第18話 帰還と動乱の王都
【処刑まで――あと10日】
王都、セントガーディア城。
重厚な調度品に囲まれた王太子の執務室には、ひどく張り詰めた空気が満ちていた。
執務机越しに立つ初老の大臣は、額に冷汗をにじませながら、震える声で報告を続けている。
「フィラリス殿下……民衆の過激化が止まりません。このままでは、暴動が本格化する恐れがあります」
聖女アウロラの暗殺事件から、数日が経過している。
教会関係者たちが悲しみを怒りに変え、抗議活動を主導していることで、王都の空気はかつてないほど熱を帯びていた。彼らの刃はただ一人、実行犯として捕らえられている公爵令嬢エリシア・フォン・ヴァルグレイヴに向けられている。
「これ以上処刑を引き延ばせば、内乱になりかねません。さらに、我が国の混乱に乗じて、近隣国の不穏な動きが確認されております。これ以上は、国の存亡にも関わりますぞ」
切迫した大臣の言葉に、王太子フィラリス・フォン・アストリアは机上の書類からゆっくりと視線を上げた。
その瞳には、国の未来を背負う者としての重圧と、拭いきれない疲労の色が沈んでいる。
「分かっている」
「殿下?」
「何を焦る。処刑は決まっている。期日は私が決める」
王太子の低く、しかし絶対的な威圧感を伴った声に、大臣はビクリと肩を震わせた。
「国民へも伝えよ。裁きは必ず下されるとな」
有無を言わさぬ王太子の態度に、大臣は深く一礼して執務室を後にした。
重い扉が閉まる音が響く。
部屋に静寂が戻り、張り詰めていた空気がわずかに緩んだところで、王太子は窓際に控えていた側近の名を呼んだ。
「アギス」
「……はい」
影のように控えていた騎士アギスが一歩前に出る。
「準備は?」
「先代の頃より、俺たち専属部隊は、何があってもフィラリス様についていくと決めております。……準備はできている」
「……そうか。助かる」
王太子は窓の外、喧騒に包まれつつある王都の街並みを見下ろした。
「国というのは……守るべきものが多すぎるな」
その呟きは、彼が背負い込んでいる途方もない葛藤をにじませて、虚空へと溶けていった。
◇
「――ん……」
微かなスープの匂いに誘われ、俺はゆっくりとまぶたを開けた。
見慣れない天井。魔女タバサの家だ。
身体を起こし、右手を確認する。手の甲には、黒と深紅が混じり合った契約の聖痕が刻まれていた。
部屋の奥では、タバサがすでに起きていて、テーブルの上に硬いパンとスープを用意してくれていた。
「ゆっくり眠れたみたいだね」
「……いただきます」
テーブルにつき、硬いパンを千切ってスープに浸し、口へ運ぶ。
素朴な味が口の中に広がった瞬間、俺の脳裏に、かつてエリシアの屋敷で食べた朝食の風景がよみがえった。
不器用な彼女が差し出してくれた、硬いパン。
あの何気ない日常を取り戻すために、俺は力を手に入れたのだ。彼女を救わなければならないという決意が、再び腹の底で固まる。
ふと、屋敷に残してきたマリーのことが頭をよぎった。
「なあ、タバサ。俺を逃がすために残ったメイド……あいつは、無事だと思うか?」
口にしてから、無意味な質問だと自分でも思った。ここにいる俺たちに分かるはずがない。
「さあ。私に分かるわけないじゃん」
タバサの返答は、予想通り素っ気ないものだった。
彼女は紫煙を細く吐き出し、灰紫色の瞳で俺を見据えた。
「でも、シンちゃんがここで立ち止まったって、答えが分かるわけじゃない。それだけは確かだね」
淡々と現実を突きつけるその言葉に、俺はハッとした。
そうだ。ここで不安がっていても何も解決しない。まずは王都へ戻り、行動を起こす。すべてはそこからだ。
「……そうだな。行くよ」
俺が立ち上がると、タバサは特に引き留めることもなく、いつもの気楽な調子で見送ろうとした。
扉に手をかけた時、背後から声がした。
「シンちゃんさ、」
振り返ると、タバサは一瞬何かを言い淀むように視線をさまよわせた。
しかし、すぐにいつもの飄々とした笑みを浮かべる。
「……いや。なんでもない。まあ、頑張りなよ」
ヒラヒラと手を振る魔女に見送られ、俺は家を出た。
湖畔の静けさを背にして、結界の境界線を抜ける。
