第8話 毒の宴
【処刑まで――あと20日】
追悼式を終え、舞台はヴァルグレイヴ家の屋敷へと移された。
故人であるエリシアの両親を弔うための、正式な晩餐会。
ずらりと並んだ長テーブルには豪華な料理の数々が並び、王太子や騎士団長、アウロラ、そしてきらびやかな正装に身を包んだ貴族たちが静かに言葉を交わしている。
使用人たちが慌ただしくも洗練された動きで給仕を行う、これまで経験したことのない格式高い宴の空気に、俺はすっかり気圧されていた。
(こういうの、どうすればいいんだ……。フォークとナイフがいっぱいあるぞ……)
周囲の貴族たちのスマートな礼儀作法を盗み見ながら、俺は内心で冷や汗をかいていた。
やがて、乾杯用の飲み物が俺の前にも用意された。
薄手で高級感のある透明なワイングラスに、赤い液体が注がれていく。
俺は少し警戒しながら、グラスに鼻を近づけた。
(……酒か?)
もう一度嗅ぐ。
(酒だ……)
間違いない。ワイン特有のアルコールの匂いだ。
「俺、17歳なんだけど……」
日本なら絶対に未成年だ。飲めるわけがない。
そう思って固まっていると、そばに控えていたマリーが自然に気づいて声をかけてきた。
「シンイチ様、お酒は召し上がれないのですか?」
「うん。まあ、17歳だからな」
俺が素直に答えると、マリーは少し不思議そうに首を傾げた。
「この国では十五歳から飲めますよ」
「そうなの!?」
予想外の異世界の常識に、俺は思わず間抜けな声を漏らした。
「じゃあ、こっちにするよ。ありがとう」
「いえ」
マリーは手際よく俺の前のワイングラスを下げると、代わりに美しい細工が施された銀の杯を用意し、別のピッチャーから果実水を注いで渡してくれた。
俺は念のため、もらった銀の杯の匂いを嗅いでみる。
ふわりと鼻をくすぐる、甘くフルーティーな香り。
(……いい匂い。これなら飲めそうだ)
俺はほっと息をついた。
やがて、追悼の乾杯の時間が近づく。
そのとき、前方の席から声が聞こえた。
「聖女様のお飲み物がないぞ」
(アウロラも酒は飲まないのか?)
俺が何気なく見ていると、慌てた様子の給仕係が現れた。
給仕は、先ほど俺に用意された果実水と同じように見える飲み物を、今度は金の杯に入れてアウロラのところへ運んでいく。
ちょうど、給仕係が俺の目の前を通り過ぎた。
給仕が動いたことで生まれた微かな風。その瞬間、ふと鼻をかすめる匂いがあった。
(……ん?)
甘い香りだ。
けれど、先ほど自分が嗅いだ果実水とは、どこか違う気がした。
(何だ、今の……)
俺は通り過ぎていく給仕の手元を見た。
金の杯に注がれた液体は、俺のものとよく似ている。
ただ、色がほんの少し違うようにも見えた。
(……気のせいか?)
果実水だって一種類とは限らない。使われている果実が違えば、色や香りが違ってもおかしくはない。
給仕はアウロラの元へたどり着き、金の杯を差し出した。
「ありがとうございます」
アウロラは軽く会釈をして、それを受け取った。
俺は何となく、その様子を目で追っていた。
……何か、引っかかる。
けれど、それが何なのかは分からなかった。
俺は酒の専門家でもない――
いや――
……毒?
ふと、そんな考えが頭をよぎった。
いや、待て。誰が? 何のために、こんな会場で毒を盛る必要がある?
匂いが違う。色も違う気がする。
でも、それだけだ。
毒が入っているという確証なんて、どこにもない。
そんな曖昧な理由だけで騒ぎを起こすわけにはいかなかった。
上座の席で、エリシアがゆっくりと立ち上がった。
追悼の宴の主催者として、参列者たちに向けて静かに口を開く。
「本日はありがとうございます」
簡潔な、しかし気高さを感じさせる挨拶。そして、故人への弔いの乾杯へと移る。
会場全体が、水を打ったように静まり返った。
エリシアが杯を掲げる。参列者たちもそれに倣うように杯を掲げた。
アウロラもまた、手にした金の杯を口元へと運ぶ。
(……やっぱり、変だ)
俺の中で、警鐘が鳴った。
(俺の気のせいだったらどうする?)
勘違いなら大恥をかく。でも。
(もし、本当に何か入っていたら?)
