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第3話 極悪令嬢の噂

【処刑まで――あと28日】


 朝の裏庭に、カーン、という乾いた音が響く。


 俺は昨日に引き続き、制服姿で斧を振り下ろしていた。全身の筋肉痛はひどいが、昨日一日やり続けたおかげか、少しだけ斧の重心の使い方が分かってきた気がする。


 異世界に来て最初に身についたスキルが薪割りだなんて、どこのラノベの主人公だよと自分にツッコミを入れたくなる。


「シンイチ様。そろそろお時間です」


 声をかけられ、俺は額の汗を拭って振り返った。


「あ、ああ。分かった」


 そこに立っていたのはマリーだった。


 だが、いつもの黒いメイド服ではなく、どこにでもいるような普通の町娘の服を着ている。目立たない茶色のスカートに、質素なブラウス。


「マリー、その格好どうしたんだ?」


「エリシア様のご命令です」


「命令?」


「はい。お買い物に同行していただきます。出発しますので、こちらへ」


 マリーはそれ以上理由を説明することなく、さっさと歩き出してしまう。


 俺は首を傾げながらも、斧を置いて彼女の後を追った。


 ――町娘の服か。メイドだと分かれば、買い物どころじゃないからか?


 それとも、エリシアの命令には別の意味があるのか。


◇


 公爵邸の門を抜け、王都のメインストリートへと出る。


 俺は少し拍子抜けしていた。


 中世ヨーロッパ風の石畳の街並み。荷馬車が行き交い、商店からは威勢のいい声が響き、子供たちが笑い声を上げて駆け抜けていく。


 異世界の街って、案外普通なんだな。


 もっと殺伐としているのかと思ったが、そこに生きている人々の活気は、現代日本の商店街と大して変わらないように見えた。


 だが、市場の青果店でマリーが品物を選んでいる時だった。


 隣の店先で立ち話をしていた町人たちの声が、ふと耳に入ってきた。


「……また税が上がるって噂、本当かい?」


「ああ。なんでも、ヴァルグレイヴ公爵家の令嬢が、新しい城を建てるための資金にするとか」


「しっ、声が大きい。誰に聞かれてるか分からないぞ」


 その話題が出た瞬間、周囲の空気が少しだけ重くなった気がした。誰もが怯えたように声を潜め、周囲を警戒している。


 ヴァルグレイヴ。エリシアの名前だ。


 俺は隣に立つマリーを見た。マリーは無表情のまま、黙々とカゴに野菜を入れ、店主にお代を渡してさっさと歩き出してしまう。


 ――町娘の服を着せたのは、メイドだと気づかれないためか。


 それとも、俺に街の本当の空気を見せるためなのか。


 エリシアが何を考えているのか、まだ分からない。


 買い物を終え、大通りの喧騒から少し外れた裏道を歩きながら、俺は抱えた紙袋越しにマリーに言った。


「なあ、マリー」


「はい」


「……あれ、本当なのか?」


「……」


「エリシアって、本当にそんなことしてるのか?」


 マリーは足を止め、ゆっくりと俺を振り返った。そして、表情ひとつ変えずに深く一礼する。


「……私からエリシア様について、シンイチ様に申し上げることは何もございません」


「……またそれかよ」


 肯定も否定もしない。ただの徹底した沈黙。


 このメイドの態度が、余計に得体の知れない不気味さを煽ってくる。


「おい、姉ちゃん。ちょっと付き合えよ」


 不意に、下品な声が割り込んできた。


 見れば、身なりの悪い柄の悪そうな男が三人、ニヤニヤと笑いながらマリーの行く手を塞いでいた。


「無視すんなって。お茶くらい奢るぜ?」


 一人がマリーの腕を掴もうと手を伸ばす。


 マリーは無言のまま、冷ややかな視線を男たちに向けていた。


「おい、やめろよ」


 俺は咄嗟に前に出て、男の手を払いのけた。


 喧嘩なんてほとんどしたことがないし、心臓は嫌な音を立ててバクバク言っている。だが、困っている(ように見える)女の子を見捨てることなんて、俺にはできない。


「ああん? なんだてめえ、ひよっこが」


「嫌がってるだろ。行こうぜ、マリー」


 男たちが凄み、腰の短剣に手をかけた。


 ヤバい。これは異世界だ。普通に刺されるかもしれない。


「……お下がりください、シンイチ様」


 背後から、ひどく静かな声がした。


 振り返った俺は、思わず息を呑んだ。


 マリーの顔は、いつもの無表情だった。


 だが、目だけが完全に違う。一切の感情がない、凍りつくような冷たい瞳。


 平和な日本で生きてきた俺の心臓が、本能的な警鐘をガンガンと鳴らしている。一歩前に出た彼女の背中からは、ただのメイドとは到底思えない、異質で危険な空気が立ち上っていた。


――そこまでになさい。


 一触即発の空気を切り裂くように、凛とした、それでいて包み込むような温かい声が響いた。


 次の瞬間。チンピラたちの足元の地面が、唐突にバキバキと凍りついた。


「うわっ!?」


「なんだこれ、足が動かねえ!」


 パニックに陥る男たちの前に、一人の女性が静かに姿を現した。


 純白の法衣には淡い水色の装飾が施され、裾や袖口には繊細な刺繍が揺れている。背中まで流れる銀白色の髪は陽光を受けて淡く輝き、その隙間から覗く澄んだ青い瞳は、どこまでも穏やかだった。


 整った顔立ちには気品がありながら、不思議と近寄りがたさは感じない。そこに立っているだけで、張り詰めていた空気が和らいでいくような――そんな不思議な存在感があった。


 周囲を歩いていた人々が、ハッとして道を譲り、祈りのポーズをとる。


 彼女が指先を軽く振ると、男たちの足枷になっていた氷がパツンと砕け散った。


「ヒィッ! せ、聖女様だ! 逃げろ!」


 男たちは腰を抜かさんばかりに慌てふためき、路地裏へと逃げ去っていった。


 ――今、何が起きた?