すぐに振り返る。しかし、そこにはただの鬱蒼とした雑木林が広がっているだけだった。奇妙なツリーハウスも、巨大な月も、跡形もなく消え去っている。
「……ありがとう」
俺は誰もいない森に向かって短く呟き、王都を目指して歩き出した。
◇
タバサの領域から王都までは、歩いて四日かかる。
道中、俺は歩き続けながら、借り受けた『空間を跳躍する魔法』をどう使うべきか考えていた。
安全に使えるのは、一度きり。二度目は命を落としかねない。
パンデモニウム監獄へ直接移動するのは危険すぎる。内部構造も分からず、かつてギークが言っていたように脱獄は不可能に近い。それに俺まで捕まれば終わりだ。
移送中を狙うにしても、日時やルートが分からない。
残るは、処刑当日、処刑台へ直接移動して救出する方法だが、そもそも俺がエリシアを連れて一緒に移動できるのかどうかも試していない。
考えても、情報が圧倒的に足りない。
まずは王都へ戻って情報を集める必要がある。軽率に力を使うわけにはいかないのだ。
◇
四日後。
王都の門をくぐった俺の目に飛び込んできたのは、異様な熱気に包まれた街の姿だった。
「聖女様の仇を討て!」
「エリシアを処刑しろ!」
通りには教会の旗を掲げた集団があふれ、過激な怒号を上げている。街全体が、エリシアを敵視する空気に完全に呑まれていた。
処刑の具体的な日取りはまだ公表されていないらしいが、俺が召喚されてからの時間と三十日という制約を考えれば、残された時間はおそらくあと五日ほどだ。
俺は人混みを避けながら、マリーがいる可能性を考えてヴァルグレイヴ邸へと向かった。
しかし、屋敷の門は固く閉ざされ、王国の騎士たちによって封鎖線が張られていた。中へ入ることはできない。マリーが無事なのか、屋敷の中にいるのかさえ分からない。
不安が胸をよぎるが、ここで立ち止まっていても何も分からない。俺は踵を返し、別の手がかりを求めて中央広場へと向かった。
中央広場に近づくと、その中心に巨大な処刑台が建設され始めているのが見えた。
エリシアの処刑が現実のものとして迫っていることを視覚的に突きつけられ、胃の奥が重くなる。
「貴様!! なんと言った!?」
不意に、広場の端から剣呑な怒号が響いた。
視線を向けると、教会の旗を持った民衆が、一人の若い商人に激しく詰め寄っているところだった。
「だから、俺は、エリシア様が犯人だとなんでわかるんだと言ったんだ」
「貴様もあの悪魔の女の手下なのか!?」
どうやら商人が、エリシアが聖女を殺害したという確かな証拠があるのかと疑問を口にしたらしい。狂気に当てられた群衆が、彼を壁際へ追い詰めていく。
俺にはエリシアを救うという目的がある。今ここで騒ぎを起こすべきではない。頭では理解していたが、エリシアを一方的に悪女と罵る声への苛立ちと、集団に理不尽に追い詰められている人間を見過ごせないという思いが、俺の理性を上回った。
「やめろよ」
思わず口をついて出たその一言に、群衆の視線が一斉に俺へと向いた。
「お前もあの悪女を擁護するのか!」
血走った目をした男が詰め寄り、腰の剣を抜いた。
チャキ、という冷たい金属音が響く。
俺は一瞬、動きを止めた。素人の俺が、怒り狂う武装した相手を無傷でやり過ごせる状況ではない。どうするべきか判断が遅れる。
その瞬間、誰かに腕を強く引かれた。
「――こっちだ!」
バランスを崩した俺は、そのまま薄暗い細い裏路地へと引き込まれた。
背後から怒号が聞こえる。だが、俺の腕を引っ張っている人物は、入り組んだ路地を迷いなく進み、足を止めない。
路地の奥深くに入り込んだところで、ようやくその人物が立ち止まった。
薄暗がりの中、灰色のローブをまとった人物が、ゆっくりとフードを下ろす。
日に焼けた肌。
栗色の髪をまとめたポニーテール。
見覚えのある顔だった。
ガレイド王国の竜騎士、マコト・ハーリア。
驚きで声も出せない俺の顔を見て、彼女はふっと小さく息を吐き、静かに告げた。
「……やはり、君だったか」
【処刑まで――あと5日】
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