ABT18. 煙と糸 (4)
サティヤは一言も喋らずに階段を登り、二階の扉を開けた。店名の東洋語は『桃源郷』、すなわち楽園を意味すると、以前ルピナスが教えてくれた。
扉を開けると、ウインドチャイムが錆びのせいか鈍い音を奏でた。
一面が鮮やかなブルーグリーンに塗られた壁。いくつも垂れ下がっている薄暗い赤色の紙製ランプ。濃厚な香の香り。異国に迷い込んだかのような独特の空間だ。
受付の若い東洋人の女性が頭を下げた。サティヤは「お疲れさん」と声を掛け、受付脇の階段を登った。
年月でくすんだショッキングピンクの壁の階段は、洋風の埋め込み式の薄暗いライトで照らされていて、それが不安定に明るくなったり暗くなったりしている。清掃は行き届いているが、フランツの目から見れば、お世辞にもムードがあるとは言えない。異国の旅館という状況を楽しみたい二人連れには受けるのかもしれないが。
「あのライトですか?」
「いや、あれはいいよ」
意外にも健脚なサティヤは、するすると五階まで登ると、毒々しい赤色に塗られた扉の前で立ち止まった。反対側には目が覚めるような青色の扉がある。
その二つの部屋の間にあるペンダントライトが切れていた。
「こっちがあたしの部屋で、青いのがルピーの部屋ね」
サティヤは自室の扉を開け放ち、電気をつけた。ほんとは昼間に頼めばいいんだけどね、これで見えるかい、と聞かれたのでフランツは頷いた。夜目はきくほうだ。
換えの電球と脚立を受け取った。王国では電球を使わないが、エスメラルダで交換したことがあるので方法は分かっている。
「なにかお話が?」
宿でも働かないかと言われたら断るつもりでいたが、そういう話ではない気がしていた。
「ふうん、あんた、聞いてたよりは察しが良いじゃない」
「一体どんな朴念仁だと言われていたんでしょう」
ランプのカバーを外して、一旦床に置く。サティヤは雑巾を持ってきて、汚れを拭いた。
「あの子ね、家出娘みたいなもんでしょ。エメラが死んでから、あんな小さいのに店をやるってんで、あたしは反対したのさ。でもフリードリヒが大丈夫ってんで、仕方なくね。何かあったときのために、ここで暮らすように言ったんだ。うちなら用心棒がいるし、あたしもいるからね。娘みたいなもんよ」
「師匠はいつからここに出入りしていたんですか?」
「十になるくらいじゃないかな? あの子、寺院の元締めの長女だろ。しかも巫女になるはずだったのさ、可哀想に。エメラは好きなようにさせてあげたいと思ったんだろうね。もちろん最初はやめさせたがってたけど……飲み屋だし、子どもを働かせるのは違法なわけだし。でも、あの子が大人になるまで待てなかったからね」
初めて聞く話ばかりだ。
「エメラさんがご病気だったから、ですか?」
「そんなところだね」
番人として、ルピナスに教えておかないといけないことがあったから、急いでいたのだろうか。サティヤは番人については知らないはずだが、なにか濁すような口調が気になった。
それは、ティスが仄めかしたルピナスの秘密だろうか?
「で、あんたさ、ずっとこの街にいるのかい?」
暗闇の中では、サティヤの表情までは見えなかった。
「わかりません。帝国に行こうと思っていましたが、ここも悪くないですし」
「帝国に行くつもりがあったのかい? それなら、もしあの子を大事だと思ってるなら、一緒に連れて行ってやってくれないか」
電球を嵌め終えて、カバーをサティヤから受け取る。フランツは彼女の黒い瞳を見つめ返した。冗談を言っているわけではなさそうだった。
「なぜですか?」
「とにかく、ここにいちゃ駄目なんだよ。手遅れにならないうちに、早く。出来たら一年以内に」
「それは急ですね。お店があるし、師匠はここを離れたがらないでしょうし。理由は教えていただけないんですか?」
「あの子があんたに言ってないんなら、私からは勝手に言えない」
何者かに追われているのか。しかし帝国であれば大丈夫というのは、どういう意味なのか?
ランプカバーを元に戻し終え、脚立を降りた。廊下の壁のスイッチを入れると、花柄の透かし模様が天井に広がった。
「帝国ならどこでもいいんですか?」
「核汚染区だったところはだめ。王国から遠いほうがいい」
「もし師匠の命に関わるというのなら、無理矢理にでも連れていきますが」
「そうだよ。そうなんだ。あんたぐらいしか頼めそうにない。あんたの言う事なら聞くと思うんだ」
縋るような目だった。
元汚染区がいけない理由は分からないが、王国やティタンから離れなければ命に関わる……その理由に、一つ心当たりがあった。
「もしかして師匠は、元素吸収症なのですか」




