29.喪失の悲しみが深すぎて
エドガーの名を出したとたん、公爵夫妻の顔色が変わった。
「ああ……君まで、彼を勧めてくるのか」
「お願いよ、その名前をこれ以上聞かせないで」
どことなくうんざりしたような、ひどくこわばった表情で二人は顔をそむける。思いもかけない様子に驚きながら、問いかけた。
「あ、あの、どうしてですか? エドガーさんはとても立派な方だと、その、ジャスミンの日記にはそう書かれていて……きっと彼女は、彼のことをとても信頼していたんだろうなって……」
オイジュスの人間のことなど何も知らない私が突然エドガーの名を出したら、さすがに不自然だ。だから私は、ジャスミンの日記で彼のことを知ったということにしたのだ。
この言い訳は、ジャスミン本人が考えてくれた。何なら実物を読んでもいいわよ、と言ってくれたのだけれど、さすがにそれは遠慮した。
戸惑う私に、公爵夫妻は口々に言い立てる。不満と怒りと悲しみと、そんなものがないまぜになった口調で。
「ジャスミンがいなくなったとたん、親戚たちはこぞって彼を勧めてきたんだ。私たちには、悲しむ時間すらろくに与えられなかった」
「それに、ローズを探すのを止めろとも言われたわ……きっと親戚たちは、彼と手を組んでこの家を乗っ取るつもりなのよ」
さっきまでの和やかな雰囲気が嘘のように、二人はかたくなになってしまっている。私からのお願いでも、聞いてくれそうにはなかった。むしろここでしつこくすると、さらにこじれてしまうように思える。
「ああ、えっと、今の話は忘れてください。本当にただちょっと、気になっただけですから」
そうやってごまかして、適当な別の話題に切り替える。二人はまた一転して笑みを浮かべ、とても楽しそうに私の話を聞いていた。
そのあまりの表情の変わりっぷりに、心の中で不安がふくれあがっていくのを感じながら。
「お疲れ、ユリ。こっそり聞いていたけれど、あれはかなりの難物だね」
公爵夫妻の部屋を出てすぐに、苦笑を浮かべたシオンお父様に出迎えられた。二人一緒に、みんなが待つ客間に向かう。
「……はい。やはりあの二人は、普通の状態ではありません。心の均衡が崩れてしまった、そんな印象を受けます」
みんなであれこれ考えて、しっかり準備して話し合いに臨んだ。でもその準備は、まるで役に立たなかった。そのことに落胆しながら、小声でつぶやく。
「でもどうして、あの二人はあんな風になってしまったのでしょう。ジャスミンが亡くなるまではきちんと領地を治めていたみたいですし、無能でも、おかしな人物でもなかったはずなのに」
「ユリ、口が過ぎるよ。それではまるで、今のあの二人が……っと、私も口をすべらせてしまったね」
そう言って、お父様はくすくすと笑う。さっきまで公爵夫妻と居心地の悪い会話をしていた直後ということもあってか、お父様の柔らかな笑い声を聞いているとひどく落ち着くように思えた。
「でもね、あの二人の気持ちも分かるよ。私も、もし君を失ってしまったら……もう、まともに暮らしていくことなんてできなくなってしまうから。きっとあの二人は、ジャスミンを失った悲しみが強すぎたのだろうね」
「大げさです、お父様」
「大げさなものか。本心だよ。君は、もし私がいなくなったら、悲しんでくれるかい?」
「お父様が、いなくなる……」
「想像もしていなかった、っていう顔だね」
私たち天人は、若い姿のまま百年、二百年と生き続ける。そして死期を悟った者は、里を離れて奥の山にこもる。
残された者たちは年に一度、奥の山に行ってしまった仲間たちをとむらう祭りを、里でしめやかに執り行うのだ。
私も、毎年その祭りには出ていた。いつも、お父様と一緒に。
でも、お父様が奥の山に行ってしまったら。そうしたら私は、一人で祭りに向かうのだ。
