23.もう少しだけ、ここにいさせて
「お父様、さっきの声を聞きましたか」
「ああ。最後のほうだけだけど聞こえたよ。間違いなく幽霊の声だね。やはり、ジャスミンの声だったかな?」
こくりとうなずくと、シオンお父様はゆっくりと進み出て、銀の小鳥の置物をじっと見つめた。
「……なるほど、ここに宿っているね。けれど、もうかなり弱ってしまっている。君が近くにいたから、どうにか声を出すことができたんだろう。このままだと、もうじき天に召されるかな」
お父様も、私と同じ結論にたどり着いたらしい。そうして、深々とため息をついている。
「ジャスミンと君。他人の空似だと、そう思いたかったんだけどね。あんな不愉快な人間が君の実の両親だなんて、認めたくなかった」
うつむくお父様の顔に、長い黒髪がさらりと垂れ下がる。その髪の向こうで、青紫の目がぎらりと鋭く光った。乱暴に髪をかき上げたその下からは、苦しげにゆがんだ顔がちらりと見えていた。
いつものお父様とはまるで違う様子に戸惑って、その場に立ちすくむ。怖かったのではない。ただ、お父様がこんな風に激しい感情をむき出しにするのを、今まで一度だって見たことはなかったのだ。
先ほど、オイジュス公爵夫妻と話していた時のお父様の声を思い出す。
お父様は声を荒らげてはいたし、抑えようのない怒りがにじみ出てはいた。けれど、今お父様が見せた表情は、怒りと苦しみと悲しみとがないまぜになった、とても胸を打つものだったのだ。
「……ああ、怖がらせたかな。済まないね」
私のそんな様子に気づいたのか、お父様が肩の力を抜いてこちらに向き直った。見慣れた、優しい笑みを浮かべて。
いつの間にか、息を止めてしまっていたことに気づく。ゆっくりと息を吐いて、肩に入ってしまっていた力を抜いた。
「……お父様がそこまではっきりと怒りをあらわにするところを、初めて見たかもしれません」
「そうだったかな?」
「そうですよ。お父様はお説教の時だって、静かで優しくて。……だから今日は、驚いてばかりです」
「仕方ないだろう。何よりも大切な君のことだから。さすがの私も、怒らずにはいられないよ」
そう言って、お父様はそっと私の肩を抱き寄せた。子供の頃よくそうしていたように、ぎゅっと抱きしめられる。
「可愛いユリ。君を捨てるなんて、あの人たちはとんでもない間違いを犯したね。でもそのおかげで、私は君と一緒にいられる」
優しい優しい声が、頭のすぐ上から降ってくる。
「ユリ、これで謎の声の正体ははっきりした。意外と簡単だったね。ここから君は、どうしたい? もうここにいる理由もなくなったとは思うけれど」
「……自分でも、まだ気持ちの整理がついていないんです」
「だったら、素直な思いをそのまま口に出してごらん。これは君の旅だ。どこに行くのも何をするのも、君が決めていい」
今日はあまりにも、一度に色んなことがあった。自分の出自を知って、本当の両親だとかいう人たちに会って、双子の姉の幽霊と話して。
そんなこんなで混乱していて、忘れていた。私は今、成人の儀の途中、旅の途中なのだ。
旅を穏便に済ませることを優先させるなら、さっさとここを立ち去ってしまうべきだろう。ここで聞いたことは忘れて、今までと同じように生きていく。
そうしたほうがいいのだと、分かってはいた。
「……公爵夫妻とは、できるだけ関わりたくありません。でももう少しだけ、ジャスミンと話したくて……。今ここを離れたら、もう二度と彼女には会えません。そうなってしまったら、後悔するような気がするんです」
そう答えると、お父様の腕に力がこもった。穏やかに力強く、お父様が言い切る。
「分かった。だったら私が力になろう。他ならぬ、君のためだからね」
目を閉じて、お父様の胸にもたれかかる。混乱も不安も戸惑いも、こうしていると消え去ってしまうように思えた。
そうして、私はさらにオイジュス公爵家に滞在することを決めた。お父様はジャスミンを目覚めさせるのに必要な薬を作るとかで、ずっと客間にこもっている。
ステファニー、ダミアンさん、ハーヴェイも一緒に残ってくれた。
できる限り公爵夫妻とは距離を保ちたい私にとっては、三人の存在がとてもありがたかった。たった一人であの二人を相手にするのは、かなり骨が折れそうだったから。
