第2話 東方の客人(ただし薪割り係とする)
「私が死ねば――この世界は滅びるわ」
静かな、本当に静かな声だった。
夜風に揺れる薔薇の香りと、喉元まで迫っていた冷たい刃の感触。そして何より、目の前に立つ圧倒的な美貌の少女が放った『世界が滅びる』という言葉のスケール感。
あまりにも現実離れした状況に、俺の脳は一瞬フリーズした。
「……は?」
「聞こえなかったかしら。私が死ねば、世界が滅びるのよ」
エリシア・フォン・ヴァルグレイヴは、ひどくつまらなそうにそう繰り返した。
普通なら「自分を悲劇のヒロインだと信じ込んでいる痛いお嬢様だ」と笑い飛ばすところだろう。
だが、俺の背筋を這い上がった冷や汗は、それが冗談ではないと告げていた。
彼女の青い瞳には、一切の揺らぎがない。
まるで「明日は雨が降る」とでも言うように、確定した事実として口にしている。
「……なんで、お前が死ぬと世界が滅びるんだよ」
喉の奥から絞り出した俺の問いに、エリシアは鼻で笑った。
「私があなたにそれを教える義理があるかしら、虫けら」
「俺は虫けらじゃない。神崎新一だ。お前を幸せにするために神様に送り込まれた……」
「シンイチ・カンザキ。ひどく響きの悪い名前ね。どこの田舎から迷い込んだのか知らないけれど、その神様とやらを信じているなら、今すぐ教会へ行って祈りでも捧げていなさい」
冷たく言い放つと、エリシアはスッとナイフを納めた。
そのまま背を向け、月明かりの下を屋敷へと歩き出そうとする。
「待てよ! 俺は本気だ。お前を助けるって決めたんだ!」
俺が叫ぶと、エリシアはピタリと足を止めた。
ゆっくりと振り返り、ゴミでも見るような冷ややかな視線を俺に突き刺す。
「……本当に、目障りな男ね」
彼女は小さくため息をつき、パチン、と指を鳴らした。
すると、いつの間にか庭園の暗がりに控えていたらしい影が、音もなく俺の背後に現れた。
ビクッと肩を揺らして振り返ると、そこには黒いメイド服を着た少女が立っていた。
年齢は、俺とそう変わらないように見える。小柄で華奢な身体に、白いエプロンとフリルをあしらった上品なメイド服。淡いピンク色のツインテールが肩のあたりで揺れていた。
大きなローズピンクの瞳は、どこか気だるげで、目の前に突然人が現れたことなど、まるで気にしていないようだった。
「……マリー」
「はい、お嬢様」
少女は淡々と答えた。声にも、表情にも、余計な感情は見当たらない。
「この男を屋敷に入れなさい。そうね……『東方から来た客人』として、一部屋与えてあげて」
「かしこまりました」
「え、いいのか?」
まさかの急展開。
言葉も通じない極悪令嬢かと思ったが、案外話が分かるじゃないか。俺はホッと胸をなで下ろした。
しかし、エリシアは俺の安堵などお見通しだというように、薄く冷酷な笑みを浮かべた。
「勘違いしないで。あなたが本当に神の使いなのか、それとも単なる狂人なのか。もし私の邪魔になるようなら、いつでもその首を刎ねる。……ただ、それだけのことよ」
「っ……」
空気が重くなり、呼吸が苦しくなる感覚。
彼女は本気だ。俺が少しでも怪しい真似をすれば、この美しい悪役令嬢は、一片の躊躇いもなく俺を殺す。
「せいぜい、無能な虫けらなりに足掻いてみなさい」
それだけ言い残し、エリシアは闇の中へと消えていった。
残された俺は、メイドのマリーに無言で促され、冷や汗を拭いながら公爵邸へと足を踏み入れた。
◇
翌朝。
俺は、身体中の節々が痛むのを感じて目を覚ました。
「痛っ……なんだこのベッド、板かよ」
体を起こし、部屋を見回す。
公爵邸の客室と聞いて、ふかふかのベッドや豪華な調度品を想像していた俺が馬鹿だった。
与えられたのは、屋敷の裏手にある物置を無理やり空けたような四畳半ほどの狭い部屋だった。窓は小さく、朝の光が申し訳程度に差し込んでいる。
コンコン、と冷たいノックの音が響き、昨夜のメイド――マリーが無表情のまま入ってきた。
「おはようございます、シンイチ様」
「あ、ああ、おはよう……」
「さっそくですが、お仕事の時間です。裏庭へお越しください」
「……はい?」
仕事?
