第1話 30日後、お前は死ぬ
けたたましいブレーキ音。
横断歩道に、人影が飛び出した。
「危ない!」
考えるより先に、俺は走っていた。
その人影を突き飛ばした直後――
骨が砕けるような衝撃。
それが、十七歳のしがない高校生、神崎新一の――ひどく呆気ない人生の終わりだった。
気がつくと、真っ白な空間にいた。
――ッ!!
確かに、俺は車に撥ねられたはずだ。だが身体は、着崩した学生服ごと無傷のままだ。
そしてここは――
顔を上げると、目の前に白いワンピースを着た銀髪の少女が立っていた。
神秘的な雰囲気を纏ってはいるが、どう見ても少し眠そうなただの小学生。おまけに足元は、なぜか黄色い便所サンダルを突っ掛けていた。
「――はい。というわけで、あなたは死にましたよ」
「……とりあえず。ここは天国?」
「残念、少し違います」
「じゃあ地獄?」
「あー、それも違うかな。でも確定事項としてあなたは交通事故で死にました。そして私は――」
「死神幼女」
「違うわ!! 神様です。か、み、さ、ま!」
自称・神様は、えっへんと小さく胸を張った。
「じゃあ神様、俺が死んだと言うならここは?」
「あなたには異世界に行ってもらいます。神崎新一くん」
状況が飲み込めないまま、俺はとりあえずラノベで得た知識を総動員して口を開いた。
「えっと、つまり異世界転生的なやつですか? 剣と魔法の世界に行ったりとか。チート能力で無双できたりとか」
「剣と魔法の世界ですが、あなたにはそれを用意できませんでした」
「……はい?」
「申し訳ありません。手続き上の不備というか、私の力不足というか」
神様はぺろっと舌を出した。
少しドジっ子アピールをしているようだが、事態は深刻だ。
「いや、ちょっと待ってくれ。軟弱な一般人男子が、チート能力もなしに異世界で生き残れるのそれ……」
「たぶん。がんばればいけます」
「たぶん!?」
ふざけているのかと思ったが、神様はコホンと一つ咳払いをすると、スッと真面目な表情に変わった。
少しだけ、その幼い顔に暗い影が落ちたように見えた。
「あなたには、異世界で一人の少女を幸せにしてほしいのです」
「少女を、幸せに……?」
「彼女の名前は、エリシア・フォン・ヴァルグレイヴ。王国の公爵令嬢であり、王太子の婚約者です」
神様は、すがるような目で俺を見た。
「そして、彼女には、残された時間が30日しかありません」
「……30日後に死ぬ?」
「はい」
「なんで俺がそんなことを?」
「選ばれたからです」
「選ばれたって、絶対適当だろ」
「彼女を幸せにできれば、あなたも生きられます」
「生き返れるってこと?」
「それはあなた次第です。どうか、お願い――」
気がつけば、足元が光に包まれていた。
おい嘘だろ、有無を言わさず強制送還かよ。
俺の抗議の声は、真っ白な光の中に吸い込まれて消えた。
「いってらっしゃい」
◇
次に目を開けたとき。
俺は森の中に倒れていた。
「…………」
空が青い。
見たことのない植物。
遠くから聞こえる、聞いたことのない鳥の声。
そして――
空を、巨大な翼を持つ何かが横切った。
「……マジかよ」
頬をつねってみたが、しっかり痛い。
本当に異世界に来てしまったらしい。
ふと傍らを見ると、見慣れない革のショルダーバッグが一つ置かれていた。
中を探ると、この世界の地図らしきものと、いくらかの硬貨が入っている。
あの神様、チート能力はくれなかったが、最低限の初期装備くらいは持たせてくれたらしい。
「この地図を見る限り……とりあえず王都に行けばなんとかなるか」
幸い、現在地から王都までは歩いて行ける距離のようだ。
そこで俺は、神から聞いた少女の名前を思い出した。
エリシア・フォン・ヴァルグレイヴ。
この国の公爵令嬢。
俺が幸せにしなければならない少女。
そして――30日後に死ぬ少女。
「……どんな人なんだろうな」
公爵令嬢というくらいだ。
きっと深窓の令嬢のような、おしとやかで可愛らしい女の子に違いない。
心優しくて、儚げで。
そんな子が過酷な運命に巻き込まれているのを、俺が颯爽と助け出す。
あわよくば、ちょっといい雰囲気になっちゃったりして……。
「よし、俄然やる気が出てきた。待っててくれ、エリシアちゃん!」
俺は、まだ見ぬ『可憐で心優しい悲劇のヒロイン』の姿を勝手に妄想しながら、意気揚々と王都への道を歩き出した。
◇
半日歩いてたどり着いた王都の正面ゲートは、身分証を持たない怪しい平民が堂々と入れるような場所ではなかった。
槍を持った門番が目を光らせ、通行人を厳しく検めている。
「真正面からは無理だな……」
俺は少し離れた木陰から、門周辺の人の流れをじっと観察した。
