第5話 真紅の魔石
【処刑まで――あと24日】
王都の喧騒を離れ、俺はひと気のない荒れ地を進んでいた。
羽織った粗末なローブと制服が、冷たい風に小さく揺れる。向かう先は、危険な魔獣が巣食うという『嘆きの洞窟』。エリシアが望んだ『真紅の魔石』を手に入れるためだ。
――正直に言えば、足が震えていた。
異世界に来てから数日が経ち、薪割りや屋敷の生活には慣れたものの、それはあくまで「安全な敷地内」での話だ。一歩外に出れば、ここは人間を簡単に殺す魔物が闊歩する危険なファンタジー世界なのだと、洞窟の入り口が近づくにつれて痛感させられる。
「……引き返すなら、今だよな」
誰に聞かせるでもなく呟き、俺は自分の頬を軽く叩いた。
いや、ダメだ。ここで逃げ帰ったら、あの高慢な令嬢に一生頭が上がらない。それに、彼女を「幸せにする」と決めたのは俺自身だ。
マリーから託された、柄に細かな傷の刻まれたダガーを腰の帯にしっかり押し込み、俺は覚悟を決めて洞窟の口へと足を踏み入れた。
◇
洞窟の中は、完全な暗闇ではなかった。
壁や天井のあちこちに、淡く青白く光る鉱石や、微かに発光する苔が自生している。松明などを持たなくても、数メートル先まではぼんやりと視界が確保されていた。
だが、それがかえって不気味だった。
見えるには見えるが、決して安心できない暗さ。
ぽたり、と天井から落ちる水滴の音が、やけに大きく洞窟内に反響する。遠くで何かがガサリと動いたような気配がして、俺は思わず息を呑んだ。
「……思ったより、不気味だな」
序盤のうちは、まだ図書館で仕入れた知識を頼りに、「このまま真っ直ぐ進んで、二つ目の分かれ道を右に――」などと心の中で反芻し、冷静さを保とうとしていた。
だが、その甘い考えはすぐに打ち砕かれる。
ガサッ――。
「――っ!?」
視界の端の闇が、ぐにゃりと歪んだ。
次の瞬間、暗闇から飛び出してきたのは、黒い毛並みを持つ狼に似た魔獣だった。
通常の狼よりも一回り以上大きく、爛々と光る目は凶悪に吊り上がり、剥き出しの牙には澱んだ魔力が滲んでいる。
「うわっ……!」
反射的に身を引いたが、俊敏な魔獣の飛び掛かりを完全に避けることはできない。
ガリッ、と鋭い爪がローブを激しく引き裂き、中の制服ごと肩の皮膚を深く抉った。
「っ……痛っ……!」
熱い痛みが走る。ゲームのHPバーなど存在しない。目の前にあるのは、まぎれもない生傷と、鮮血だ。
これが、異世界の魔物の力。人間を殺すための牙と爪。
頭が真っ白になりかけるのを必死で抑え、俺は腰からダガーを引き抜いた。
「来るなっ……!」
我武者羅にダガーを突き出す。
その瞬間、不思議なことが起きた。自分の狙いは明らかに外れていたはずなのに、手の中のダガーがまるで生き物のようにほんのわずかに軌道を修正し、狼の胸元を浅く切り裂いたのだ。
「ギャウッ!」
傷を負った魔獣が怯み、一瞬だけ動きが止まる。
――逃げろ!
俺は転がり込むように後ろへ下がり、暗闇の奥へ向かって必死に足を走らせた。
◇
だが、狼は諦めなかった。
背後から、荒い息遣いと地鳴りのような足音が猛烈な勢いで迫ってくる。
「なんで……! しつこいぞ!」
逃げても逃げても、狼は完全に距離を詰めてくる。
洞窟の狭い通路を無我夢中で駆け抜ける最中、足元の足場が急に途切れた。
「――うわっ!?」
小さな崖、あるいは急な岩場のような段差だった。
バランスを崩した俺は、そのまま数メートル下の岩肌へと転がり落ちた。
「がはっ……!」
全身を硬い岩に打ち付け、息が詰まる。
足を強く擦り、膝や脛から血が滲み出る。足首にも嫌な痛みが走り、一瞬、立ち上がろうとした足がガクッと崩れた。
「……痛っ……! くそ……!」
だが、振り返る間すらない。
上部の崖から、あの狼が赤く光る目をギラつかせ、獲物を逃がすまいと飛び降りてきたのだ。
「嘘だろ……っ!」
俺は負傷した足を引きずりながら、再び這うようにして逃げ出した。
走れない。足が痛くてまともに進めない。
背後で地面を蹴る爪の音が、すぐそこまで迫っている。
――ガブリッ!
