ABT17. Not yet (1)
一月四日、電話の呼び出しベルがけたたましく鳴り、フランツは目を覚ました。
ベッドから、ずるずると落ちかけながらサイドテーブルの上に鎮座している騒音の元凶に手を伸ばす。黒電話の受話器を取るなり耳に飛び込んできたのは、陽気にまくし立てるエルンストの声だった。
『おはよう、フランツィ! もうすぐお昼だけど起きてる? 休みボケは絶対許さないってルピーが言ってたよ』
受話器を離し、軽くため息をついた。
「起きています。でなければ受話器を取れません」
『と言いながら、いま身体を起こしてベッドの上で座ってるんだろ? 朝食はガチガチのフランスパンじゃないよね?』
「きみは母親か世話焼きな彼女ですか?」
『これは愛のモーニングコールだ』
「要りません」
エルンストは年末に師匠のルピナスとともにいきなり押しかけてきて、部屋の防犯チェックと言って居座り、持ってきたシャンパンを開けてカードで遊んで年を越した。
その翌日、つまり一昨日だが、今度は勝手に電話を持ってきて設置した。
盗聴されると困るので持って帰れと言ったのだが、彼はエスメラルダにあるものと同じく最高レベルの盗聴対策を施したモデルだからと、ゴリ押ししていった。配線を切ってやろうかと思った。思いとどまったのは、単に抗うことに疲れたからだ。
『フランツィ、友達と電話しないタイプ?』
「するタイプに見えますか?」
『じゃあ毎朝掛けてあげるよ。またね』
一方的に言うだけ言って。
ツーツーと音を漏らしている受話器をしばらくの間ぼんやりと見つめ、元の位置に戻した。
なぜ自分は、ああいう押しの強い男に絡まれやすいのだろう。剣術の先生にしても上司にしても、友人にしても。
彼らは決まって過剰な好奇心を向けてきて、頼んでもいないのに世話を焼いてくる。
脳内でサビーヌが腰に手を当てて指を差しながら『あんたは放っとけば誰にも連絡を取らないで、生きてるか死んでるか心配だからでしょ』と言った。
はいはい。放っておいてくれ。
けれども、忘れ去られたくはない。忘れ去られていないかどうかを自分から確かめるのは怖い。
そういう人間だということを、彼らには見抜かれている。
カーテンを開けると、冬の角度の低い陽光が室内に入りこみ、思わず目を細めた。
そういえば、今日は夢を見なかった。いや、覚えていないだけかもしれない。
番人を継いでからというもの、夢のなかで多種多様な世界を旅しているような感覚がある。起きると細かなことは忘れてしまっているが、感情の残滓や匂いや手触りを引きずっていることがある。
誰かの記憶なのだろうか。中には父と母のものもあるのだろうか。
あまり考えないようにしている。
他者の記憶に引きずられて自分が変容していくことには、抵抗があった。
地味なジョギング用の上下を着て外に出ると、旧市街の高台にある塔から、正午をしらせる大砲の音が聞こえた。この時報は塔が建てられた中世から何百年ものあいだ続いているのだという。
あの時報が、いつもは目覚まし代わりになっていた。バーに勤めると昼夜逆転生活を送ることになる。目覚めるころには太陽はとっくに昇りきっているのだ。
朝昼を兼ねた食事を近所のパン屋に買いにゆき、公園のベンチで食べ、本を読み、軽く運動をして帰る。家事を済ませ、日が暮れかけた頃に出勤。それが、この街に住んでからの毎日のルーティンだ。
威勢の良い声が飛び交うマーケット、呼び込みにつられて群がる市民、新市街へ向かう大通りの車の列、その合間を縫うスクーターの郵便配達人、カフェで談笑する老人たち。
最新の魔法技術がふんだんに用いられた華やかな王都とも、自然の力強さと悠久の時の流れに押し流されそうになる故郷とも、異なる眺めだ。どこか懐かしさを覚える街、それがティタンだった。
街を歩くときは顔を覚えられないよう、毎日違う通りを歩き、同じ店には極力通わない。
もし人に話しかけられても、気づかなかった振りをしたり、言葉が分からない振りをしたりする。
今日は度無しのレンズの眼鏡をかけていて、顔には肌よりも濃い色の日焼け止め兼下地を塗った。
日によっては肌に赤みを足したり、そばかすや黒子を描いたり、睫毛を抜いたり切ったりもする。
雇い主が知れば眉をひそめて止めさせようとするだろうから、化粧については出勤直前に落としている。
用心棒のティスが以前に教えてくれた老舗のパン屋のことを思い出し、少し足を伸ばした。
ファサードが赤く塗られた店は、遠くからでも目立っていた。
客が三、四人も入れば一杯になってしまうほど狭い店内は、香ばしいバターの香りで充満している。壁の造り付けの棚に所狭しとパンが並べられており、焼きたてのポップが立っているものもある。小さな音量でクラシックがかかっていた。
バゲットを切ってもらい、クロワッサンを数個とコーヒーを買った。
その足で、街の中心を流れるアルベリー川沿いに向かう。
川沿いは緑の多い自然公園だ。冬だというのに、朝からはしゃいでいる子どもたちや、ジョギングしている人々、犬を連れて立ち話をしている老人など、さまざまな人がやってくる。
川の向こうには新市街。
たまには向こうに買い物に行くこともあるが、対岸から眺めているくらいが自分には丁度いい。
住めば都。その通りだ。三カ月ほど暮らして、いまはこの街が気に入っている。新市街まで少し脚を伸ばせば最新の文化に手が届き、旧市街の古い街並みの中で自由都市が歩んできた複雑な歴史の痕跡を見出すこともできる。
パンに限らず食べものも美味しく多彩だ。他国の食品も、少し金を出せば手に入る。暮らすのに何の不自由もない。
何より、この街には自分の居場所があり、待っていてくれる人たちがいる。
空いているベンチを探し求めてしばらく歩いたが、どこも埋まっていた。
立ち止まって川を眺めていると、背後にふと気配を感じた。
振り返ると、スポーティな黒基調のジャージ姿のティスが、サングラスを頭の上に上げて、こちらに爽やかな笑みを投げかけていた。ほっとして緊張を解く。
「ティスさん。偶然ですね」
「髪形を変えても、変装しても私には貴方がわかるわ……なんてね。パン屋から出てくるところを偶然見かけて、後をつけてきたのよ」




