山猫軒
気絶は須臾の間だったと思うのが、もしかしたら百年経過したかもしれない。目を開けると私は異様な空間に一人立っていた。
上を見ても下を見ても後ろを見ても真っ黒、全ての色を飲み込む漆黒の闇が広がっている。なのに目の前には古風な西洋風の一軒家が見える。我が手を体を見る。陸上部のタンクタンクトップに短パン姿のどこにでもいるような女子高生が見えている。
おかしい! 科学オタクの私には分かる。
ものが見えるというのは光源の反射光があるからこそ。真っ暗闇の中、それ自体、発光していないはずの家や私が見えるはずがない。ここは異界、しかも、物理法則が通用しない場所、心象世界ってことかな。
そうそう、思い出した、量子力学の「エヴェレット解釈」ってヤツ。観測する都度、宇宙は枝分かれし平行世界が具現化する? なんだか意味不明だが、これを拡大解釈して嘘を並べたSFを読んだ記憶がある。
「人の意識や感情、言葉には固有の波動があって、同じ波動のものが引き合う」
きっと、私は「聞いてはならぬ音」を聞いてしまった。だけど、ここは目ではなく頭でものを見ている世界、バーチャルリアリティワールドなのだろう。ならば何かしらのトリガーによって私は目覚めるはず、はず、なんだけど。
戻ろうとする私だけれど、どうやっても後ろへは進めない、右も左もダメ、あの怪しげな建物に入るしか道はないようだ。
しかたなく西洋館に近づくと何やら看板が出ている。
「西洋料理店・山猫軒」
これって!! 但し書きまで、
「どなたもどうかお入りください。決してご遠慮はありません」
妙な日本語も原作まんまじゃない? どうやら私は賢治ワールドに来てしまったらしい。マジで化け猫に食べられるヤツ? いやいや、これは幻影、バーチャル世界だよね? 死んでもセーブポイントに戻るだけじゃん、そう……、だよね?
扉を押して中へ入る。廊下があって硝子戸がある。ご丁寧に金文字で、
「ことに肥ったお方や若いお方は、大歓迎いたします」
いやー、私、陸上やってるからさ、長距離の選手だからさ、ガリガリよ? 脂身ないし肉厚でもないからさ。間もなく来る誕生日で十八歳、昔標準なら大人で決して若くもないから。
次の扉、鏡が掛かっていてブラシも置いてある。冗談じゃない! 次の扉へ。
って、アレ? この物語、最後まで行ったら食べられちゃうストーリーなわけで、なぜに私は前へ進んでいる? コレ、もしかして、ストリーの強制力ってヤツ?
不信感を持ちつつも私は次々扉を開けて行く。そして、あの壺のある部屋へ、
「壺の中のクリームを顔や手足にすっかり塗ってください」
ダメだと分かっているのに私はタンクトップを脱いだ。なんとかかんとか、なけなしの克己心によりブラは死守した。だけどクリームには思わず手が伸びる。
ヤダ、ヤダ、こんな気持ち悪いの塗りたくない!
なんとか我慢して妙な香水も回避できたけど、前に進むのだけは止められない。ついにボス部屋へ、
鍵穴から青い眼玉がこちらを覗いている。舌舐めずりする化け猫の生臭い息が届いてきそうだ。
命の危機にあるはずの私、だけど、さっきのトイレの慌てぶりから一転して、なんだか冷静でいられる。なぜなら、この異界はどこかコミカルだから。謂れ無き確信が私の中に芽生えてきた、間違いない、きっと助けが来る。
ワン、ワン、ワン!!! グワン!!!!
ほら来た、白熊犬さん!




