ep3. 悪戯
彼が魔法の存在を知らなかった理由は二つある。
一つは、彼が外の世界を知らなかったからだ。
一歩外へ踏み出せば、そこには剣と魔法に溢れるファンタジー世界が広がっているのだが、彼の行動範囲である家の中は、あまりに平和すぎた。
もう一つは、魔道具の存在。
厨房に侵入したこともあったのだが、そこにあったのは魔法そのものではなく、魔道具化されたコンロだった。
魔法はあるのだろうな。
漠然とそう思ってはいたものの、この世界に馴染むのに精一杯だった彼には、そこまで意識を割くリソースがなかったのだ。
だが、今は違う。
はっきりと、明白に、否定しようのない事実として、魔法は顕現した。
そして、自分にはそれを行使する力がある。
出来るとわかれば、あとは練習あるのみだ。
まずは、再現性の確認。
「エリク、今日はあなたの大好きなハンバーグよ。たくさん食べて大きくなるのよ」
家族団欒の夕食時。
「たまには俺の好物もリクエストさせてくれよ。じゃないと、俺までハンバーグ色に染まっちまうぜ」
軽口を叩くのは、エリクの六つ上の兄、フェリックス・リンドベルク。
言葉遣いが特徴的なのは、ロックに憧れているがゆえ。
あの日。
落下する花瓶を停止させた、あの感覚を思い出す。
イメージ、具現化、そして実行。
案外、あっけないほどにそれは成功した。
「止まれ」と強く念じるだけだった。
エリクが止まれと念じた瞬間、時間は停止する。
切り取られた家族アルバムの一ページのように。
あるいは、一時停止ボタンが押された動画のように。
このまま時間を戻すのは、無味乾燥だと感じた彼は、ちょっとした悪戯を試みる。
対象は、兄のフェリックスだ。
いつも優しい兄に、そんな悪戯をする理由もないはずなのだが。
フェリックスが口に運ぼうとしていたフォークから、ハンバーグの切れ端を取り外す。
そして、停止を解除した。
何も知らないフェリックスが、肉のないフォークを全力で咀嚼し、「いってぇぇぇ!」と間抜けな悲鳴を上げることになるのだが、エリクがそれを笑う余裕はなかった。
なぜならば。
魔法の行使は、等価交換。
魔力値が底をつくと、体に力が入らなくなってしまうのだ。
欲望に忠実な彼の肉体は、強制シャットダウン、つまりは睡眠を選択してしまった。
「え、エリク!?ちょっと、どうしたの?大丈夫!?」
食事に手を付けず、急に寝込んでしまった彼が、家族から心配されたのは言うまでもない。
────
彼が目を覚ましたのは、育児室のベッドの上であった。
「エリク、目を覚ましたのね……心配したわ!」
「おお……エリク!気がついたか!ははぁ……よかった、本当によかったぞ。お前が急にことりと寝ちまったときはな、父さん、心臓が止まるかと思ったんだ。ほら、お前はちょっとばかり変わった子だろう?どうだい、頭は痛くないか?体は重くないか?無理に起き上がらなくていいぞ、まだ寝ていてもいいんだ」
普段は寡黙な父が、堰を切ったように捲し立てる。
エリクは知っていた。
オラフ・リンドベルクという男の真の姿は、無自覚なまでの子煩悩であると。
もっとも、使用人たちの前では決してその本性を晒さないあたり、いかにも貴族の当主らしい。
ある意味では、この父親も普段から演じているわけである。
「まったくお前は……普段から落ち着きがない子だとは思っていたがな。もしかして夜ちゃんと眠れていないのか?いや、わかるぞ。父さんも若い頃は、剣ばっかり振っててな。皆が眠った頃に、こっそりと夜の庭で鍛錬をしたものだよ。腹は減ってないか?お前の大好きなハンバーグ、ちゃんと残してあるんだ。食べるか?いや、病人にはスープのほうがいいか?待ってろ、今すぐ作らせるから……」
「……ちょっと、オラフ。あなた、落ち着きなさいな」
イングリッドが制止する。
「そんなに一度にまくしたてたら、この子が余計に目を回してしまうでしょう?」
そう言いながら、そっとエリクの額に手を当てて、柔らいだ声で言う。
「……でも」
「気がついてくれて、本当に良かったわ」
「もしかして、魔枯れかしら……?私も、小さい頃に覚えがあるわ。でも、この子、魔法を使った様子なんてなかったし……」
魔枯れ。
別名、魔力欠乏症と言われるそれは、魔法の過剰行使による、ガス欠状態のことである。
「魔法?ハハッ!それだったら最高だけどな!どっちにしろ、魔法の才能がなくとも、剣士として立派に育て上げるつもりではあったが」
オラフが声高らかに笑う。
その笑い声こそが、今のエリクにとっては何よりの安らぎだった。




