第五十七話 囚人と怪異と(1)
まとわりつくように行く手を阻む腰まである水に舌を打ちながら、全力と言っていいほどの速度を出しつづけている。その様はまるで何かから逃げているようにも見えた。
手元にある明かりではすべてを見通すことがかなわない闇の中である。しかもその光は徐々にではあるが光を失い続けていた。二重となる負担を抱えての全力は速度を出し続ける者の体力をあざ笑うかのように奪い続けた。
体力はつきかけているが、尽きてしまってはどうしようもない。そこで幾ばくかの休憩を求めるために脇の壁に寄りかかる。激しい息遣いをしながらも、周囲の様子を探るのは常日頃からの賜物だろうか。後方から聞こえてくる水をかき分ける音がさきほどよりも遠のいているようにも聞こえた。
顎を突き出すかのように上方に向けた顔には玉のような汗が浮かんでいる。無理やりにでも息を整えようとしたのか、いくらか咳込む。
進行方向とは逆に視線を向けながら鋭い舌打ちをする。壁に手を突き反動をつけ壁から離れ、再び移動を開始した。
そこから五十メータル程であろうか移動した時、足でも取られたのか、それとももつれでもしたのか、それは水面に倒れ込んだ。しかしすぐに起き上がる体力すらすでにないのか、多少もがき何とか裏返るがそれ以上の行動を取らなくなってしまった。
「あ~、ちくしょう。気持ちいいぜ……」
諦観か、絶望か、あるいは罠か。それはそうつぶやき水面に浮かび続ける。
徐々に光を失い続けていた玉も、もうそれとともに力尽きようとしていた。一瞬それまでよりは多少周囲を明るくしたのちに完全に闇の中に没する。
浮かび続けているそれに徐々に近づいてくる水音。しかし、それは水音に違和感を覚える。自分の進行方向からとその逆の両方からその音が聞こえたように思えたのだ。
最後の気力を振り絞るかのように、何とか水中で体勢を整え、壁に近づくそれ。
壁に寄りかかりながら体力回復を図るのか、隠れるのか、水中から頭だけをだしあたりの様子を伺い始めた。
しばらくそのままの体勢でいると進行方向が仄かに明るくなり始めると同時に複数と思われる水音が大きくなってきた。
「まだまだ捨てたもんじゃないな」
そうボソリと呟き、上着を脱ぎ始めたのであった。
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「なんでこの階層は水浸しなんでしょうか」
独り言のつもりだったのであろうか。その声は意外と大きかったらしい。もう一人がそれに反応する。
「ふむ、それこそ神のみぞ知るということではないかな」
苦笑いを浮かべながら、小柄な相方にそう告げる。
「あ……いや、そうですよね」
自分の言葉が相手に伝わっているとは思っていなかったのか、いささか焦り気味にそう答えた。耳が赤くなっていることから恥ずかしかったのであろうか、全く別のことを口にする。
「ディックさん、いませんねぇ。この階にいると思うんですが……」
面白いものを見たとでも言いたげに笑みを浮かべながら、その話に乗る大柄の男。
そう、この二人はザグンとロイであった。
「ふむ、同じ階層にいたとしてもなかなか合流できるものではないからな。すれ違いになっていないことを祈るしかなかろう」
ザグンがそう答えると、確かにとでもいう風に首肯するロイ。
「この階層以降も水浸しとなると、攻略が相当億劫になりますね」
「ふむ、そうだな。もしそうだとしたら武器や防具の整備に金が相当かかるだろうな」
ロイは体力的な意味合いで述べたつもりだったが、偉丈夫といえるほどたくましいザグンはそうとは取らず、多少の意見の行き違いが起きる。
「あ~、そちらもそうかもしれませんね」
「そちら?」
「いや、僕が言いたかったのは体力的なことでして……」
ザグンは首を一瞬傾げ、その顔に理解の光が灯る。
「ふむ、ロイとしては大変かもしれんなぁ」
その意見を聞いたロイは一瞬足元に視線を向け何かをぼそぼそとつぶやくが、今度は水音にかき消されザグンの耳には届かなかった。
その後、気を持ち直したのか前を向き、口を開く。
「まぁ、修理費がかさむのも頭が痛いですよね」
「うむ、こうも水に浸かると錆びが気になるしな。手入れは入念にしておきたいところだが。ルタボクとバニゼゲのことだ、また望外に吹っかけてくるかもしれん」
苦虫を噛み潰したかのような表情を浮かべながらザグンは言葉を続ける。
「今回の行程は予定外の事が起こりすぎている。糧食もこのようなことがあるならもう少し大目に持ってくる必要もあろう」
「たしかに。今ある手元の食糧も心許無いにもほどがありますしね。次からは大目にしたほうが無難でしょう」
「うむ、パーティ用の資金の貯金量を増やした方がいいかもしれんな。特にラグスと私は今後の防具の事も考えればな」
「あ~、そうですね。ディックさんも弓を本格的に使うなら弦が水に浸かるのは厳しいですしね」
何気ない話の中に今はいないパーティメンバーの名前をお互いに出してしまったことで二人の中で空気が凍ったのか、言葉が続かなくなってしまった。
数瞬の間があり、ロイが口を開く。
「ラグスさんもディックさんも大丈夫なんでしょうか」
ザグンは口を噤み、厳しい視線を前方に向けている。ロイは反応を返してこないザグンを見上げるが、その表情になにかまずいことでもおもったのか。
「あ、すみません」
「そうではない。前方を観ろ」
ザグンは進行方向を顎でしゃくりながらそう言った。それに合わせて視線を前方に向けると。
「あ!」
視線の先には仄暗い笑みを湛えたラグスとザイードがいた。
ロイの声に合わせたのか、ザグンがわずかに腰を落とし、両の手にもった武器を握り直す。
「おやおや、別の獲物と会うとは奇遇だなぁ」
その言葉を聞いて眉を跳ね上げるロイ。しかし、反応を返したのはザグンであった。
「貴様!」
「お~こわっ、多少の袖もふれ合った仲じゃねぇか。そこまで目くじらを立てなくてもいいだろ」
まるで面白いものを見たかのようにクスクスと嗤うザイード。触れ合ったのは袖ではなく互いの武器であったがそんなことに寸毫も気にしていないのか言を紡ぐ。
「まぁ、言葉を尽くしても仕方がない縁でもあるわな。おい、あいつやっちまえよ」
ザイードの隣にいるラグスにそう言葉を掛けると、ラグスは抜剣をしながら一歩前に出る。それを見たロイが一歩下がると同時にザグンが一歩前に出た。
彼奴我の距離は十メータルほどである。この距離であればロイの魔法が一方的に火を噴いてもおかしくはない。果たしてロイの体が数回淡く光る。
ザイードが慌てたように後ろに飛びのいた瞬間、ザイードが立っていた位置に「土の槍」が伸びあがった。
「あぶねぇあぶねぇ」
そういってにやけ顔に戻り観戦に徹するつもりなのか、腕を組み仁王立ちするザイード。それを見たロイが苦りきった表情を浮かべた。
ロイがザイードに魔法攻撃を行っている間、ラグスとザグンは互いに歩を進め、その距離を縮める。それは互いの攻撃範囲にギリギリ届かない位置まで続いた。
「ラグス、目は覚めんのか」
ザグンのその言葉の返答は、一歩踏み込んでの斬撃であった。