「それにしても、本当に幽霊っているのですね。驚きましたわ」
ステファニーが目を輝かせて言う。今、私はステファニーとハーヴェイと一緒に、公爵家の屋敷の庭を散歩していた。
私にあてがわれたローズの部屋にいると公爵夫妻が押しかけてくるし、かといってステファニーたちが使っている客間にいても、やはり夫妻は押しかけてきた。
とにかく二人は、私と話がしたくてたまらないらしい。
その気持ちは分からなくもないけれど、やはり私は二人のことを受け入れることができなかった。ジャスミンともっと話せれば、この気持ちも変わるのかもしれないけれど。
そんな訳で、私は夫妻から逃げ回るために、ステファニーとハーヴェイを連れて毎日屋敷のあちこちをさまよっているのだった。
この屋敷はとても広いので、意外と逃げ場所はたくさんあった。ちなみにダミアンさんは、お父様の作業を手伝っている。
「幽霊の声、そして幽霊を目覚めさせる薬か……ユリさんと出会ってから、俺は知らない世界を次々と見ることになった。正直戸惑ってはいるが、こういうのも……悪くないと思う」
どことなく開き直ったような顔で、ハーヴェイが言う。
大舞踏会でお父様にやり込められてから少々おとなしかった彼だったが、最近ではもうすっかり元気を取り戻しつつあった。どうも、あれから色々彼なりに考えたらしい。
君のことはあきらめる、でもその代わり、君と友人になりたい。彼はすっきりとした顔で、そう言ってきたのだ。
私たちの正体を聞いた時、彼は明らかにうろたえ、ほんの少しおびえていた。
けれど友人になりたいというその申し出は、そんな様子をもうみじんも感じさせない、堂々としたものだった。彼は案外、肝がすわっているのかもしれない。
もちろん私にとってはとてもありがたい申し出だったので、即座に受け入れた。
「わたくしも、秘密を共有できる方ができて嬉しいですわ。ウラノスの家の中でも、天人について知っているのはわたくしとおとうさま、あとおかあさまだけですから」
ステファニーが、とても可愛らしく笑う。私の気のせいかもしれないけれど、彼女はハーヴェイのことを意識しているようにも思える。
彼女が彼に向ける表情は、私やダミアンさんなんかに向ける表情よりももう少し柔らかいもののように感じられるのだ。
親しげに話し込んでいるハーヴェイとステファニーを無言で見守りながら、こっそりと微笑む。
いきなり急接近されたことに驚いてつっぱねてしまったとはいえ、ハーヴェイも決して悪い人物ではないし、見た目も立派なものだ。お父様には負けるけど。
少々押しが強くはあるが明るくさっぱりしたハーヴェイと、おっとりしつつもしっかりもののステファニーは、結構お似合いだと思う。
そんなことを思ってわくわくしながら、半歩下がって二人の背中を見つめる。
「今日もいい天気ですね。それにこのお庭の見事なことと言ったら」
「さすがは公爵家、といったところだろうな」
と、視界の端で何かが光ったような気がした。斜め前の植え込みのほうだったと思う。
あれは何だろう。立ち止まって、そちらを見る。前を行く二人も、私の動きに気づいたようだった。ステファニーがハーヴェイのそばを離れて、私の隣に立った。
「どうしたの、ユリ?」
「あそこで、何か光ったような気がして……」
「あの、植え込みのところ? 特に何も変わったものは見えませんわ」
「ちょっと近づいてみる?」
そんなことを話しながら二人で植え込みを見ていたら、いきなりハーヴェイが叫んだ。
「危ない!!」
切羽詰まった声に振り返ると、すぐ近くにハーヴェイの体が見えた。何なの、と尋ねるよりも先に、そのまま押し倒される。
とっさに受け身を取ることはできたけれど、それでもひじや肩を石畳に打ちつけてしまった。
「いたた……どうしたのですか、ハーヴェイ様」
じりじりと彼の体の下からはい出し、身を起こす。うつぶせに倒れている彼を見たとたん、ぞわりと寒気が背筋を走り抜けた。
小声でうめくハーヴェイの背には、細い矢のようなものが深々と突き立っていたのだ。その矢は、昼の日差しを受けてやけにぎらぎらときらめいていた。