そんな想像をしたとたん、息が苦しくなった。手が震えて、足から力が抜けそうになる。驚いたことに、涙までにじんできた。
「ああ、怖がらせたね、ごめん」
そう言ってお父様は、私をぎゅっと抱きしめた。よその屋敷の廊下にはふさわしくないそんなふるまいが、今の私にはとてもありがたかった。
「……お父様がいなくなったら、悲しいです。きっと私、毎日泣き暮らします」
「そうだね。そんなことにならないよう、私は頑張って長生きするよ」
「きっとですよ? あんまり早く奥の山に行ってしまったら、私、追いかけていきますから」
「それは駄目だよ。里の決まりだからね」
「決まりでもなんでも、知りません。私は、最後の最後まで、ずっとお父様と一緒です」
「まったく、頑固な子だねえ。少し、育て方を間違ってしまったかな?」
そう言いながらも、お父様は私の背中を優しくさすっていてくれた。その温もりに、ようやく涙が止まるのを感じていた。
それから二人で客間に戻り、改めてみんなで話し合った。やはりオイジュス公爵家の跡継ぎには、そのエドガーとかいう青年が一番適しているように思える。けれど、公爵夫妻は彼を認める気はないらしい。
『少々強引にでも、認めさせてしまえればいいのだけれど……エドガーお兄様は、本当に立派な方だから。有能で謙虚で、人に好かれる方だし。お兄様になら、安心してこの家を任せられるのだけれど』
可愛らしく頬に手を当ててため息をつくジャスミンに、ハーヴェイがうなずきかけている。
「そうだな、ジャスミンさん。俺もそう思う。だが、彼がどう思っているか分からないからな……ここは、一度彼に会って話をしたほうがいいのではないだろうか。手紙では事情がうまく伝わるか、怪しいからな」
確かに彼の言う通りだろうと、みんなの意見は一致した。なのでハーヴェイと、それにステファニーとダミアンさんはいったんここを離れ、エドガーが暮らすという屋敷を訪ねていくことになった。
「どうにか彼を説得して、ここまで連れてくる。一度、ユリさんに会ってもらうべきだと、俺はそう思う。……あるいは、ジャスミンさんにも」
「私とステファニーはユリさんの縁者ということになっていますし、彼女の人となりをエドガー殿に伝えるには私たちが適任でしょう」
「ハーヴェイ様の話が脱線してしまわれないように、わたくしも付き添いますわ」
公爵夫妻に頼んで目立たない馬車を貸してもらい、そこに三人分の旅の荷物を積み込む。
その様を見守っていた三人に、お父様が険しい顔でささやきかける。
「おそらく、狙われているのはユリだけだし、離れていれば君たちは安全だろう。だが相手の素性が分からない以上、気を抜かないでくれ」
「ええ、シオン。あなたにもらった護符は、肌身離さずに持ち歩きますよ。私とステファニーとハーヴェイ殿の三人は、できるだけ近くにいるように心がけます」
「ユリも気をつけてね。……シオン様がおられるから、大丈夫だとは思うけれど、万が一ということもありますから」
「できるだけ早く、君とシオン殿にいい知らせを持ち帰れるよう努力する。エドガーとの話し合いは、俺に任せてくれ」
ダミアンさんたちはそんなことを口々に言いながら、馬車に乗って旅立っていった。
できることなら、私も彼女たちについていきたかった。でも、そうすることでステファニーたちを危険にさらしてしまうかもしれない。
私たちの推測が当たっていれば、何者かに狙われているのは私だけだ。そしてお父様は、私一人だけならきっちりと守れる。
それに私にも、なすべきことはあった。ここに留まり、公爵夫妻がこれ以上不安定にならないよう気をつけることだ。
これから私たちは、オイジュス公爵家を安定させるために、どうにかしてエドガーをこの家の跡取りとして認めさせなくてはいけない。
