ABT17. Not yet (3)
開店の夜十時まではまだ時間があるので、一旦帰ってシャワーを浴びて軽い食事を取り、少し仮眠してから出勤した。
裏口から店に入ると、帳簿をつけていたルピナスが席を立った。
すでにスーツをきっちりと着込んでいるが、アンテナのように立っている頭頂部の髪が揺れた。前髪はヘアピンでアップにされている。そこ以外は完璧だ。
彼女は律儀に「今年もよろしくお願いします」とお辞儀をした。
「こちらこそ……いや、師匠、年越しならうちの部屋で済ませませんでしたか?」
彼女は前髪を上げていたヘアピンのことを思い出したのか、慌てて外すと両腰に手を当てた。
「公私は別です」
「そうですね。本年もご指導のほど、よろしくお願い申し上げます」
「……その口の端に浮かんでいる笑みは何なのです?」
ありったけの冷ややかさを込めた声と目線。
「真顔でお話をするより微笑のほうが適切かもしれないと迷って時差が」
「嘘おっしゃい」
ぴしゃりという表現が相応しい返答だった。
いつもの彼女だ。
ティスに言われたような心配をする必要は、ないのでは。
とはいえ、年末に部屋に来たときの彼女は、もうすこし優しかったような気もするのだが。
「貴方、以前よりいっそう面倒な性格になりました」
「番人になると、こういう弊害があるんですね」
適当な作り笑いを向けると、彼女は三角にしていた目を泳がせた。
てっきり、「言い訳するな」とか「笑うな」と怒りだすだろうと思っていたのに。
とりあえず、乗り切れたのなら良いだろう。部屋を横切り、ロッカーに向かった。
ネクタイを締め、ベストを羽織る。
ロッカーの鏡で髪が乱れていないか確認し、整える。
店に立つのは久しぶりだ。
師匠は、いつの間にか扉の向こうに姿を消していた。
ところで、エルンストはどこに行ったのか。と思えば突然、用具箱の扉が内側から開き、「よっこらしょ」と声がした。
「なぜそんなところに」
「いやね、二人の邪魔をしちゃ悪いと思って」
「邪魔って……」
それよりも、だ。
「ティスさんに余計なことを話しましたね?」
「君たち二人の間柄について聞かれたからさ。女の勘ってやつだね」
エルンストは悪びれもせずに言い、微笑む。
「僕は応援してる」
「余計なことはしないでください」
「おや、否定しないんだね? 余計なことは、しないよ」
「肯定も否定もしていません、何もするな」
「僕が必要になったらカウンター下の赤いボタンを押すか、指を鳴らすかして。もちろん自己判断で出ていくこともあるけどね。背中は任せて」
つまり会話は筒抜けか。
「心強い限りです」
皮肉混じりに言ったつもりだったが、エルンストは嬉しそうに笑い、機械のくせに鼻歌を歌った。
「さて、仕事仕事」
カウンターの扉を開けると、薄暗い店内の青い光が漏れてくる。
波のようなゆらめきに、心が落ち着いていくのを感じた。
カウンターに立っている師匠は、背すじが真っ直ぐに伸びている。その前では、こちらも気を引き締めなければと思う。
腕がなまっていないか試されるだろうと身構えていると、彼女は「好きなレコードを選んでみますか?」と尋ねてきた。
壁際の本棚の最上段には大量のレコードが差さっている。
棚の前に立って、ざっと眺めてみるが、知らない言語の本が並ぶ書店に迷い込んだかのようだった。
なにせ自分は音楽に疎い。
小柄な人影が隣に立った。
「音楽、聴かないのですか? お部屋にはラジオがありましたが」
「あれはニュース用です」
「コンサートやライブには行かないのですか?」
「全く」
彼女は奇妙な生物を眺めるような目で見上げてくる。ライフイズミュージックとでも言い出しそうな彼女のことだ。退屈な人間だと思ったのかもしれない。
「無味乾燥な部屋に住む方でも音楽には少しくらいこだわりがあるだろうと興味を持っていたのですが、期待外れでした」
「それはまた好奇心旺盛なことですね。敢えて好きな音楽を挙げるなら、そうだな、肉の焼ける音です」
興醒めと言わんばかりの目線が突き刺さる。
「それは貴方なりの渾身のジョークですか? それとも私はなにか高度な返答スキルを要求されているのですか?」
「師匠、俺の話し方がうつっていやしませんか?」
「なっ……、そ、そんなはずはっ」
彼女が混乱状態に陥ってくれた隙に、適当な一枚に当たりをつけた。
ジャケットはシンプルで、ギターの写真のみ。裏の曲目を見ると、奏者のオリジナル曲が収められているようだ。もし情熱的なスペイン音楽なら、静かな冬の夜には相応しくないと思ったが、並ぶタイトルから考えて、その可能性は無さそうだった。
川沿いのベンチの近くで時々聞こえてくる、誰かの穏やかなギターの音楽は悪くないと思っていた。
「最近はギターもいいと思います。それと、肉のほかには雨音が好きです。雪融けの音も」
師匠は、意外そうな顔つきになった。ギターのことか、雨雪のことか。
「では今夜はそれにしましょう。オーナーが気まぐれに買ったアルバムでしょうか。初めてかけます」
彼女は盤面を傷付けないように両手でそっと円盤を挟み、蓄音機のテーブルに乗せた。
「フランツさん、針を落としてみますか?」
そういえば、この蓄音機に触れるのは初めてだ。
回転数のスイッチは少ないほうに合わせ、アームを軽く持ち上げて外側の溝に優しく乗せる。
アームを上げると台が回り出す仕組みのようだ。
そっと針を沿わせると、ブツッと音がした。少しすると、花のような形状のスピーカーから、金属缶の中から響くような、ゆったりした明るいギターの音楽が流れはじめる。
師匠はボリュームのツマミを少し捻り、「さみしい夜には音楽を」と呪文のように小さく呟いた。
その横顔は髪に隠れて見えない。
自分がいなかった頃の店内は、もっと静かだったのだろう。その頃、彼女は寂しかったのだろうか。ひとりきりの夜、どんな音楽を聴いていたのだろうか。
視線に気付いた彼女は「叔母の口癖です」と付け足した。
「そうでしたか。これ、海沿いの港町の音楽みたいで、いいですね」
「ティタンは海沿いの港町ですよ」
「ああ、そうでした」
師匠は、ふっと自然に笑った。
「貴方は、私が思っていたより……」
言いかけて、やめる。
カウンターに戻る小さな背を目で追った。
「なんです?」
「いーえ。生まれた環境が違っていれば、もう少しふわっとした雰囲気の方だったのかもしれないなって一瞬思っただけです」
「どうかな。でも褒められているのなら、ここは喜ぶべきですか?」
「大丈夫。べつに褒めていません」
蓄音機は、穏やかで平和な音楽を紡ぎ続けていた。
ABT17のBGMはSean Harkness『Aloft』より、Coming Home です。(オリジナル曲だと思うのですが調べがついていません)




