすから、彼らも調子に乗るのだ。……だが、あの猪突猛進なバルト本隊長をあそこまで手懐けるとは、お前の料理の腕には恐れ入るな」
エレノアの言葉には棘がなく、むしろどこか感心しているような、柔らかい響きがあった。
出会った初日の、あの全身に刃を纏っていたような警戒心は、今や見る影もない。
「手懐けるだなんて人聞きが悪いですね。俺はただ、彼らの空っぽの胃袋を温かいもので満たしただけですよ」
俺は自身のスキル『絶対鮮度アイテムボックス』を展開し、光の空間から小さな茶葉の入った木箱を取り出した。
「エレノアさんも、朝の要塞巡回お疲れ様でした。今日は少し肌寒いですし、食後の温かいお茶でもいかがですか?」
「お茶、か。……そうだな、いただこう」
エレノアは小さく頷き、カウンターの椅子に腰を下ろした。
コトン、と重厚な甲冑が鈍い音を立てる。
俺は銅製のやかんを魔導かまどの火にかけ、澄んだ湧き水を沸かし始めた。
シュンシュンシュン……。
静かな厨房に、お湯が沸き立つ心地よい音が響き始める。
「マスター、その茶葉は昨日の夜にすり鉢で調合してたやつっすね!」
「ああ。香ばしく焙煎した茶葉をベースに、リラックス効果のあるカモミールに似たハーブを少しだけブレンドしてある。豚汁の濃厚な味噌と豚の脂の匂いが充満しているから、少し空気をリフレッシュしようと思ってね」
俺は温めておいた陶器のティーポットに茶葉を入れ、沸騰してから少しだけ適温に冷ましたお湯を静かに注ぎ込んだ。
トクトクトク……。
お湯が注がれると同時に、焙煎された茶葉の深い香ばしさと、ハーブのほんのりと甘く爽やかな香りが、ふわりと真っ白な湯気となって立ち上った。
「……すごく、いい香りだな。鼻から吸い込むだけで、胸の奥のつかえが取れていくようだ」
エレノアが目を閉じ、深く息を吸い込む。
彼女のピンと張り詰めていた肩の力が、少しずつ抜けていくのがわかった。
「よし、しっかり蒸らしたな。一番美味しいところだ」
俺は茶こしを使い、淡い美しい琥珀色に色づいたお茶を、厚手の陶器のカップへと均等に注ぎ分けた。
湯気がゆらゆらと立ち上り、ハーブの清涼感ある香りが厨房の空気を優しく浄化していく。
「ほら、どうぞ。火傷しないように気をつけてくださいね」
俺はカップを、カウンター越しにエレノアの目の前へとそっと差し出した。
「ありがとう、ユウ殿」
エレノアは両手でカップを大切そうに包み込むように持ち上げた。
分厚い手袋越しでも伝わってくる温もりに、彼女はホッと息を吐く。
そして、カップの縁に桜色の唇を寄せ、ゆっくりとお茶を喉へと流し込んだ。
コクン。
「……」
エレノアは静かに目を閉じ、そのまま数秒間、微動だにしなかった。
フリーズしているわけではない。
彼女の体の中で、温かいお茶がじんわりと染み渡っていくのを、全身の力を抜いて味わっているのだ。
やがて、彼女はゆっくりと目を開き、ほうっ……と甘い吐息を漏らした。
「美味しい……。お湯の温度が絶妙だ。それに、このハーブの香りが、頭の芯の固結びを優しくほぐしてくれる……」
エレノアの白い頬が、お茶の温かさでほんのりと桜色に染まっている。
鬼の小隊長として部下の前で気を張っている時の彼女からは想像もつかないほど、無防備で、柔らかく、年相応の可愛らしい表情だった。
「喜んでもらえてよかった。バルトさんたちのように、汗をかいて熱い食事をかき込むのもいいですが、こういう静かに体を労わる時間も大切ですからね」
俺は自分用のカップを手に取り、ゆっくりと一口飲んだ。
前世のほうじ茶に似た香ばしさが、俺の心も落ち着かせてくれる。
「……ユウ殿は、すごいな」
不意に、エレノアがカップを見つめたまま、ぽつりと呟いた。
「私は今まで、騎士として剣を振るい、魔物を倒すことでしか人を救えないと思っていた。血を流し、武功を立てることだけが、私たちの存在意義だと」
彼女のサファイアブルーの瞳が、ふと俺の手元を見つめている。
数え切れないほどの包丁ダコと、油はねによる火傷の跡が残る、決して綺麗とは言えない、無骨な俺の手を。
「だが、お前は……その手一つで、たった一皿の料理と一杯のお茶で、バルト本隊長のような屈強な男たちの心まで救ってしまった。そして、私のこの頑なだった心も……」
エレノアの真っ直ぐすぎる言葉に、俺は少し照れくさくなって、頭をかいた。
「俺なんて、ただの冴えない不器用なおっさんですよ。魔物とは戦えないし、包丁を握ることしかできない、ただの料理人です」
俺はカウンターの布巾を丁寧に畳みながら、言葉を続けた。
「でも、どんなに辛い日でも、温かいご飯を食べれば今日を生きててよかったと思える。俺はそう信じているんです」
俺の言葉を聞いたエレノアは、ハッとしたようにサファイアブルーの瞳を大きく見開いた。
「どんなに辛い日でも、温かいご飯を食べれば……」
彼女は俺の言葉を、噛みしめるように口の中で反芻した。
そして、これまでにないほど深く、真っ直ぐな信頼の光を瞳に宿して、俺を見つめ返した。
「……そうだな。お前の料理には、確かにその力がある。私がお前の料理に救われたように、な」
エレノアはふわりと、氷解した春の花が咲くような、極上の笑みを浮かべた。
静かな厨房に、お茶の優しい香りと、二人の穏やかな時間が流れていく。
ずっと一人で気を張ってきた彼女が、ここでだけは見せてくれる素顔。
このオアシスのような場所を、俺はずっと守っていきたいと心から思った。
「さて、そろそろお昼の仕込みの準備を始めようか、ペティ」
「おうっすマスター! 今度は何を作るんすか!? 俺の刃先がうずうずしてるっすよ!」
ペティと軽口を叩き合いながら、俺は次の食材をアイテムボックスから取り出そうとした。
その時だった。
ペティの青い魔石が、ピクリと不自然な点滅を繰り返した。
「……ん? マスター、ちょっと待つっす」
「どうした、ペティ」
「なんか……さっきから、厨房の入り口の壁際の影から、すっげぇドロドロした視線を感じるっす……」
ペティの言葉に、俺とエレノアは同時に大食堂へと続く扉の方へと視線を向けた。
そこには、いつから立っていたのか。
扉の影に半分身を隠すようにして、じっとこちらを見つめている小柄な影があった。
ボサボサの深緑色の長い髪。
顔の半分を隠すような大きな丸メガネ。
そして、メガネの奥から覗く、酷く濃いクマの刻まれた、ダウナーで生気のない瞳。
「……脳が、糖分を求めている……」
幽鬼のような掠れた声が、静かな厨房に響き渡った。
【次回予告】
温かいお茶の余韻を打ち破り、怪しげな影が厨房に出現!?
周囲から「毒使い」と恐れられる彼女の正体とは。
次回第11話「壁際のダウナーな影」。お楽しみに!
最後までお読みいただきありがとうございました!
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