疑問を口にする間もなく、マリーはさっさと部屋を出て行ってしまう。
俺は慌てて着替え(異世界に来た時の学生服しかないが)、彼女の後を追って廊下を歩いた。
「なあ、マリー」
「はい」
「エリシアって、どんな奴なんだ?」
俺が尋ねると、前を歩いていたマリーの足が、ほんの一瞬だけピタリと止まった。
だが、すぐにまた歩き出す。
「……私からエリシア様について、シンイチ様に申し上げることは何もございません」
「いや、それ答えになってないだろ」
俺のツッコミに対し、マリーは表情ひとつ変えずに深く一礼した。
「申し訳ございません。こちらです」
淡々と返すマリーの背中を見つめる。
……なんだ? 今の微妙な間は。このメイド、主人のことについて何か知っているのか?
だがそれ以上聞き出せる雰囲気もなく、俺たちは裏庭へ到着した。
そこには、山のように積まれた丸太と、無骨な鉄の斧が用意されていた。
「本日の午前の業務は、こちらの薪割りになります」
「ちょっと待って。俺、客人って言ったよな?」
「はい。東方よりお見えになられた大切なお客様です」
「じゃあなんで客人が薪割りさせられてるんだよ!」
「東方の客人は、自らの労働で宿代を支払う素晴らしい文化をお持ちであると、エリシア様より伺っております」
「どんな偏見だよ! ないよそんな文化!」
「では、お昼までにお願いいたします。終わらなければ昼食は抜きとなりますので」
マリーは丁寧に一礼し、俺の抗議を完全に無視して屋敷の中へ戻ってしまった。
「マジかよ……」
俺は途方に暮れながら、ずっしりと重い斧を手に取った。
昨日の今日でこれだ。あの悪役令嬢、性格が悪いという噂はどうやら本物らしい。
仕方なく丸太を台にセットし、斧を振り下ろす。
ガンッ!
鈍い音とともに、斧は丸太の端を少しだけ削って弾かれた。
衝撃が両手に走り、思わず斧を取り落としそうになる。
「いっっっった……!」
「ふふ。随分と無様な恰好ね、虫けら」
不意に、背後から優雅な声が降ってきた。
振り向くと、昨夜の庭園で見た姿とはまた違う、目を奪われるほど豪奢な白く美しいドレスに身を包んだエリシアが、レースの日傘を差して立っていた。朝の日差しを浴びた金糸の髪が輝き、ただ立っているだけで絵画のように美しい。
「お前なぁ……客人に対してこの扱いはなんだよ」
痛む手をさすりながら睨みつけると、エリシアは涼しい顔で微笑んだ。
「身の程を知りなさい。どこの馬の骨とも知れない平民に、屋根を与えてあげているのよ? 感謝の言葉とともに、その丸太を粉々にするのが筋というものでしょう」
「無茶言うな。俺はただの高校生……いや、普通の学生なんだぞ。剣も振ったことないし」
「ええ、そうね。魔力の欠片も感じないわ。ただの非力な凡人。……本当に、驚くほど無能ね」
容赦のない言葉。
エリシアは俺の足元に転がっていた斧の柄を日傘の先端でツンツンと叩き、つまらなそうにため息をついた。
「せいぜい精を出すことね。労働は平民に許された数少ない美徳なのだから」
冷たい言葉を残し、彼女は優雅に去っていった。
その後ろ姿を見送りながら、俺は大きく息を吐く。
……やっぱり、性格最悪だな。極悪令嬢の噂も伊達じゃない。
俺はやけくそになって斧を拾い上げた。
カーン、カーンと、不格好な音が裏庭に響く。
◇
夕方。
空が茜色に染まる頃、俺はついに最後の一本の丸太を真っ二つに割った。
「おっしゃあ……! 終わったぞ……!」
全身汗だくで、手のひらはボロボロだ。
俺は地面に大の字になって倒れ込んだ。
本当に昼食は抜きにされ、空腹と疲労で限界だった。
……それにしても、俺、よくこれ一日で終わらせたな。
文化系の普通の高校生が、手ぶらで異世界に来て、いきなり一日中薪割りをやり切るなんて、普通なら無理だろ。
火事場の馬鹿力ってやつだろうか。妙に斧が手によく馴染んだ気もする。
「あら。逃げ出さずに終わらせたのね」
頭上から声がして目を開けると、いつの間にかエリシアが見下ろしていた。