人の出入り、荷物を運ぶ商人、門番の視線。
しばらく見ていると、特定の紋章を掲げた大きな商会の荷馬車が通る時だけ、門番の態度が緩み、談笑すらしていることに気づいた。
積み荷のチェックも形だけだ。
「……あれならいけるか」
俺はタイミングを見計らい、荷馬車が門を通過して門番の意識が御者に向いた一瞬の隙を突いて、最後尾の木箱の死角に滑り込んだ。
そのまま息を殺し、あっさりと王都の土を踏む。
情報の収集と腹ごしらえを兼ねて、裏路地にある薄暗い酒場に潜り込んだ。
カウンターの隅に座り、神様からもらった硬貨で安いエールとパンを頼む。
「なあ、ちょっと聞きたいんだけど」
俺は隣で飲んでいた陽気そうな男に声をかけた。
「俺、田舎から出てきたばかりでさ。この辺で一番偉い貴族って誰なんだ?」
「なんだ坊主、そんなことも知らないのか? そりゃヴァルグレイヴ公爵家だろ」
男は呆れたように笑い、しかしすぐに声を潜めた。
「だが、あの家には近づかない方がいいぜ。特に、一人娘のエリシア嬢にはな」
「……どうして?」
「聞いたか? またあのお嬢様がやったらしいぞ」
男の言葉に反応し、周囲の客たちもヒソヒソと会話に加わってくる。
「ああ……自分に逆らった辺境の村を、兵士に命じて焼いたって話だろ?」
「恐ろしい女だぜ。複数の鉱山を独占して、労働者を朝から晩まで死ぬほど働かせてるって噂だ」
「それだけじゃねえよ。税を払えない農民から容赦なく土地を取り上げてるらしい」
「聖女様にも執拗な嫌がらせをしてるって話じゃないか。王太子殿下にさえ平然と逆らうし、あの女の機嫌を損ねた貴族は、何人も社会的に消されてる……」
酒の勢いを借りて語られる悪評の数々は、どれもこれもドス黒いものばかりだった。
――心優しくて、儚げな、悲劇のヒロイン?
数時間前の自分の脳天気な妄想を、全力で殴り飛ばしてやりたい。
控えめに言って、極悪人じゃないか。
……そんな極悪令嬢を、どうやって幸せにしろって言うんだよ。
俺はテーブルに突っ伏して頭を抱えた。
危険すぎる。
関わらない方がいい。
俺の普通の感覚がそう警鐘を鳴らしている。
だが――神様のすがるような顔と、「残された時間は30日」という言葉が脳裏にこびりついて離れない。
見ず知らずの他人のことだ。
放っておけばいい。
なのに、一度「助けてくれ」と頼まれて、実際に30日後に死ぬ少女がいると知ってしまった以上、どうしても見捨てる気になれなかった。
「……行くしかないか」
俺は腹を括った。
安全な伝手を探している時間はない。
とにかく、本人に会わないことには何も始まらないのだ。
◇
深夜。
王都の中心部にある、ひときわ巨大なヴァルグレイヴ公爵家の屋敷。
正門には重武装の警備兵が二人立っており、話しかけられる雰囲気など微塵もない。
俺は足音を殺して屋敷の外周をぐるりと歩いた。
高くそびえる石壁。裏手側に回ったとき、一部だけ背の高い鉄格子になっている場所を見つけた。
中を覗き込もうと近づいた瞬間、肌の表面をピリッとした静電気が走るような感覚が撫でた。
(なんだ……これ?)
目には見えないが、屋敷の周囲を覆うように何かが張り巡らされている気がする。これ、普通に入れる場所じゃないだろ。
だが、奥に広がる美しい庭園のなかに、微かに人の気配がある。
「……夜なら、本人に直接会えるかもしれない」
普通の高校生が貴族の屋敷に不法侵入など、無茶苦茶だ。
だけど、俺には30日しか時間がない。悠長なことは言っていられない。
俺は覚悟を決め、見えない壁のような気配に身体を押し込むようにして、近くに生えていた太い街路樹によじ登った。
なぜか弾き返されることはなかったが、枝を伝って高い鉄格子を越えるのは命がけだった。
手を擦りむき、制服を泥で汚しながら、なんとか庭園の茂みの中へ転がり落ちる。
「痛っ……」
着地した場所は、月明かりに照らされた美しい薔薇園だった。鋭い棘が掠り、頬や腕に小さな切り傷ができる。
そして、その中央に『彼女』はいた。
青白い月光の下、まるで一枚の精緻な名画のように彼女は佇んでいた。
夜風に揺れるストレートロングの金髪は、月の光そのものを編み込んだように淡く輝く。細身の身体を包むのは、夜の闇に溶け込むような黒と、血のように鮮やかな真紅を織り交ぜた豪奢なドレスだ。
透き通るような白い肌と、静かに冷ややかな光を放つ青紫の瞳。
ただそこに立っているだけで周囲の空間を支配してしまうような、高貴で、圧倒的な美しさを放つ少女。
俺は自分が不法侵入者であることすら忘れ、一瞬、その姿に見惚れてしまった。
だが、俺の気配に気づいた彼女が振り返り、冷たい瞳でこちらを射抜いた瞬間――
その幻想は打ち砕かれた。
――ッ!
