ABT17. Not yet (2)
彼女は背後のベンチを、握った手の親指を向けて差す。ちょうど老夫婦が立ち上がったところだった。
フランツは促されるままベンチに座った。
「つけられていたとは、気付きませんでした。迂闊でしたね」
「そうね、気を付けなさい」
街の穏やかな雰囲気に呑まれ、気が緩んでいたかもしれない。
彼女は紙袋からバゲットサンドを取り出した。フランツもクロワッサンを出して食べる。
「あのパン屋をお勧めしたこと、覚えてくれてたのね」
「はい。店内の雰囲気も良くて、パンも美味しいですね」
ティスは、あっという間にサンドを食べてしまうと、無骨なステンレスボトルを取り出し、勢いよく口に流し込んだ。
そして景色を眺めるふりをしつつ、水筒を手で弄んでいる。こちらから話題を振る必要はない気がした。この街に来る以前は、こういうことに勘付いていても口に出せなかった。どう伝えるかも、そもそも伝えるべきことなのかも、知らなかった。
「なにか、お話したいことがあるとお察しします」
すると、ティスは意外そうな顔を向けた。そして姿勢を崩し、ふふふと軽やかに笑った。こちらが身構えたことを感じとり、緩めようとしてくれたのかもしれない。
「うちのルピナスにプロポーズみたいなこと言ったらしいじゃない」
軽い口調だった。
しかしフランツは、ぎょっとしてティスを見た。予想外の話題だ。
「どういうことでしょう?」
「あら、死ぬ前にきみのオムレツが食べたいって言ったんでしょ?」
文脈抜きで人から聞かされると、全く違った意味に聞こえる。
「師匠に褒め言葉を要求されたので、そのくらい美味しいという意味で、お伝えしました」
ティスは無言で、じわじわと笑みを深めていく。怖い。思わず膝の上に置いた手を握りしめた。
「それはその……師匠から相談されたのですか?」
「いいえ、エルンストから聞いたの。私も、あなたが真面目な人だってことは知ってるわ。だから真面目に考えて正直にストレートに言ったのでしょ。でも、ねえ、そういうこと女の子に言うって、責任取れるの?」
獣の威嚇に近い、低いトーンのゆっくりした話し方だ。ティタン人特有の深い青の瞳が、刺すような視線を向けてくる。
「相手は十六歳の女の子よ。そう思って接して。それで、あの子はどう答えたの?」
「……俺がふつうに笑うと国が傾くと、怒られました」
「それは精一杯の答えじゃないかしら。それだけトータルで破壊力があったってことよ、あなたの言葉と笑顔は」
「師匠の受け答えは、普段と同じ軽い冗談のようだと受け止めていました」
あの時、自分は『あなたにはこの笑顔が効くんですね』と笑い返した。が、冗談に冗談を返したまでだ。
ティスは自分よりもルピナスのことをよく知っている。けれども、あの場の会話の雰囲気まではわからない。
気まずい顔をしていると、ティスは「でも本当にオムレツを褒めたかったのね」と、いくらか優しい声になる。
「ええ。あまり褒められ慣れていないでしょう、師匠は」
「そうね。そうよ。でも加減というものがあるわ。私なら、あんなこと言われたら、この人は自分に気があるのだと思うわよ。……で、あるの?」
尋問をやめるつもりはないようだ。
圧を弱めて、相手が緩んだところで本音を引き出そうという意図か。
「えっ、いえ、歳の差がありすぎます」
「仮に歳の差がなければ?」
「だとしても失恋したところです。そんなふうに考えたことは、ありません」
「……そう。あなたはまともよ、一応は」
ティスは短い髪を手で撫でつけ、ため息をついた。
「師匠はいつも強くて明るくて、知識もあって頼れて、ずっと歳上の人のように感じてしまうんです。思慮が足りませんでした」
「そうね、その点は猛省してちょうだい。でも、もしあなたが心から本当に、死ぬときそばにいてほしいって意味で言ったのだったら、私は別のことを言うつもりだったわ」
思わずティスの顔をまじまじと見つめてしまった。
言う必要がなければ、こんなことは言わない。つまり。
「それは、聞いておくほうが良いことですか?」
「ええ、あなたが心変わりした時のために」
姿勢を正した。
今日、彼女が言いたかったことは、これから聞かされる言葉に違いない。
鳥が数話、鳴きながら川面に降りていく。
ティスは、輝く川面に視線を向けた。
「……その願いは叶わない。それでも貴方が最後まであの子を愛するなら、毎日全力で、あの子を幸せにすることだけに人生を捧げなさい」
友人というよりも、母のような横顔。
師匠はなにか秘密を抱えている。自分が知らないことなど、幾らでもあるはずだ。けれども、おそらくは、知らなくてはいけない大切な何かを、自分はまだ知らないのだ。
それが何なのか問うてもいいのか。わからずに横顔を眺めていると、彼女は立ち上がって伸びをした。
「私から言えることは、ここまでよ。あなたたちのことに、口出しするつもりはない。私が知っていてあなたが知らないルピナスが居るように、あなただけしか知らないルピナスが居るんだもの」
彼女は微笑み、「じゃ、またね」と手を振って軽やかに走り去った。
ぬるくなったコーヒーを飲んだ。
溶けきれずに底に残った砂糖のような罪悪感が、わだかまっている。
嘘はついていない。
それはまあ、あの師匠は、自分がかわいいと言えば戸惑い、うっかり抱きしめると真っ赤になるのが、少し……
少し、なんだ? からかいたかったというほど子供じみた感情で、あの言葉を口にしたつもりはない。
『まだ』そんなふうに思ったことはない。
飲み込んだことにすら気付いていなかった『まだ』は、ティスには見透かされていたのかもしれない。だから彼女はわざわざ『心変わりしたときのために』と言ったのではないか。
どんな顔で彼女たちと顔を合わせるべきか、急にわからなくなってしまった。




