第6話 名前で呼ばれた日
【処刑まで――あと23日】
暗く冷たい洞窟を抜けて外に出ると、日の光が思いのほか温かく感じられた。
無事に生き残ったのだと実感した瞬間、一気に気が抜ける。それと同時に、緊張で誤魔化していた身体があちこちズキズキと痛み出した。
ふと前を歩くエリシアを見ると、あんな死闘の直後だというのに、彼女は息ひとつ乱さず凛とした佇まいのままだった。
(……ほんと、とんでもない令嬢だな)
「お帰りなさいませ、エリシア様」
洞窟の出口には、マリーと二台の豪奢な馬車が待機していた。
一台はエリシア専用らしく、彼女が乗り込むとすぐに御者が扉を閉める。俺とマリーは、もう一台の馬車に案内された。
馬車に乗り込む前、マリーが俺を横目で見て、小さく礼をした。
全身泥だらけで、所々服が裂けてボロボロになっている俺の姿を確認したのだろう。
「あ、これ。ダガーをありがとう。助けられたよ」
俺は借りていたダガーをマリーに差し出した。
「無事で何よりです」
マリーは淡々とそう言ってダガーを受け取った。その時、彼女の口元がほんの少しだけ緩んだように見えたのは、気のせいだろうか。
ガタゴトと揺れる馬車の中で、俺はふうっと息を吐き出した。
命拾いはしたものの、全身がどっと疲れている。
「モンスターって、あんなに怖いものなんだな……」
窓の外を見ながら呟くと、向かいに座るマリーが平坦な声で返してきた。
「すぐに慣れますよ」
「な、慣れるものかな……。まあ、頑張るよ」
普通に生きてきた高校生からすれば、あの巨体と殺意に慣れる日が来るとは到底思えなかった。
「それにしても、エリシア強すぎないか?」
「エリシア様はエリシア様なので」
相変わらずの、身も蓋もない返答だった。俺は苦笑して、深く背もたれに体を預けた。
◇
屋敷に着いた頃にはすっかり辺りは暗くなっていた。
マリーから、まずは風呂に入るように言われた。
温かい湯で汚れと疲れを洗い流したものの、当然だが着替えなんてものはない。俺は脱衣所でため息をつきながら、渋々あの泥と血で汚れたボロボロの制服に再び袖を通した。
(せっかく綺麗になったのに最悪だ……)
不快感に顔をしかめながら廊下へ出ると、少し離れたところにエリシアが立っていた。
「こっちに来なさい」
手招きされ、俺は大人しく彼女の元へ向かった。
エリシアは俺のボロボロの姿を上から下まで眺めると、呆れたように小さくため息をつき、一着の真新しい服を差し出してきた。
「……そんなボロボロの服で屋敷を歩かれては困るでしょう」
「まあ、確かに……」
俺は納得して服を受け取った。
(そりゃそうか。公爵令嬢の屋敷だしな)
ボロボロの制服でうろつく不審者がいたら、他の使用人たちも驚くだろう。
一度部屋に戻り、もらった服を広げてみる。
渡されたのは、肌触りの良い白いシャツと、動きやすい黒のズボンだった。貴族らしい派手な装飾はないが、素人目にも生地が上等だとわかる。
言われた通りに真新しい服へ着替え、再び廊下に出る。
待っていたエリシアは俺の姿を見ると、小さく頷いた。
「……うん」
「何?」
「別に。変ではないというだけよ」
相変わらず素直じゃないなと思っていると、エリシアが一枚の赤いマントを手にして、こちらに差し出してきた。
「シンイチ、これを」
「……え?」
突然のことに、俺はマントを受け取ろうとした手を止めてしまった。
「何よ」
「いや……今、名前を……」
「……名前くらい知ってるわよ。夜は冷えるから。はい」
エリシアは何でもないことのように言い放ち、俺にマントを押し付けた。
思えば、この世界に来てからエリシアに名前で呼ばれたのは、これが初めてだった。いつも「平民」だの「変な奴」だのと呼ばれていたから、完全に不意を突かれた。
押し付けられたマントは、触れただけで上質なものだとわかる。
「……ありがとう」
俺がそう言うと、彼女は何も答えず、さっさと歩き出してしまった。
俺は少しだけ戸惑いながらも、慌ててその後を追った。
◇
たどり着いたのは、夜のバラ園だった。
俺が不法侵入してエリシアに喉元へナイフを突きつけられた、あの場所だ。
あの時は侵入者と冷酷な悪役令嬢として対峙した俺たちが、今はこうして屋敷の主人と、その客人――というか居候として、静かに並んで歩いている。なんだか不思議な気分だった。
「そういえば、こんな大きな屋敷なのになんで一人なんだ?」
月明かりに照らされたバラを見ながら、俺は自然と気になっていたことを口にした。
「両親は?」
「死んだわ」
エリシアの声は静かだった。
「半年前に。馬車の事故でね」
「……ごめん」
軽口で聞くようなことじゃなかった。
「あなたが謝ることじゃないでしょう」
エリシアは俺の方を見ずに、淡々と返した。
「明後日、両親の追悼の会があるの」
その言葉を聞いて、俺の中で一つの線が繋がった。
(ああ……なるほど)
俺が新しい服を用意された理由。
(やっぱり体面とか、そういうことか)
大事な行事があるから、変な平民にボロボロの服でうろつかれては困るということだろう。俺は心の中で勝手に納得して、少しだけ笑った。
……それにしても。
エリシアのことは少しずつ分かってきたつもりだったが、彼女の周りにいる人間については、俺はほとんど何も知らない。
両親のことすら、今日初めて聞いたくらいだ。
明後日の追悼の会には、そんな俺の知らない人たちが大勢集まることになる。
どうやら、俺にとっても重要な一日になりそうだった。
「王様とかも来るのか?」
「ええ」
エリシアは薄く微笑んだ。
「まあ、そうね。明後日は面白いものが見られるわよ」
「面白いもの?」
「……客人たちに無礼のないようにするのよ。」
俺の問いには答えず、エリシアはいつもの調子で釘を刺してきた。
「はいはい」
俺は軽く手を挙げて答えた。
会話が途切れ、静寂が降りる。
隣に立つエリシアの横顔を、俺はなんとなく見つめていた。
昼間、洞窟であれほど圧倒的な力を見せていた少女と、今こうして静かに月を見上げている少女が、同じ人間なのだということが少し不思議だった。
数メートルの距離を一瞬で詰める速度。モンスターの群を光の剣で一撃で消し去る魔力。戦闘ではまるで別人のような強さ。
しかし、月明かりに照らされた今のエリシアからは、あの時の圧倒的な強さは感じられない。
ただ静かに、バラを眺めている。
その横顔が、ほんの少しだけ寂しそうに見えた。
【処刑まで――あと23日】