何かが鋭く風を切り、俺の頬を掠めた。
熱い痛みとともに血が流れる。
「出てきなさい」
「待ってくれ――」
俺は両手を上げ、茂みからゆっくりと姿を見せた。
彼女は俺を一瞥すると、僅かに眉をひそめた。
「……何よ、この気持ち悪い虫けらは」
紡がれた声は氷のように冷酷で、ひたすらに傲慢だった。
酒場で聞いた数々の黒い噂が、俺の脳裏でパズルのように組み合わさっていく。
厳重な公爵邸の奥深くにいること。
王族すら凌ぐような豪奢なドレス。
そして何より、人を人とも思わないこの絶対的な見下し方。
――間違いない。
この、紛れもない悪役の顔をした少女こそが、俺が幸せにすべき相手、エリシア・フォン・ヴァルグレイヴだ。
彼女の手には、投げナイフのようなものがすっと構えられていた。
「怪しい者じゃない!」
「そもそも、怪しい者が自ら『怪しい者です』と名乗るはずがないでしょう。こんな深夜に他人の屋敷で何をしているの?」
正論すぎる反論に、俺は言葉に詰まる。
「えっと、それは……」
「答えられないのね」
エリシアの纏う空気が、一段と冷酷さを増した。
「金目当ての盗賊か、それともどこかの愚か者が差し向けた暗殺者か。……まあ、どちらでもいいわ。ゴミの分別に興味はないもの」
「待てって! 俺は敵じゃ――」
「黙りなさい。何も言えない虫けら風情が。なら、ここで死ね」
彼女の腕が微かに動く。
明確な殺意。
本気で殺される。
「俺は神様に頼まれて、お前を幸せにしに来たんだ!」
咄嗟に、命綱を投げるようにありったけの声を張った。
その言葉に、エリシアは一瞬だけ呆れたように動きを止め、やがて軽蔑しきった顔で鼻で笑った。
「…………は?」
「命乞いにしても、もう少しマシな嘘があるでしょう」
「本当だ! 俺はお前を救うために――」
――ッ!!
瞬きをした次の瞬間。
数メートル離れていたはずのエリシアが、俺の目の前にいた。
冷たいナイフの刃先が、すでに俺の喉元にピタリと押し当てられている。
(……え?)
俺の目には、残像すら映らなかった。
たった一歩でも動けば、いや、唾を飲み込んだだけでも喉笛が裂かれる。命を完全に掌握されているという絶対的な恐怖が、全身を粟立たせた。
そこで初めて、俺は背筋が凍るような思いで理解した。
そうだ、忘れていた。
ここは『剣と魔法の世界』なのだ。
見た目は同年代の華奢な少女でも、名門貴族である彼女が、軟弱な一般人の俺と同じ身体能力なわけがない。
喉元に触れる冷たい刃の感触に、俺は全身から一気に血の気が引いていく。
……俺は馬鹿か。
完全に油断してた。
いくら時間がないとはいえ、まともな策もなしに公爵邸へ忍び込むなんて。
このままじゃ話を聞いてもらうどころか、不審者としてここで殺されて終わる……!
「私を幸せにするですって? 身の程を知りなさい、この薄汚い平民が!」
怒りに満ちた声で俺を見下すエリシア。
……仕方ない。
普通に話して通じる相手じゃない。
なら、俺が持っている唯一の手札を切るしかない。
俺は、激昂するエリシアの目を真っ直ぐに見据えて、事実だけを告げた。
「……30日後、お前は死ぬ」
その瞬間だった。
「――――」
ピタリと、エリシアの動きが止まった。
冷酷な悪役令嬢の仮面が剥がれ落ち、そこにはただの、年相応の少女の顔があった。
「…………え?」
ポツリとこぼれた、小さな声。
彼女は幽鬼でも見るかのような目で俺を見つめ、震える唇を開いた。
「……なぜ、それを知っているの?」
――は?
俺は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
……なぜ、この女はそんな反応をする?
俺が知っているのは、神様から聞いたことだけだ。
普通なら、そんな馬鹿な話があるかと怒るはずだ。
なのに――
まるで、自分が死ぬことを最初から知っていたみたいな反応だった。
「神様から聞いた」
俺がそう答えると、エリシアはハッと息を呑んだ。
「…………神様?」
二人の間に、張り詰めた沈黙が落ちる。
互いの腹の底を探り合うような、緊迫した数秒間。
やがて、エリシアは、ゆっくりと俺の首筋からナイフを下ろした。
そして、静かに、しかしはっきりとした声で言った。
「なら、あなたには教えておくわ」
「何を?」
青く静かに光る彼女の瞳が、俺の目を真っ直ぐに射抜いた。
「私は30日後に死ぬ運命。そして――」
一拍。
「私が死ねば――」
彼女は静かに告げた。
「――この世界は滅びるわ。」
【処刑まで――あと30日】
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