第17話 魔女の契約
【処刑まで――あと10日】
「シンちゃんはさ、何が欲しいの?」
テーブル越しにぬらりと覗き込んでくるタバサの瞳が、光の一切を吸い込むような漆黒の底なし沼へと変わっていた。
俺は息を呑んだ。
背筋を駆け上がる本能的な恐怖を必死に押さえ込み、震えそうになる声に力を込める。
「……力が欲しい」
「力?」
「エリシアを助け出すための、力だ」
「ふーん……」
タバサは長い指でワイングラスの縁をなぞりながら、少しだけ首を傾げた。漆黒だった瞳が、また気だるげな灰紫色へと戻っていく。
「でもさ、それって本当にそのお姫様が望んでることなのかな? 自分が死ぬことで、丸く収まるって思ってるかもしれないじゃん」
その飄々とした問いに、俺の胸がチクリと痛んだ。
そうだ。エリシアは不器用で、いつも独りで背負い込もうとする。もしかしたら、タバサの言う通り、すべてを諦めて死を受け入れようとしているのかもしれない。
俺は、彼女の本当の望みなんて分かっていない。
だけど。
「……エリシアが本当はどう思っているのかは、わからない。俺のひとりよがりかもしれない」
ぎゅっと拳を握り、俺は魔女の瞳を真っ直ぐに見返した。
「でも、関係ない。誰かに言われたからじゃない。俺が、彼女に生きていてほしいんだ。これは俺のエゴでもいい。だから、今彼女に届く力が欲しい」
静寂に包まれた秘密基地のような部屋に、俺の言葉だけが響いた。
タバサは煙草をくわえたまま一瞬少しだけ目を丸くした。
――やがて、フッと小さく息を吐いた。
「あっそう。まあ、いいよ。力というものをどう捉えているかわからないけど、望んでいるものを貸したげるよ」
彼女はワインを呷ると、グラスをテーブルにコトリと置いた。
「でも、タダってわけにはいかないよ。私との契約には、相応の対価が必要だからね」
「金なら……ないぞ」
「あはは、いかにも人間らしい模範的な答えだね。私は、お金なんて興味ない」
タバサは空中で指を軽く弾いた。
すると、何もない空間から、一枚の古びた羊皮紙のようなものがふわりと現れた。紙なのかどうかもわからない奇妙な質感。そこには、見たこともない複雑な文字がびっしりと刻まれている。一文字たりとも読めない。
「タバサ……これ、何が書いてあるんだ?」
「契約書」
「見ればわかる。そうじゃなくて……」
俺が食い下がろうとすると、タバサは気にした様子もなく、宙に浮く契約書の一番下をトン、と長い爪で弾いた。
「君の『魂』を、ほんの少しだけのぞかせてもらう。それが今回の取引の対価」
「魂を……のぞく?」
背筋が粟立った。
記憶を読まれるのか? それとも、自分の存在そのものを改変されるのか?
何もわからない。ただ、直感が「やめておけ」とけたたましく警告している。
「契約するなら、ここに記すのさ。名前じゃない。お前自身の魂を、ここにね」
迷いはあった。この得体の知れない魔女に魂をのぞかれることが、どれほど危険なことなのか。
だが、頼れる相手は他にいない。処刑の日は刻一刻と迫っているのだ。
俺は覚悟を決め、タバサが指し示した空白の場所へと右手をかざした。
――ジュッ!
手の甲を焼きごてで焼かれたような激痛が走り、俺は短い悲鳴を上げた。
手を引っこ抜くと、手の甲には黒と深紅が混じり合った、禍々しい幾何学模様のような聖痕がくっきりと浮かび上がっていた。
その上に、黒い複雑な文字が浮かび上がった。
空中に浮かんでいた契約書は、音もなく黒い闇へと溶けて消えていく。
「はい、契約完了〜」
「……ぐっ……!」
タバサの楽しげな声を遠くに聞きながら、俺は視界がぐらりと歪むのを感じた。
激しい目眩。身体の奥底、血管や神経とは違う、もっと深い場所に、冷たくて重い異物が一気に流れ込んでくる感覚。
「ふふ。おやすみ、シンちゃん」
タバサのその言葉を聞いた直後、俺の意識は急速に暗転した。
身体から力が抜け、意識が深い闇へと落ちていく。
ただの強い眠気なのか、それとも契約によって何かが起きているのか、抗う術を持たない俺にはもう分からなかった。
◇
どれくらい時間が経ったのか。
暗闇の中で、俺は自分自身の姿を認識していた。
周囲には何もない。音も、光も、自分が立っている地面の感触さえ曖昧な、完全な虚無の空間。
次の瞬間、目の前の空間が歪んだ。
どす黒い闇でできた楔が現れ、俺の胸へと一直線に迫る。
「――っ!」
避ける間もなかった。
楔が心臓に突き刺さった瞬間、身体の奥底で何かがこじ開けられた。
黒い亀裂が胸から腕へ、首へと走っていく。血管でも神経でもない。俺という存在そのものに、何かが刻み込まれていく。
指先が黒くほどけ、闇の中へと溶け始めた。
消える。
俺自身が、この世界から消えてしまう。
エリシアを救えていない。マリーがどうなったのかもわからない。真相にさえ、たどり着いていない。
こんなところで、終われるか。
必死に手を伸ばす。だが、何もつかめない。
最後まで胸に突き刺さった楔だけが、俺の中に残り続けていた。
そして――。
◇
「――っ!」
大きく息を呑み、俺は勢いよく目を覚ました。
荒い呼吸が乱れ、心臓が激しく脈打っている。
反射的に胸元へ手を当てた。傷はない。血も流れていなかった。
それでも、心臓を貫かれた異物感と、自分という存在が溶けていく恐怖だけが、妙に生々しく身体にこびりついている。
