第16話 最果ての魔女
【処刑まで――あと12日】
世話になった村の老人とその娘に別れを告げ、俺は再び歩き出した。
歩きながら、アウロラから託された古い羊皮紙の地図と、昨夜見た星の配置を改めて脳内で照らし合わせる。
地図に描かれた三つの連なる山、湾曲した川、古い遺跡の位置。それらの地形と東の空に輝く「導きの星」の並びを組み合わせることで、目的地となる観測地点を割り出していく。
だが、地図上の情報を実際の風景と結びつけるのは、決して容易な作業ではなかった。
分かれ道に出くわして進路に迷い、地図と周囲の地形を見比べては何度も立ち止まる。昼間は山並みや川の形状から現在地を推測し、夜になれば東の空に高く上がる星座を見上げて、自分がいま向かっている方角が間違っていないかを確認した。
村を出てから、丸二日が経とうとしていた。
目的地に近づくにつれて、街道を行き交う人々の姿は完全に消え、周囲の景色は深く険しい森と山地へと変わっていった。
疲労と空腹が、容赦なく体力を奪っていく。靴底はすり減り、足はまるで鉛のように重い。老人が持たせてくれた干し肉とパンを少しずつかじりながら、なんとか歩みを止めずに済んでいた。
エリシアの処刑の日が、確実に迫っている。その焦りが絶えず胸を焼いていた。それでも、俺は決して立ち止まらなかった。
村を出て三日目の昼下がり。
鬱蒼とした木々が立ち並び、獣道すら存在しない、人の気配など欠片もない場所。俺はついに、地図と星の配置が示す地点の正面にたどり着いた。
そこで立ち止まった時、目の前の景色に奇妙な違和感を覚えた。
木々と木々の隙間。何もないはずの空間に、不自然なほど真っ直ぐな細い道が口を開けていたのだ。
まるで、最初からそこにあったのに、正しい条件を満たして真っ直ぐに見つめない限り、絶対に認識できないように隠されていたかのように。
ごくりと息を呑み、俺はその隠された道へと足を踏み出した。
バチッ。
見えない境界を越えた瞬間、全身にピリッとした静電気のような感覚が走った。
エリシアの屋敷の裏口から忍び込んだとき、結界に触れたあの感覚とよく似ている。この場所は、外の世界から完全に隔絶されているのだ。
道の先は、光の届かない長い暗闇になっていた。
振り向いても、すでに入口の木々の景色は見えない。戻る道はなかった。俺は恐怖を必死に押し殺し、ただ前だけを見て暗闇の中を進み続けた。
どれくらい歩いたのか。
やがて、暗闇の向こうに淡い光が見えた。
光を抜けた先で、俺は息を止めて立ち尽くした。
目の前には、鏡のように澄み切った静かな湖が広がっていた。
だが、俺を絶句させたのはそれだけではない。森の結界を抜ける前は明るい昼下がりだったはずなのに、頭上にはインクをぶちまけたような深い夜空が広がっていたのだ。時間の感覚が完全にバグっている。
そして何より異様なのは、空を覆う月だった。
外の世界で見ていたものの数倍――いや、数十倍はあろうかという巨大な月が、空の半分を押し潰すような圧倒的な質量と威圧感を放って浮かんでいる。
水面には波ひとつなく、風の音さえ遠い。
世界から切り取られたような、ひどく静かで狂気的な美しさを持つ場所だった。
ふと、湖の対岸にいくつもの温かなランタンの灯りが揺れているのに気づいた。
近づいていくと、湖上にせり出すように建てられた、ツリーハウスとログハウスを足して割ったような奇妙な家が見えてきた。
アウロラが残した道標の終着点。エリシアを救うため、残されたわずかな可能性に賭けて俺はここまで来た。
あの家に誰がいようと、もう引き返すつもりはない。
静寂に包まれた湖畔の空気を深く吸い込み、俺は真っ直ぐに、その灯りを目指して歩き出した。
◇
「……あの、すみません」
半開きのドアの隙間から恐る恐る声をかけ、俺は家の中へと足を踏み入れた。
そこは、子供が夢見る秘密基地をそのまま具現化したような空間だった。
天井からは無数のランタンやドライフラワー、鳥の骨のオーナメントが吊るされ、壁際の棚には色とりどりの液体が詰まったガラス瓶や、古い天球儀、羅針盤が所狭しと並んでいる。床には幾重にも絨毯が敷かれ、分厚い魔導書がいくつもの塔を作っていた。
ひどく散らかってはいるが、不思議と不潔な感じはしない。むしろ、何時間でも探索したくなるような居心地の良さすら漂っている。
ふわりと、紫煙と甘い酒の匂いが鼻をかすめた。
部屋の奥。本に埋もれるように置かれたアンティークのソファに、一人の女性が深く腰を沈めていた。
見た目は20代後半ほどだろうか、漆黒のロングヘアに、黒いロングドレス。胸元が大きく開いたその意匠は、豊満な谷間と青白い肌のコントラストを際立たせている。壁には紫の宝石があしらわれた大きなつばの魔女帽子が掛けられており、スカートの深いスリットからは、ガーターベルトに締め付けられた滑らかな太ももが惜しげもなく投げ出されていた。
彼女は長い指に挟んだ煙草をくわえながら、もう片方の手でワイングラスを軽く揺らしている。
「君か、私の領域に土足で踏み込んできたやつは」