そうしないと、おちおちここを離れることもできない。成人の儀を終えて天人の里に戻ってから、ステファニーたちは無事だろうか、人間の世界はまだ物騒なのだろうかと、そんな風に気をもみたくはないのだ。
けれどきっと、それはかなり面倒な、骨の折れる仕事になりそうだった。だからせめて、それまで公爵夫妻を刺激しないように、心穏やかに過ごしてもらおう。それが、私たちの出した結論だった。
そうして私とお父様、それにジャスミンは、ただじっとステファニーたちの帰りを屋敷で待つことになった。
「……どうしてこんなことになっちゃったのかなあ」
私にあてがわれたローズの部屋で、寝台に腰かけてため息をつく。すぐそばの空中に浮かんでいるジャスミンも、小さくため息をついた。
『そうね。お父様もお母様もとっても過保護だったし、私のことをそれはもう可愛がっていたのだけれど……ここまでとは、思わなかったわ』
「ジャスミンはとても愛されてたのね。……今のあの二人を見ていると、分かる気もするけれど」
『確かにそうだけれど……ちょっと、息苦しくもあったわ。いつか婿を取って、この家を継いで……それが私に決められた、唯一の未来だった。自由になりたいなって、そう思うこともあったの』
「自由に、か……私のお父様もかなり過保護だけど、自由になりたいと思ったことはないわ」
そう答えながら、ちらりと視線をそらす。ゆったりと椅子に座って、借りてきた本を読みながら私たちを見守っているお父様の姿が目に入った。お父様は何も言わず、にっこりと笑いかけてくる。
「私は天人のしきたりにのっとって、人間の世界を旅しているところなの。一人前の天人になるためにね。普通は、一人で旅をするんだけど……お父様は、私のことが心配だって言ってついてきちゃった」
『あなたも愛されてるのね、ユリ。素敵なお父様ね』
「……うん。色々と思うことはあるけれど、それでもやっぱり、お父様がいてくれて良かったって思ってる」
『それは、シオン様があなたを守ってくれるから?』
「それもあるけれど、何ていうのかな……お父様は、私の心の支えになってくれてるの。私にとってお父様は……世界の全て、みたいなものかも」
本人がそこにいる状況でこんなことを言うのはちょっぴり恥ずかしいけれど、それでもそう主張せずにはいられなかった。
たぶん、先日のやり取りのせいだろう。お父様がいない世界を想像してしまった、あの時の衝撃はまだ私の心に残っていた。
私の言葉に、ジャスミンは顔を輝かせている。まあ素敵、などと言いながら。そしてお父様は、とても満足げな顔で微笑んでいる。気のせいか、いつになくあでやかだ。
思わずどきりとした時、お父様がふと扉のほうを見た。それから無言で、ジャスミンに置物に戻るよう合図している。どうやら、公爵夫妻が来たらしい。
ジャスミンが置物にするりと滑り込んだのと同時に、扉がこんこんと叩かれた。どうぞ、と声をかけると、公爵夫妻がそろって顔を出してきた。
「ユリさん、ここにいたのか。突然押しかけて済まない、だがどうしても君に用があったのだ」
「お友達が出かけてしまってから、一日ずっと引きこもっているようだけれど……どこか悪いの? 大丈夫?」
顔を合わせるなり、二人は心配そうな顔で私に詰め寄ってくる。この場にいるお父様のことなど、目に入っていないようだった。
そんな二人に、ひとまずあいまいに笑って大丈夫だと答える。すると二人は、ほっとした様子でにっこりと笑った。
「それなら良かった。ところで、君に紹介したい人物がいるのだよ」
「あなたの話をしたら、ぜひ会いたいって大急ぎでかけつけてくれたのよ」
そうして二人は、扉のほうに向き直る。彼らの背後から、その人物がゆらりと姿を現した。




