第四十五話 囚人と石の心
その囚人は暗闇の中でさまよっていた。
集光機能がない頼りない目をあきらめ、足元の水のせいで雑音混じりでこれまた頼りない耳に頼るしかない状況で必死にもがいている。
こうもりや蛇は暗闇でも正確に獲物をねらえるらしいという知識を思い出し、それが少しうらやましくあった。自分に今もっとも必要なものだからである。だからといってこうもりになりたいだとか蛇になりたいだとかという変身願望はもっていないが。
視界が利かないということは、それだけで不安が掻き立てられる。その不安によって雑念が想起され不必要なことまで考えてしまう。
その自分の状態を危険だと認識もして、探索に集中しようとするがどうしてもそうなってしまう。
こんな状況に一人でいるということも手伝って集中力が削がれていくのだ。それがまた不安を掻き立てる。
恐怖を感じているといってもいい。地上にいたときにはここまでの精神状態になったことはない。常に冷静であれと思っていたし、今もそれを実践しようとしているがうまくいかないことも負の精神状態を加速かせていく。
その囚人は立ち止まってうつむき、大きく深呼吸する。それを複数回繰り返し精神を正常に戻そうとしていた。不安や恐怖の効能をよく知っている。
幼い頃、教会で文字を習ったこと以外学ぶ機会などなかった。しかしさまざまなことをその身で経験し身に着けてきた。そしてその経験によって失敗もあったがそれを超えるほど何度も命を助けれらてきた。だからこそ彼の中での信頼性は高い。
親指と人差し指で何度も鼻を扱き、集中力を高めていく。視覚が利かないならそれ以外の感覚を駆使するしかない。そうであるからこそ研ぎ澄まされた集中が必要であったからだ。
多少の波風はたっているもののそれでも平時の精神状態にもどすことが出来たらしく、軽く息を吐いて前方に顔を向け、壁に手を当て進み始める。
しばらく前方に進んでいると左手にあった壁の感触が消失した。
右手にもつ剣を強く握りしめる。立ち止まったことで壁の消失した方向から水音が聞こえた気がしたのだ。これまで何度も敵の攻撃をしのいできたことから今回もいけると気を強く保つ。
水音が近づいてくる。なにかが近づいてくるのを確信した彼は腰を軽く落としできるだけ音を立てないように息をひそめる。
相手が自分と同等の条件とは限らない。そうならばできるだけ自身に有利な状況を作りださなければならない。そのための行動であった。彼はこれまでそうしてきたし、そう行動することでこれまで生きてきたのだ。
幾度も繰り返すことで染みついたその一連の行動は、芸術的ともいえるほど洗練されたものであった。実際、水音をさせている相手は彼の存在に気がついてない。奇襲は成功しそうだ。そう確信をし、ほくそ笑んだ瞬間、水音がしなくなった。
心臓が跳ねあがった気がした。奇襲がばれたのか、それともそれ以外のなにかなのか疑心暗鬼になっていく。目をきつくつむり、耳に集中する。するとしばらくしてまた水音がし始めた。音を聞く限りではあと三歩ほど進めば剣の間合いに入る。
その瞬間に襲い掛かろう、そう決心してその時を待つ。後二歩。後一歩。
そして剣の間合いに入った瞬間、体に突き立つ感覚を覚えた。
自分の体に突き立ったそれに彼は驚愕の表情で視線を向ける。自分の体に突き立った剣を幻視する。そこから発生する激痛に苦鳴が上がる。相手が近づいてきた。突き立ったものが引き抜かれる感覚に自分の命も吸い取られるような気がした。体から力が抜けていく。そのせいか体が崩れ落ちる。とどめとばかりに再度体に何かが突き立てられる。彼はそのまま意識を失った。
短い溜息を吐いてディックはその襲撃者に突き刺したサクスを引き抜いた。
やるかやられるか。そんな地上にいた時の灼熱感にも似た感覚に余韻を感じている自分に安堵する。やっぱり変わっていない。自分は変わっていない。そんなことに安堵したのだ。
ディックにとって戦闘とは基本的に対人戦であった。それは夜の街をフクロウのように監視しムササビのように徘徊していた。だからこそ奇襲や襲撃などあって当然であったし、それに対応し逆撃を加えてきたからこそ今がある。
そういう意味ではこの潜んでいた者は不運としかいいようがないとディックは考えていた。隠れ方としてはよかったとは思うが、対人戦闘を考えれば不十分としかいえなかった。
ディックは襲撃者が立ち止まる前からその存在に気がついていた。なぜなら自分の立てている音とは違う音があったからである。その時点で勝負はついていた。
ディックは弓を構え、普段歩行する時と同じようにあえて音を立てながら近づき、水が起こす波を感じながら位置を特定し、矢を放ったである。
優越感や安堵感などから口元が自然に緩む。自分は変わっていないし、知識も経験も衰えていない。そう思いディックは、落ちたであろうものを回収する。
迷宮内で初の対人戦闘である。しかし、それはディックの圧倒的な勝利であった。
相手が囚人であったこともあり収穫は多大である。剣、肩当て、そして大袋の中にいくつかの食糧に小袋の中にコインが十数枚。正確には数えていないが下手にモンスターを相手にするよりも多くの稼ぎが得られた。
ふと自分も変わっていないがやっていることが地上にいる時と大差ないなとそのことに諧謔みを感じ嗤いが漏れる。
肩当てを装備し、持っている剣よりもやや短い収穫した剣を装備することにした。正確に検証したことはないが、短剣術の短剣と分類される剣身の長さに近いものがあったからだ。これによってもしかしたら短剣術の熟練度があがるかもしれないと期待してである。
そしてそれらの装備が終わった時になぜこいつは一人でいたのであろうかと疑問が浮かびディックが首をかしげる。
最初の疑問から仮定を思いつく。もしかしたらディックが落ちてきたような罠が他にも複数存在するのではないかというものである。そうであるならばこいつが一人でいたのは納得できる。しかし、そうではなく斥候的な役割を任されたものではないかという考えも浮かんできた。
まだまだラグス達と合流できそうにはないから、他にも囚人がいるのであればそれを倒し、アイテムを得ておくのも今後の攻略の役に立つなとディックは思考する。
その眼はまるで獲物を狙う猛禽類のようであった。