気だるげな声。長く流した前髪の隙間から覗く灰紫色の瞳が、面白そうに細められて俺を捉えた。
「それにしても、よくわかったね。ここが」
彼女は煙草の煙をふっと吐き出し、言葉を続ける。
「ここはね、誰にも見つけられない秘密の場所なんだ。誰かに教えてもらった?」
「地図をもらいました」
「地図?」
俺が答えると、彼女はよっこらせとソファから立ち上がった。ヒールを鳴らして近づいてくると、俺の顔を覗き込むように身を屈める。
鼻をかすめる煙草と酒の匂い。じっと見つめてくる灰紫の瞳に、敵意はない。ただ純粋な興味だけがあるように見えた。
(なんなんだ……大丈夫か、この人)
エリシアを救うため、わずかな手がかりを頼りにここまでたどり着いた。だが、目の前の女性が何者なのか、俺にはまだ知る由もなかった。
胸のポケットから羊皮紙の地図を取り出して見せると、彼女はそれを受け取り、ひどく懐かしそうに口角を上げた。
「へえ、懐かしいね〜。これ、私が描いた地図だよ」
「……え?」
「何百年前だったかな。もう忘れちゃった」
「数百年……!?」
俺が思わず大きな声を上げても、彼女は大したことではないかのように、ワイングラスをテーブルに置いた。
「細かいことはいいじゃん。せっかくの客人だ。ほら、座って一緒に飲もうよ」
「あの、俺、十七歳なんですけど……」
「はは。なら飲めるじゃん?」
彼女はそう笑うと、新しいグラスに琥珀色の液体を注ぎ、俺の前へ押し出してきた。
ツンと鼻を突く強い酒の匂い。その瞬間、俺の脳裏に『追悼式の晩餐会』の光景がフラッシュバックした。
アウロラの杯に盛られていた毒。誰が仕込んだとも知れない、不可視の死の恐怖。
これを飲んでも、本当に大丈夫なのか……?
グラスを見つめて躊躇する俺の考えを見透かしたように、彼女はふっと口の端を上げた。
「大丈夫。安心しなよ。何も入っちゃいない。ここはあんたの見てきた外とは別の場所だから」
その言葉の本当の意味はわからなかったが、どこか見透かされたような感覚に、俺はひとまず安堵の息を吐き、グラスを受け取って一口だけ口をつける。喉の奥が微かに熱くなった。
「……俺の名は新一、あなたの名前は?」
「なまえ?名前なんて、そんなに意味ないと思うけどね〜」
彼女は少し考えるような表情を浮かべてから言った。
「じゃあ、タバサとでも呼んで」
「タバサ……?」
「え?魔女といえばタバサじゃん?」
タバサと名乗った魔女は、ソファにどさりと座り直し、ふぅ、と煙草の煙を吐き出した。紫煙が天井のランタンの光に溶けていく。
それが本名なのか、ただの思いつきなのかはわからない。
「じゃあ乾杯」
「……何に?」
「何に乾杯にしようかな? んー、まあ、私がタバサという名を名乗ったことに乾杯としようか」
「そこは、はじめましてに乾杯とかじゃないんだな」
「あ? ああ。そうか。そうだね。それでもいいよ」
タバサの自由奔放すぎる会話のテンポに、すっかり毒気を抜かれてしまう。
俺はふうっと息を吐き、居住まいを正して本題を切り出した。
エリシアという少女が、身に覚えのない罪で処刑されようとしていること。彼女を救いたいけれど、俺には魔法の才能も、誰かを倒せるような特別な力もないこと。
必死に自分の無力さと事情を説明しようとする俺の言葉を、タバサが不意に遮った。
「ああん? てか、君……外の人間じゃん」
「……外? なぜわかる」
「そりゃね。違うから。」
「違う?」
「それにしても、だいぶヤバいものに巻き込まれているね、君等」
俺は「君等」という言い方に引っかかった。
(……君等?)
タバサが俺のことを「異世界から来た」と見抜いているのか。それとも「外の人間」という言葉に、別の意味が込められているのか。
だが、タバサはそれ以上深く語らず、ただ煙草の灰を落としながら俺を見つめた。
「で、捕まっちゃったお姫様を助け出したいと?」
「……ああ」
「最初に言っておくけど、たぶん私は君の味方じゃないよ」
「……じゃあ、敵なのか?」
「それも違うねー。私にとって、この世界の善悪なんてものには興味がない」
きっぱりと言い切るタバサの灰紫の瞳は、冷淡というよりも、本当にこの世界の出来事に関心がないように見えた。俺の悲惨な事情に同情して力を貸してくれるような、都合のいい善人ではないのだ。
「でも、あー、なんだっけ」
「……新一」
「あーそう。シンちゃんの運命には少し興味がある」
「……運命?」
「まーいいや。取引しようか」
「取引?」
「シンちゃんはさ、何が欲しいの?」
ふらりと立ち上がったタバサが、さっきまでの気だるさが嘘のような、ぬらりとした人間離れした動きでテーブル越しに俺の顔を覗き込んできた。
その瞬間だった。
気だるげに細められていた彼女の瞳が、どこまでも深い漆黒へと変わった。光の一切を吸い込むような、底知れない黒い穴。
――蛇に睨まれた蛙のように、俺は身動きひとつ取れなかった。
本能が警鐘を鳴らす。目の前にいるのは、ただのグラマラスな変人ではない。理の外に立つ、本物の魔女なのだと。
【処刑まで――あと10日】