金の杯が、アウロラの艶やかな唇に触れる寸前。
――間違っていてもいい。伝えるだけ伝えよう。
俺は意を決して、叫んだ。
「待って!」
広い会場が、一瞬にして静まり返った。
――やばい。取り返しのつかないことをしたかもしれない。
全身から嫌な汗が噴き出すのを感じながらも、俺はまっすぐにアウロラを見て、言った。
「アウロラ。それは飲まない方がいいと思う」
続けて、できるだけ冷静に言葉を紡ぐ。
「もし違ってたら済まないが、なにか入ってないか?」
周囲の貴族たちがざわめき始めた。
「え?」
「何ですの?」
「どういうこと?」
「何を言ってるんだ?」
困惑と非難が入り混じった声が上がる。
しかしアウロラは少し驚いた顔をした後、俺の目をじっと見つめ、静かに頷いた。
「申し訳ありません」
いち早く動いたのはマリーだった。彼女は素早くアウロラの元へ歩み寄ると、その手から金の杯を受け取った。
他の使用人たちも集まり、すぐに医師や毒物の鑑定ができる専門家が呼ばれた。
緊迫した空気の中、その場で息を呑むような鑑定が行われる。
数分後。専門家が青ざめた顔で声を震わせた。
「……毒です。かなり強い毒が混入されています……」
会場が一気に騒然となった。
悲鳴や怒号が飛び交う中、俺自身も心臓をバクバクさせながら立ち尽くしていた。
杯を運んだ給仕係が「ひっ、私ではありません!」と腰を抜かして震えている。
(……本当に毒だったのか)
勘違いじゃなかった。本当に、誰かがアウロラを殺そうとしたんだ。
毒が発見された瞬間、会場の空気が異様な方向へ変わり始めた。
最初は小さなざわめきだった。
「エリシア様が……?」
「さっき、お二人が言い争っていたでしょう」
「エリシア様は聖女様を嫌っているという話も……」
「そもそも、この宴はヴァルグレイヴ家が主催している」
憶測と噂が、一瞬にして悪意の渦となる。
「エリシア様がアウロラ様を毒殺しようとしたのでは?」
誰かが口にしたその決定的な一言に、群衆が火のついたように同調し始めた。
「エリシア様を捕らえろ!」
「そうだ!」
「調べるべきだ!」
決定的証拠など何一つない。ただ、中庭での敵対的な態度や、ここがエリシアの屋敷であるという状況だけで、誰もが待ってましたとばかりに彼女を犯人に仕立て上げようとしている。
昼間の追悼式で俺が感じたあの冷ややかな視線が、ここぞとばかりに正義の仮面を被り、明確な敵意となってエリシアへ牙を剥いていた。
しかし、エリシアはその騒ぎに一切飲まれなかった。
彼女は冷ややかな青い瞳で群衆を一瞥し、静かに言い放った。
「証拠は?」
その圧倒的な声の冷たさに、周囲が一瞬静まり返る。
「私が聖女様を殺害する? 何のために?」
エリシアは少しも動揺せず、自分のアリバイを示した。
「私はずっと、祭壇の前にいました。毒を入れる隙などなかったはずです。調べたければ調べればいい」
冷たく突き放したあと、彼女の瞳に鋭い怒りの色が混じった。
「でも……この霊前を汚した者を、私は許さない」
その強い言葉に、貴族たちは息を呑み、誰も反論できなくなった。
エリシアはそれ以上誰の顔を見ることもなく、淡々と宣言した。
「会はこれで終わります」
周囲の人々が、青ざめた顔でアウロラに寄り添う。
「アウロラ様、大丈夫ですか?」
「お怪我はありませんか?」
口々に心配する声に対し、アウロラは落ち着いた様子で微笑んだ。
「私は大丈夫です。ご心配をおかけしました」
取り乱すことのないその姿には、聖女としての確かな芯の強さがあった。
騒ぎが収まりを見せ始めると、王太子が騎士たちを従えて退場しようと歩き出した。
その直前。王太子は俺の前で、一度だけ足を止めた。
「……君の目に、救われたね」
「え?」
一瞬、意味が分からず聞き返す俺に、王太子はそれ以上詳しく説明することはなかった。
「彼女が無事でよかった」
ただ短くそう添えると、彼は再び歩き出し、そのまま去っていった。
俺はその凛々しい背中を見送りながら、ひとり考え込んだ。
(……俺の目?)
視線を戻し、遠くに立つエリシアを見る。
彼女はなんとも言えない表情で、静かに俺の方を見ていた。
『面白いものが見られるわよ』
一昨日の夜、彼女は確かにそう言った。
(エリシアが毒を盛った……? そんな事、あり得るのか?)
仲が悪かったし、敵だと言っていた。その疑念はどうしても頭をよぎる。
(でも……エリシアがそんなことをするとは、俺には思えなかった)
俺には判断できなかった。エリシアが犯人なのか、それとも無実なのか。彼女が言った「面白いもの」とは、この毒殺事件のことだったのか。
すべてが闇の中だ。
俺はふと、マリーの方を見た。
何かを確認したい。そんな縋るような気持ちで視線を送る。
マリーと目が合った。
しかしマリーは何も言わない。俺も何も言えなかった。
ただ静かな、ひどく短い視線だけが交わされた。彼女が何を考えているのか、俺には全く読み取れなかった。
俺は乾いた唾を飲み込み、そっと視線を外した。
最悪の形で、会は終わった。
【処刑まで――あと20日】