 液体をかける暇も、呪文を唱えるような動作もなかった。ただ指先を振っただけで、一瞬にして地面が凍りついたのだ。


 魔法だ。俺は初めて見る本物の魔法の力に、呆然と立ち尽くしていた。


 聖女と呼ばれたその女性は、逃げる男たちを追うこともせず、静かな笑みを浮かべてこちらへ歩み寄ってきた。


「お怪我はありませんか?」


「あ、はい。助かりました……」


 俺が答えると、聖女は俺の後ろに立つマリーを見て、少し目を丸くした。


「あら、エリシアのところの侍女ね。こんなところで何を?」


「買い物です」


「なぜそのような格好をしているのかと思いましたが、そうね。ヴァルグレイヴと名乗れば、まともに買い物なんてできませんものね」


 聖女は同情するように微笑み、それから、改めて俺の顔を不思議そうに覗き込んだ。


「ということは……あなたが、エリシアの屋敷に転がり込んだという客人かしら?」


「え? 俺のこと知ってるの?」


「やはり、お告げ通り、神様の――」


「神様の?」


「……いえ。何でもありません」


 聖女はふわりと微笑み、首を横に振った。


 この世界にも、ちゃんといい人がいるんだな。俺は少しだけホッとしていた。


 だが、さっきの言いかけが引っかかった。お告げ? 神様? あの聖女は、俺のことを知っていた。なぜ?


 聖女とマリーの会話を聞いた周囲の人々の反応は劇的だった。


「……エリシアのところの侍女?」


「あの極悪令嬢の……」


「関わるな、目をつけられたら終わりだぞ……」


 さっきまで普通に買い物をしていた人々の顔が、一気に青ざめ、潮が引くように俺たちから距離を取っていく。


 エリシアという名前そのものが、この街では絶対的な恐怖の象徴になっている。それを肌で実感した瞬間だった。


「随分と楽しそうにおしゃべりしているじゃない」


 その時。


 群衆が割れた道の向こうから、日傘を差したエリシアが歩いてきた。


 いつものように高貴なドレスに身を包み、堂々と、誰を見下すことも隠さない傲慢な足取りで。


 空気が完全に凍りついた。


 ――って、なんで本人がいるんだよ。昨日「行くわけない」って言ってたじゃないか。


 俺の内心のツッコミをよそに、エリシアは俺たちを一瞥すらせず、真っ直ぐに聖女の前へと進み出た。


 エリシアの視線は、最初から俺やマリーではなく、聖女だけを捉えていた。


「ごきげんよう、エリシア。相変わらずお元気そうで何よりですわ」


「ええ。あなたの顔を見なければ、もっと気分がいいのだけれど」


 聖女はエリシアの棘のある言葉にも、ふわりとした微笑みを崩さない。


「それにしても、ヴァルグレイヴの令嬢ともあろう方が、このような市場へ? うふふ、私は教会のミサの帰りなのですけれど」


「あなたには関係のないことよ。……毎日毎日、よく飽きもせず平民の群れに混ざれること。そうやって愛嬌を振りまくのが聖女様のお仕事かしら?」


「ええ。人々の平穏に寄り添うのが、私の役目ですから」


「――平穏ね。偽善者が、よく言うわ」


 エリシアは吐き捨てるように冷たく言い放つ。


 表面上は穏やかな聖女と、明確な敵意を隠そうともしないエリシア。


 二人の間には、俺のような部外者には到底踏み込めない、張り詰めた緊張感が漂っていた。


「相変わらず、厳しいお言葉ね。でも、私は、いつもあなたのことを祈っていますよ」


 聖女は穏やかに微笑むと、それ以上は何も言わず、エリシアの横を通り過ぎた。


 すれ違いざま、聖女は俺を見て、優しく微笑みかけた。


「あなたとは、また会える気がしますわ」


 聖女は最後まで笑顔のまま、群衆の中へと去っていった。


 周囲の人々も、エリシアを恐れてそそくさとその場から消えていく。


 市場の通りに、俺とエリシア、そしてマリーの三人だけが取り残された。


 エリシアは、聖女の消えた方向を冷たい目で見つめながらポツリとこぼした。


「……アウロラ・セレスティア。聖女だか神の加護だか知らないけれど。あの女は……」


「あの女は……?」


「あの女は、私の一番の敵よ」


「……敵?」


 俺は困惑した。


 あんなに善良で、俺たちを助けてくれた優しい人が、一番の敵?


 エリシアがゆっくりと振り返り、俺を見た。その青い瞳が、すっと細められる。


「……そういえば、あなたも神がどうとか言っていたわね」


「え?」


 俺は背筋が凍るのを感じた。彼女の目には、俺を『同じ敵側の人間かもしれない』と値踏みするような、純粋な殺意が宿っていた。


「私の邪魔をするなら――」


 一拍。


「お前も殺す」


【処刑まで――あと28日】

ここまで読んでくださり、ありがとうございます!

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