「……なんだ、今の……」
夢だったのだろうか。
そう考えながら右手を下ろしたとき、手の甲に強烈な違和感を覚えた。
そこには、黒と深紅を基調とした禍々しい幾何学模様が浮かび上がっていた。
夢の中で心臓に突き刺さった闇の楔。その亀裂を凝縮したような、不気味な紋様だった。
「おはよ〜。と言っても、ここは夜しかないけど」
顔を上げると、タバサがソファーでワイングラスを片手に、こちらを眺めていた。
「……俺、どのくらい眠ってたんだ?」
「さあ。三時間とか? まあ、そのくらいじゃない」
タバサは気だるげに答えた。
「魔力のない人間に私の魔力を分け与えたんだから。そりゃ気絶くらいするよね〜」
「分け与えた……?」
「そう。君には魔力がほとんどない。でも、魔力を通すための『魔法回路』自体は存在していた。だから、私の魔力を君の細い回路へ強引に接続してあげたのさ」
タバサは俺の右手を指さした。
「その紋様は契約の証。私の魔力が接続された痕跡でもある」
俺は改めて、自分の手の甲を見つめた。
これが、俺の得た力の証なのか。
「でも、勘違いしないでね。君の魔力なんて、私から見ればそこら辺の虫レベルじゃん?」
「……エリシアのようなこと言うな」
「あはは。事実だし?」
悪びれる様子もなく、タバサは煙草の煙を吐き出した。
「だから、私の力を無理に使えば身体が持たない。今の君が安全に使えるのは一度限り。二度目は命の保証はない。死ぬ」
「一度限り……」
俺は無意識に右手を握りしめた。
たった一度。それを、いつ使うのか。
考えただけで、胃の奥が重くなった。
「……わかった。肝に銘じておく」
「ん〜? なんかさ〜」
だが、タバサは妙な顔をした。
「シンちゃんさ。君、自分が何を手に入れたのか、本当にわかってる?」
「……どういう意味だ?」
「一度しか使えない。身体が持たない。命の保証がない。さっきからそんな話ばっかりしてるけどさ」
タバサはグラスをテーブルに置き、ゆっくりと立ち上がった。
「君、力の使い道を全然わかってないじゃん」
「使い道って……」
「ま、口で説明するより、見たほうが早いか」
タバサは俺の前まで歩いてくると、何のためらいもなく右手を差し出した。
「ほら、シンちゃん。手」
「……は?」
「手だよ、手。早く」
言われるままに右手を差し出すと、タバサは俺の手を取った。
細い指が、俺の手を軽く握る。
「それじゃ、ショータイム」
「ショータイムって――」
瞬きをした。
たった、それだけだった。
次の瞬間。
「……何!?」
足元の感触が変わっていた。
薄暗い室内も、紫色の煙も、ワインの匂いもない。
俺は、見知らぬ場所に立っていた。
崩れかけた石壁。欠けた手すり。長い年月を経て風化した床石。
足元には、雑草が石の隙間から伸びている。
目の前に広がっていたのは、朽ち果てた高地に建てられた古城のテラスだった。
だが、そんなものは一瞬で意識の外へと押し流された。
「……なんだ、これ……」
俺は言葉を失った。
眼前に広がる世界。
空の半分は、燃えるような夕日に染まっていた。
地平線へ沈みゆく太陽が、雲を真紅と黄金に焼き、果てしなく広がる大地を照らしている。
その一方で、反対側の空には深い夜が広がっていた。
濃紺の闇がゆっくりと世界を覆い、そこには無数の星が瞬いている。
夕日と夜。光と闇。
二つの世界が、境界線を挟んで同時に存在していた。
まるで、世界そのものが二つに裂けてしまったかのような光景だった。
俺は息をするのも忘れ、ただ立ち尽くしていた。
「――こういうこと」
隣から、タバサの気の抜けた声が聞こえた。
「力ってのはさ、使い方次第で世界の見え方そのものが変わるんだよ」
タバサは崩れかけた手すりに腰を預け、夕日と夜の境界線を眺めながら煙草をふかした。
「君が借りたのは、野蛮な攻撃魔法なんかじゃない。離れた場所だろうと、普通なら行けない場所だろうと……空間そのものを、丸ごと飛び越えていく力さ」
「ま、君の身体じゃ、何度も使えるものじゃないけどね。そこは変わらないよ」
俺は自分の右手を見下ろした。
黒と深紅の紋様が、夕日の光を受けて微かに浮かび上がっている。
これが、俺の得た力。
俺には魔法の才能なんてない。
誰かを圧倒するような剣技も、世界を変えるような知識もない。
それでも。
たった一度でも、今まで届かなかった場所へ手を伸ばせるのなら。
エリシアを救うための道が、ほんの少しでも残されているのなら。
「……ああ。ありがとう」
俺は顔を上げた。
夕日が沈み、夜が世界を完全に覆おうとしている。
残された時間は少ない。それでも、まだ終わってはいない。
――必ず、エリシアを救い出す。
その決意だけは、もう揺らがなかった。
◇
「……で?」
「……え?」
「シンちゃん、いつまで黄昏れてんの? 帰って飲み直そう」
「……あ、はい」
せっかく決意を新たにしたというのに、タバサの一言で妙に締まらなくなった。
けれど、不思議と悪い気はしなかった。
この得体の知れない魔女は、俺に力を与えた。
そして、その使い方を示してくれた。
あとは、俺がやるだけだ。
【処刑まで――あと10日】
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