彼女はドレスの裾を少しだけ持ち上げ、綺麗に積まれた薪の山を一瞥する。
「まあ、不格好な薪だけれど。暖炉の燃料くらいにはなるかしら」
「もっと褒めろよ。俺、今日一日で三年分くらい働いたぞ……」
地面に転がったまま文句を言う俺の顔の横に、ふさっ、と何かが落とされた。
見れば、麻の布に包まれた、丸い味のなさそうなパンと、小ぶりなリンゴのような果実だった。
「……なんだ?」
「これでも食べなさい。うちの庭で餓死されても迷惑なだけだから」
相変わらずの冷たいトーン。
俺は起き上がり、布を広げてパンを手に取った。
腹の虫が限界を訴えている。俺は迷わずパンに噛み付いた。
「……硬っ!!」
想像を絶する硬さだった。
前歯が折れるかと思った。異世界のパンってこんなに硬いのか。
俺が顔をしかめて悶絶していると。
「あははは」
不意に、鈴を転がすような笑い声が聞こえた。
見上げると、エリシアが口元に手を当てて笑っていた。
冷徹な悪役令嬢の作り笑いではない。俺の無様な様子がおかしくてたまらないといった、年相応の、普通の十七歳の少女らしい自然な笑い声だった。
俺は思わず、その顔に見とれてしまった。
「あーあ。本当はハンバーガーとか牛丼とか食いたい気分だったんだけどな。これはこれでアリだな」
俺がぼやきながら、それでも硬いパンを咀嚼して飲み込むと、エリシアは笑いを含んだ声のまま淡々と返した。
「そう。それは良かったわね。……感謝しなさい」
すぐにまた、元の冷たい態度に戻る。
俺は口の中のパンを味わいながら、リンゴにかじりついた。
本当はハンバーガーが食べたい。でも、空きっ腹のせいか、これはこれで悪くない。
(……なんだ。少しくらいは優しさ、持ち合わせてるのか?)
一日中薪割りをさせられた恨みが、ほんの少しだけ薄れる。
いや、騙されるな。昼飯抜きで薪割りさせた鬼畜女だぞ。
「おい、虫けら」
エリシアが、夕日を背にしながら俺を見下ろした。
その瞳はもう笑っておらず、再び底知れない静けさを湛えていた。
「……そうね。明日はマリーと一緒に街へお使いに行ってもらおうかしら」
「はぁ。薪割りの次はお使いかよ……」
「もちろん、朝の薪割りもよ」
「客人の扱いじゃねえ……」
俺が文句を垂れると、エリシアは面白くもなさそうに鼻を鳴らした。
「って、エリシアは、ついてはいかないのか?」
「は?私が?街へ?……冗談でしょう?」
心底不思議そうな顔で、呆れたように言い放つ。
……まあ、公爵令嬢が自分でお使いに行くわけないか。
だが、エリシアは不意にその声音を落とし、静かに告げた。
「私の世界を、その目で見てみなさい」
「……え?」
意味を測りかねて顔を上げる俺に、エリシアはほんの少しだけ口元を緩め、意味深な視線を落とした。
「私について、そんなに知りたいならね」
――ッ。
俺は息を呑んだ。今朝、俺がマリーに探りを入れていたことを知っているのか?
マリーが報告したのか。それとも、単なる鎌かけか。彼女の真意は読めない。
エリシアはそれ以上何も説明せず、夕日を背にして優雅に屋敷の中へと戻っていった。
「……なんだよ、それ」
俺が知りたいのは、あんた自身のことなんだけどな。
ぼやいてみたところで、彼女に届くわけもない。
今は、そんなことより酷使した身体中が悲鳴を上げている。
とりあえず、今日はゆっくり寝よう。あの板のようなベッドで。
「……明日は、お使いか」
残りの硬いパンを口に放り込み、無理やり飲み込む。
彼女が生きる世界。それを知ることが、この理不尽な運命をぶっ壊す第一歩になるなら。
「上等だ。……やってやるよ」
俺は一つ息を吐き、痛む身体に鞭打って立ち上がった。
【処刑まで――あと29日】
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
ブックマークや評価、感想などをいただけると、とても励みになります。よろしければ、応援よろしくお願いします!