「ああっ……!」
左腕のローブの袖が引き裂かれ、激痛が走る。
引きずり倒されそうになった勢いのまま、俺は岩壁に激突した。
「はぁっ、はぁっ……! 死ぬ……このままじゃ、ここで死ぬ……!」
恐怖と酸欠で頭が割れそうだ。
かっこいいセリフなど出てこない。ただ痛い。怖い。帰りたい。死にたくない。
それでも、狼は容赦なく次の牙を剥き出しにして飛びかかってくる。
「くそっ、頼む……!」
涙と汗でぐしゃぐしゃになった顔のまま、俺は両手でダガーをしっかりと握りしめ、突進してくる狼の巨体に向けて力任せに突き出した。
その瞬間、まただ。
ダガーの柄が手にピタリと吸い付き、刃の軌道がほんのわずかに、しかし完璧なタイミングで狼の急所へと誘導された。
――グサッ!
「ガァッ……!」
ダガーが狼の身体を深く貫く。
しかし、一撃で絶命させるには至らない。致命傷を免れた狼は、苦悶の声を上げながらも血を流し、狂暴な目で俺を睨みつけた。
そして、これ以上の戦闘は不利と悟ったのか、あるいは恐怖を感じたのか、そのまま身を翻し、洞窟の闇の奥へと逃げ去っていった。
「……はぁっ、はぁっ……はぁ……」
糸が切れたように、俺はその場に崩れ落ちた。
勝ったわけじゃない。
殺したわけでもない。
ただ、運よく「生き残った」だけだ。
◇
どれくらいそこにうずくまっていただろうか。
肩からは血が流れ続け、腕の傷がズキズキと痛む。制服はボロボロに引き裂かれ、血と泥まみれだった。
足を引きずりながら、俺は壁に手をついて立ち上がった。
「……考えが、甘すぎた」
歯噛みする。
エリシアも危険だと言っていた。マリーもダガーまで持たせてくれた。
それなのに、自分の実力もわきまえずに、ただ「彼女を幸せにしたい」という意地だけでこんな場所へ来てしまった。
何をしてるんだ、俺は。
帰りたい。怖い。痛い。死にたくない。
頭をよぎるのは弱音ばかりだ。
それでも――足を止めるわけにはいかない。ここで諦めたら、結局何も変わらない。
俺は壁伝いに、ふらふらの足取りでさらに洞窟の奥へと歩き出した。
だが、運命は容赦がなかった。
さらに進んだ開けた空間に出た時、俺の足がピタリと止まった。
「……嘘だろ……」
淡い青白い光の中に、無数の赤い目が浮かび上がっている。
先ほどの狼どころではない。十匹、二十匹……いや、それ以上の狼の群れが、一斉にこちらを向いていた。
さらに、その群れを割るようにして、巨体を揺らしながら現れたのは――分厚い獣皮をまとい、棘付きの巨大な棍棒を持った、醜悪な二足歩行の怪物、オークだった。
「なんで……こんなの、聞いてない……」
絶望という言葉が、文字通り全身を塗りつぶしていく。
傷だらけの身体で、足を引きずっているこの状態で、こんな大軍を相手にできるはずがない。
ダガーを持つ手が、恐怖と疲労で激しく震えていた。
逃げ場はない。
牙を剥いた狼たちが一斉に地面を蹴り、オークが棍棒を振り上げた。
「――もう、終わりだ」
目を閉じかけた次の瞬間だった。
――!!
