ABT18. 煙と糸 (2)
ルピナスはサティヤの姿を認めると、顔を輝かせた。
「ルメリ!」
二人はしばらく立ったままティタン語で言葉を交わしていたが、途中でアルビオン語に切り替えた。気を遣ってくれたのだろう。サティヤは細い目を器用に瞑ってフランツにウインクした。そして椅子にどっかりと座り込むと、「いつもの」と注文した。
フランツがナッツを出している間に、ルピナスは杏露酒でカクテルを作った。
この、アプリコットと蜂蜜を使ったリキュールは、女性客に好まれる甘い酒で、『スイート・メモリー』のベースとして使われる。しかしエスメラルダは基本的に創作カクテルを出す店なので、ルピナスが今作っているのも別のカクテルだった。東洋の酒を混ぜているようだ。
「お待たせいたしました。『故郷』です」
サティヤは東洋語のカクテルの名の意味をフランツに説明してから、明るい琥珀色のアルコールをゆっくり飲んだ。
その所作のせいか、纏う雰囲気のせいか、彼女の周囲だけ時間の流れ方が違って見えた。指の間に挟まれたパイプから立ち上る甘い煙さえも、意志を持った生物のように不規則にゆったりと店内を移ろう。
東洋人は、東の隣国である帝国のほうに比較的多く住んでいる。その領土の東端がかつてアジアと呼ばれた地域に接しており、帝国がその地域の小国を侵略し併合しているためだ。民族平等をうたう帝国だが、西側の帝国民による黄色人種への差別については王国出身のフランツも耳にしたことがあった。そして王国内でも、東洋人ややその血を引く子孫に対する偏見は、帝国民のそれとあまり大差ない。
ティタンは港湾都市なだけあって、様々な人種が行き交い暮らしている。異民族に対する懐は深いのかもしれない。
「これこれ、これだねえ。まあ、あたしは生まれも育ちもティタンだから、故郷はここになんだけど。昔とは随分変わっちまったから、郷愁の念は理解できる気がするね」
サティヤは懐から小さな箱を二つ出した。
「エメラの誕生日祝い。遅くなって悪かったね。船便が遅れてたんだよ」
その箱の一方は煙草のようだった。東洋語が一面に印字されている。もう一方の一回り小さい箱は、これまた東洋語が書かれたマッチ箱だった。
彼女はパイプを口に咥えると、煙草を一本引き出してマッチで火を点けた。
「こいつはエメラの気に入りの銘柄だったのさ。この街では、死ぬことは祝うべきことだから、亡くなった人間の生誕日よりも亡くなった日のほうを祝う。けど、エメラは西のやり方が好きだったからね」
言いながら、火の点いた煙草をルピナスに手渡す。
まさか吸わせる気かと思ったが、店主は灰皿を出し、その上に火が点いたままの煙草をそっと置いた。
「エメラに縁のある方が来られたら、こうして火を点けていただくことにしています。残念ながらティスは急用でお休みでして、フリードリヒは少し前に来てしまいました」
「そうか、残念だね。あれも間の悪い男だ。お兄さん、代わりにしてやってくれるかい」
手渡された煙草に、サティヤが火を点けてくれた。
香草のような独特な香りが広がった。どこかで嗅いだことがあるような気がする。記憶の底にうっすらと細い糸のように引っ掛かっているが、手を伸ばしても掴めない。
ルピナスがフランツの父のことを知っていたのだから、エメラと父も面識があったはずだ。けれども番人を継いだばかりのフランツには、その細い糸を辿ることができなかった。先の番人たちの記憶は、突然フラッシュバックしたり、夢の中に混じってきたりする。これで活用できるようになるのかとルピナスに相談したが、彼女は慣れだから大丈夫と言った。
「吸ってもいいよ」
サティヤの声で、はっとした。
「いえ、煙草は嗜んでおりませんので」
煙草は灰皿の上に並べた。
「ま、せっかくの美形なのに肌がやられちまったら勿体ないから、やめときな。エメラはまだ若いのに肺癌になっちまったしねぇ」
「そうですね。エメラにはやめるよう何度も言ったんですが、これがない人生なんて意味がないと」
しかしルピナスは、サティヤにパイプをやめろとは言わなかった。その前にサティヤが「パイプを咥えてないあたしなんか、ただの中年女じゃない? それと同じこと」と言ったからだ。
ルピナスは灰皿の上で短くなっていく二本の煙草をじっと見つめ、「いつの日だったか、閉店後に屋上で話していたときのことです」と切り出した。
「肺癌になったら、最期は息ができなくて、すごく苦しんで亡くなるんだと聞いて、禁煙しようと言ったんです。ひどく咳き込んでいたので」
しかしエメラは笑いながら首を横に振った。
『それよりさ、ルピー。私は自分で死に方を選べるほうがいいんだよ。いくら健康志向で気をつけたって、不運に見舞われなくたって、人間、何かしらの病気になって死ぬもんだ。だったら、何で自分がって神様を呪いながら死ぬより、自業自得だ因果応報だと納得するほうがいい』
『怖くないの?』
『怖いよ。でも、最期に自分が生物として味わえる感情は、よく味わいたいよね。生まれてきた時に泣く理由は覚えてられないんだからさ。とりあえず死ぬまでにホラー映画を片っ端から観ておいて、死ぬ恐怖と比べちゃどれも下らなかったなって笑いながら死にたい。でも、あんたは吸っちゃダメだからね。酒もあんまり飲むんじゃないよ。若い時から吸って飲んですると私みたいにつるぺたになるからね』
関係ないでしょ、と怒るルピナスの頭を撫でると、エメラは街に背を向け、サビの浮いた柵にもたれかかった。朝靄のかかった、目覚める前の街。長い黒髪が海風に煽られて躍った。
『私は、あんたにここで働き続けてほしいとは思わない。店をやりたいなら別にバーじゃなくてもお酒は出せるしさ。好き勝手生きてる私には言われたくないだろうけどね。でも可愛い子にはさ、長く幸せに暮らしてもらいたいと思っちゃうんだよ。いくら気をつけたって、人間、いつ死ぬかは分からない。それは選べないから……だから、会いたい人には会えるうちに、言いたいことは言えるうちにね』