音を置き去りにした空間が冷たく張り詰めた。
突如、洞窟の闇を切り裂くように、無数の巨大な十字の光剣が、宙へ一斉に展開された。
青白い鉱石や苔の光が、その眩い輝きに飲み込まれていく。
次の瞬間――光剣が、一斉に敵へと突き刺さった。
狼も、オークも、逃げる暇すらない。
――刹那、世界から音が消えた。
十字の光剣は魔獣たちの身体を貫き、そのまま内部から弾けるように、眩い粒子へと変えていく。
ただ、洞窟いっぱいに純白の光が広がっていく。
目を開けていられないほどの閃光。
そして――すべてが、一瞬で終わった。
光の残滓がゆっくりと消えていく。
静寂を取り戻した洞窟の中に、一人の少女が佇んでいた。
夜風もないというのに、金色の髪が静かに揺れている。
高貴なドレスの裾には、汚れ一つない。
冷たい双眸。
感情のない、美しい顔。
――エリシア。
「……ふん。相変わらず、見事なまでの無様ぶりね」
冷ややかな声が響く。
エリシアはチラリと俺のボロボロになった姿を一瞥し、忌々しそうに吐き捨てた。
「無能な人間は、おとなしく死んでいれば少しは楽だったのに。わざわざ私に手間をかけさせないでくれるかしら」
そこに息の乱れも、焦りもない。恐ろしいほど冷静で、敵を敵とも認識していないような圧倒的な余裕だけがあった。
俺が命懸けで戦った魔物の群れを、彼女は表情一つ変えず、一瞬で消し去ったのだ。
「お前……なんで……」
「さっさと立ち上がりなさい。最深部へ行くわよ」
「……え?」
「真紅の魔石を確認するわ」
疲労困憊で立っているのがやっとだというのに、エリシアは回復魔法などを使ってくれることもなく、有無を言わさず歩き出す。
俺は歯を食いしばり、血と泥にまみれた足を必死に引きずって彼女の後を追った。
◇
やがて、洞窟の最深部へと辿り着いた。
だが――そこに、『真紅の魔石』はなかった。
魔石が安置されていたはずの岩壁の台座には、何かが無理やり剥ぎ取られたような生々しい痕跡だけが残されている。
「……やはり先を越されたようね」
呟いたエリシアの横顔を、俺は思わず見つめた。
いつもの冷徹さとは少し違う、ほんのわずかに深刻な影が、彼女の美しい瞳に差していた。
「……道理で、下級の魔物しかいないわけね。洞窟内の魔素濃度も低すぎると思ったけど」
周囲を見渡し、エリシアがポツリと零す。
「……下級、って……」
俺は思わず聞き返した。あんなに死にかけた狼の群れが、下級?
「さっきの狼も?」
「ええ」
「……あれが?」
俺は絶句した。
エリシアと自分の間にある絶望的な実力と知識の差に、眩暈が覚えそうになる。
だが、彼女はそれ以上何も説明せず、じっと台座の痕跡を見つめていた。
俺はふと、何かを深く考えているようなエリシアの横顔に目をやり、それから懐の感触を思い出した。
「……あ」
――戦闘の激しさと身体の痛みに気を取られ、すっかり忘れていた。
俺はボロボロになったローブの内側に手を突っ込み、一輪の花を取り出した。
「魔石は無理だったけど……これだけは、拾えた」
それは、逃走中に青白い光の中で偶然見つけて拾っていた『紅蓮の輝花』だった。
図書館で調べた知識によれば、これが極まれに真紅の魔石へと変化することもあるという。だが、その確率はわずか2%。エリシアのような公爵令嬢からすれば、ほとんど価値のない、ただの野花に等しい。
「……こんなもの、何になるというのよ」
エリシアは冷たく言った。
「わかってるよ。魔石じゃなくて、ただの花だ。役に立たないかもしれないけど……これしか、持って帰れなかった」
俺が俯くと、エリシアは小さく息をついた。
そして、わずかに目を伏せ、それからふっと冷笑を緩める。
「……まあいいわ。今のあなたなら、その程度の雑草がお似合いよ」
彼女は手を伸ばし、俺の手から紅蓮の輝花を受け取った。
大喜びするわけでもない。笑顔を見せるわけでもない。ただ、大切そうに、しかし何処か諦めを含んだような手つきで、それを自分の懐にしまう。
それだけで、胸の奥にあった冷たい焦りが少しだけ和らいだ気がした。
「なあ、エリシア」
「今度は何よ」
「真紅の魔石って……膨大な魔力を宿しているんだろ?」
「ええ、そうよ」
「――何に使うつもりだったんだ?」
俺が問いかけると、エリシアは一切ためらうことなく、冷徹に言い放った。
「決まっているでしょう」
「――税を収めない不届き者の村を、一撃で焼き払うためよ」
「……っ!?」
全身の血が凍りつく。
町の人々が怯えながら口にしていた噂。
『あの公爵令嬢が、自分に逆らった村を兵士に命じて焼いた』という悪評。
まさか、噂は本当だったのか――。
俺が絶句していると、エリシアはふっと不敵に笑った。
「あははは」
「……何がおかしいんだよ」
「バカね」
彼女は冷たく、けれどどこか楽しげに言った。
「もっと勉強なさい、平民」
【処刑まで――あと23日】




